The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
最近のある日の非日常ー天ぷらランチとチューリッヒ美術館展
先日3月末日、地元神戸の会社の株主総会がポート・アイランドのシティ・ホテルであったので出かけた。食品会社で原料の大半を輸入に頼っているので、円安で苦しそうだがTPPが上手く進展すれば、この会社の株価も上がるのだろう。社長が前年で交代されていたが、説明や答弁は神経が行き届いている印象だった。大塚家具や東洋ゴム工業のようなニュース・ネタとなるようなトラブルもなく、無事1時間で終了した。お土産をもらって三宮に戻った。
せっかく神戸に出てそのまま帰るのは、もったいないので午後は神戸市立博物館に来ている“チューリッヒ美術館展”を鑑賞することにして、昼食は最近食べていない“天ぷら”とすることにして、まきのセンター・プラザ店に行くことにした。この店は、センター・プラザ地下を歩いていると食事時でなくてもいつも客が詰めかけていたので気になっていた店だ。事前に調べると日経新聞のweb版に“高級感で人気”とあり、ますます行ってみなくなったのだった。
ギリギリ正午前に店に到達したが、それでも既に行列ができていた。お蔭様で20分程度待ったが、何とかありつくことができた。並んで最後がレジになっているので、そこで発注して指定された席に着くのかと思ったが、実際はそうではなく、指定された席に着いてから注文を出す仕組だった。ここはメニューは定食だけだが、ご飯とみそ汁が食べ放題になっている。そこで、一番リーズナブル価格の“まきの定食\830-”を注文。
料理が来るまでしばらく時間がかかったので、これも食べ放題の“いかの塩辛”だけを少し食べたが、やはり塩辛い。しばらくしてご飯とみそ汁が出て来て、ようやく“いかの塩辛”でご飯。本番の天ぷらが食べられなくなるとつまらないのでこれも少しで止める。間があって出てきた野菜の“かき揚げ”、大きいので箸で何とか崩して天つゆで食べる。アツアツが美味い。それから名物と称している“玉子の天ぷら”が出て来た。これは食べ方が書いてあったので、それに従う。まずご飯にくぼみを作り、そこへ“ころも”の付いた玉子の天ぷらを載せて、七味をかけ箸で崩す。黄身が出たところで備え付けの醤油―恐らくこの玉子のため―をかける。表面がパリパリで、黄身の中まで熱が通っていて生でないので食べやすくなっている。いわゆる玉子かけご飯とは違ったフレーバーだ。しかし、この玉子天、どうやって揚げたのだろうか。
次に“なすび”、“とり”、“えび”と“いか”が同時にやって来て予定終了。同時にお勘定書が置かれて完全に打ち止め。
アツアツが美味かったのと目の前での調理が“高級感”の源泉かと思うのだが、体調不良か歳のせいか油で結構腹一杯。頭では天ぷらを食べたいと思っていたのに残念。それと全体の塩辛さが気懸り。まぁ最近血圧が何故か低下しているので、多少のショッパさは個人的には問題はないのだが、塩分はもう少し控えめにした方が良いように思う。
満腹感を抱えて地上に出て、近くのブック・オフでハウ・トゥ文庫本を買い、市立博物館へ向かう。
チューリッヒ美術館展は実は昨年東北・山田町へ行った時に途中下車した東京の国立新美術館で公開されていたがいずれ神戸での開催を知っていたので、同時開催のオルセー美術館展を優先させたのだった。なので今回、チューリッヒ美術館展を見る機会を得られて良かった。
中身を語るならば、チューリッヒの方が非常に内容は良かったように思う。収集者の眼力が良いのだろう。幅6mのモネの“睡蓮”が特に目玉だったが、それ以外にもシャガール、ピカソとブラック、モンドリアンもありジャコメッティの彫刻もあって、印象派以降の世界の絵画の潮流の傾向が再確認できるので素晴らしい。それに印象派と一括りにされても、それぞれの画家は皆、個性があるのがよく分かる。
実物を見ると筆致が分かる。特に、モンドリアンの“赤、青、黄のあるコンポジション”では微妙な比率案分に妙に感動を覚えるし、白の部分だけになぜかクラックが発生しているのか、させているのか不明だが、印刷物ではこういうところは分からない。
パウル・クレーの“スーパーチェス”は実物では部分的に何故か飛び出して見える不思議な絵だ。こういう感覚は印刷物でも感じられるものだろうか。
しかし、あの目玉の大作モネの“睡蓮”の筆致は非常に乱暴だ。だからあまり近寄って見ても意味がない。だが帰ってから気付いたのだが、実際に池のスイレンが夕景の池で水面(みなも)にあのような空の夕焼けが反映するのだろうか、不思議に思えるのに気付いたのだ。最近夕焼け自体が何故か見られなくなっているのだが、夕焼けになるような場合、周囲は相当に暗くなっていることが多いのではないか。空は夕焼けでも、くぼみに在る池は暗くなってしまいあのように赤い空を反映することはないように思うのだが、いかがだろうか。
逆に、ダリの絵は常に精密に描かれているので印刷物でも、実物でも驚くほど差を感じないように思う。またその精緻さが絵の大きさを感じさせない。例えば昔、“内乱の予感”の実物を見たことがあるが想像していたほどには大きくない印象を持っている。つまり彼の絵は寸法サイズからフリーなのだ。私は、そのことに驚嘆するのだ。今回展示の“バラの頭の女”も小品だが、印刷物で見ると大きさがあるように思ってしまう。
ホドラーは冒頭に展示されていた。兵庫県立美術館にも大規模に来ているが、どこかこれ見よがしの作為に嫌味を感じてしまうのであまり好きではない。ムンクのような“魂の叫び”や 逆に気軽な“遊び心”を感じさせるようなのが好きである。
あとは博物館から出て現実に戻って、近くの大丸百貨店の脇を抜けて中華街の雑踏に入り抜け、それとは別のところで駄菓子を買い漁って家路に就いた。
せっかく神戸に出てそのまま帰るのは、もったいないので午後は神戸市立博物館に来ている“チューリッヒ美術館展”を鑑賞することにして、昼食は最近食べていない“天ぷら”とすることにして、まきのセンター・プラザ店に行くことにした。この店は、センター・プラザ地下を歩いていると食事時でなくてもいつも客が詰めかけていたので気になっていた店だ。事前に調べると日経新聞のweb版に“高級