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京都国立博物館・海北友松展を観覧

“モリかカケか、というが野党のザルではどうしようもない”などという戯言があるようだ。獣医学部の新設についての規制緩和は民主党政権時代から始まった課題だったという。だが、首相周辺の人間が規制緩和の隙間に乗じて私腹を肥やしているという図式の疑惑は消えない。これを“疑惑ではない、そんな問題はない。”と政権が言うのならば、その主張の根拠を政権側が示すのは当然であろう。それをやらずに、逆に問題の焦点にある人物の人格攻撃をして、怪しい人物の主張は成立しないという論点すり替えに終始するのは、疑惑をいつまでも長引かせてしまうことになる。
井上達夫教授の言によれば“政権のダメージ・コントロールが拙劣になっている。”と言う。つまり不都合を全否定することによって下手をすれば、自らもダメージをまともに受けることになってしまった、というのだ。それほど政権中枢の官邸は冷静さを失っているのだろうか。
もしそれでもこの政権が持ち堪えるなら、さらなるリークが官僚側からあるかも知れない。政権による腐敗と官僚の忖度はかなりの部分にまで及んでいると、私は推測している。官僚のリークと言う点で米トランプ政権と全く同じ状況になっていると思っている。

こうした問題を少し引いて俯瞰して見ると、かつて官主導の政治を政治家主導に切り替えると言って、官邸へ権力を集中させたことの結果として、権力者・首相周辺での疑惑が生じているのだ。つまり政治家の利益誘導が疑われる事態となっている。この図式はやはり放置できない。では、どうすれば良いか。
モリでもカケでも生じた障害は、文書・記録の存在であり、その正当性の問題である。これは約20年前、厚生省薬害エイズ事件でも通称「郡司ファイル」の存在が問題になったことがあるが、官僚の作成した文書の公文書化、正規の記録化が進んでいないことによるのではないか。最近では自衛隊での問題があった。つまり法規制によって、どのレベルの文書・記録をどの期間に公式に残すべきなのか明確に規定していないので、常に その存在を巡って右往左往することになる。さらに作られた文書・記録であっても、官僚の恣意によって廃棄・消却も可能となっているのだ。たとえ廃棄していなくても、“無い”と強弁できることになる。また、それによって、政官の不正が覆い隠されていることを強く認識するべきだ。敗戦直後、軍人・官僚が後難を恐れ多くの公文書が焼却したため、その後の歴史検証の研究に支障をきたしているという。
“歴史は文字によって作られる”、つまり記録によって、歴史は構成されるのだ。この伝で言うと、日本の歴史は近代にあっても確かな歴史を跡付けられていないことになる。これで日本が近代的国家、世界の先頭を切って進む国の姿だと胸を張って言えるだろうか。文明夜明けの国のレベルではないのか。国の基本を無視し、放置して良い問題ではない。

一方、組織犯罪処罰法案が衆議院を強行的に通過した。これに対し、国連特別報告者ケナタッチが、「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ組織犯罪処罰法改正案はプライバシーを不当に制約する恐れがある、との書簡を日本政府に送ったという。この特別報告者は、国連人権理事会の下で「表現の自由」など各地の人権問題を調べる専門家であるという。国会審議の状況を「深刻な欠陥のある法案をこれだけ拙速に押し通すことは絶対に正当化できない」と批判している、という。
政権側、例えば安倍首相は“一般市民は対象になりません。”と言うが、警察官僚出身の自民議員は捜査対象は一般市民を対象に行うことで、シロクロを明確にして立件するものだから、それはあり得ないという意味の発言をしていた。つまり、“一般市民は対象にしない”となれば捜査そのものが成立しないことになるという、極めて論理的な説明だった。
だから、私は前回 安倍首相が“一般市民は対象になりません。”と言うのならば、それを条文にして欲しいと言ったのだ。そもそも“一般市民”を定義するなど不可能なことだ。そういった曖昧な言葉で“一般市民”を誤魔化して法案成立を強行するのは、独裁者のやり口なのだ。
安倍政権に対するケナタチ氏はは“抗議は怒りの言葉が並べられているだけで、全く中身がない”と反論したという。つまり、法理論に則った論理的な抗議になっていないということだ。こういう事が起き、欧米の通信社を通じて世界に配信されるとどうなるのか、政権には想像力に欠けるところがあるのではないか。
“「自由と法の支配」に中国は従うべきだ”と安倍首相は胸を張って説くが、この言葉がウソではないかと欧米人は見るようになるのではないか。つまり、極東の日中朝は“実は同根”なのだとの意識が、欧米知識人の潜在意識に入り込んで行くのではないだろうか。

さて、“中国の山東省と海南省で三月に日本人男性六人が拘束された”という。これは中国の反スパイ法によって、拘束されたということのようだ。この反スパイ法にも適用範囲が治安当局の任意で如何様にもなるという曖昧な規定になっている点で組織犯罪処罰法案と同じようなものだ。だから、欧米人は中国や北朝鮮を非民主的で政治的に胡散臭い国々と見ているのであり、日本の政権も実はその仲間ではないかと見るようになるだろう。
ところで、この6人以外に中国当局によって拘束され消息不明になっている日本人は5人も居るということだ。だが、日頃、“国民の生命・財産を守る”と称してはばからない、安倍政権が“自由と法の支配”に基づいて執拗に中国に抗議し続けているという報道は寡聞にして聞かない。一体、どういうことだろう。翻って、同じように中国当局者によって拘束されている米人は居るのだろうか。居れば、米当局は執拗に解放を要求しているのではないだろうか。事実はどうなのだろう。こういう日本政府の怠慢が、北朝鮮拉致被害を拡大したのではないか。そして、安倍氏はこの拉致被害者解放を声高に叫ぶことで政治的に利用しているだけなのだ。安倍氏は、今直ちに中国に不法に拘束されている日本人の解放を要求するべきだが、何故か意識的に放置しているとしか思えない。

前書きが思わず長くなってしまった。安倍政権の問題が多すぎるのだ。にもかかわらず、支持率が高いのはどういうことなのだろうか。もうこの話から離れよう。本題が短くなってしまう。
さて、今回の本題に入りたい。
先日19日、京都国立博物館平成知新館で開催された“開館120周年記念特別展覧会海北友松展”に行った。既に終わった催しだが、今回はこれを紹介したい。“この絵師、ただもの ではない!” 北近江の浅井家に仕えた“武家に生まれ、桃山を生きた”巨匠である。とは言うものの、実は60歳前後より以前の経歴は明らかでないらしい。
実をいうと、昨年ダリ展が京都に来ていたが、その内と思っている間に猛暑が過ぎ気が付くと終わっていたことがあった。これが残念で、今回は逃すまいとは思ってはいたが、気づくと既に会期末だったのだ。とにかく午後に京都で研修会のある日に合わせて、午前に展覧会に出かけることにしたのだった。

神戸から阪急電車で終点・河原町へ。河原町から京阪の祇園四條まで歩き、京阪・七条から国立京都博物館へ向かう。10時前に到着。
すでに観覧者はつめかけていたが、大混雑と言うほどではなかった。前週の日曜日に家族は訪れていて、その時は入場制限が約30分あったというが、そういう状態ではなかった。それでもなお、様々な観覧スタイルをとる人が居て少々イラつく場面もあった。さっさと見て回るために、音声ガイドをレンタルした。

最初に見た絵は、息子・友雪が描いたという友松夫妻がくつろいで絵をみている図だ。その図上に賛文があり、漢文によるものなので解説によれば、そこには友松の出自や画蹟、交友などをびっしりと書き込まれているという。そのエピソードによれば、真偽はともかく次の話があるという。友松の親友に明智光秀の重臣・斎藤利光と真如堂の東陽坊長盛がいたが、利光は本能寺事件で処刑され遺骸が曝されたので、友人を弔うため友松は長盛とともに警備を追い払って奪還し、真如堂に手厚く葬ったという。
その後 友松夫妻は斎藤利光の遺族の世話をしたとの事だが、その娘が徳川家光の乳母となる春日局であったという。戦国の人間関係の綾が紹介されていて面白い。
誤落芸家[あやまりてげいかにおつ](浅井家の剛の者)武家の出身だったが、誤って芸家(絵師)に身を落としてしまった。あわよくば時運に乗じて武門再興をはかりたいと、友松は家族に言っていたとのこと。友松は父の戦死後、東福寺に預けられそこで修業し、ここで和尚の紹介で狩野派に学んだとのことだが、詳細は明確でないそうだ。先ほど述べたように、作品も60歳前後以降しか明らかに残っていないとのことであった。

後は、様々な絵が並ぶが、多くは建仁寺に残ったという。有名な龍の絵も そういえば建仁寺のものだ。このため建仁寺は友松寺とまで呼ばれたという。
60歳以降の作品群とは言え、画風が結構変化、つまり進化しているように思える。描く場によるのかも知れないが、墨絵から金碧画に変化する時代がある。これも建仁寺の襖絵になったものらしい。確かに狩野派風で豪華である。
墨絵の風景画は、人の見た目で描いているように思われる。というのは、人が意識して見る部分は結構細部にこだわって描かれているが、風景のあまり意識しない部分、山際や水際などは省略して薄く描いている。そのためか、全く不自然には感じない画作になっている。
ここで感じたことを 細かく書く才がないので、この程度の紹介にしておく。

それにしても、60歳以降の作品だけで、歴史に名を残せるものなのだ、と改めて思う。最近の日本のミュージシャンの多くは、老成して新曲を発表する人は少ないように感じるが、画家はそうではないのだろうか。今人気の伊藤若冲も老齢時の作品がもてはやされているのではないか。現代の画家も多くはそのように感じる。
最初の日本地図で有名な伊能忠敬は50歳にして家業を譲り、江戸に出て31歳の高橋至時の弟子となって暦学を学び、やがて測量学も学んで全国を歩いて地図を完成したという。
年を取ってから、新しいことを学び、名を残す人も居るのだ。友松は武家から“身を落として”名を残した。人の人生は様々。限界を感じたら、そこで終わってしまうのだろう。もっと頑張れる余力があるのなら頑張った方が良いのだろう。だが、それも人による。これで良いと感じてそれで仕合せなら、人生それも良いのかも知れない。

ふとそんな思いに耽りながら、博物館を後にし、七条・鴨川のほとりの喫茶店“かわばた”で昼食。京都の地元の喫茶店だ。オーナーは大抵、高齢者が多いが、地元の人々、顔見知りが集い楽しそうだ。中には、年寄りばかりが集まって、その年寄りを客観視して話す内容がおかしいことがある。それでも歴史的都市の京都では、庶民は部外者にも結構愛想がいいのが良い。“いけず”はこんな表面的な場面ではない。
私はオムライスを頼んだ。少々味が濃いようだったが、合格点ではあった。

この後、審査員研修会と夕刻には以前の会社のOB会をこなして珍しく長い一日は終わった。

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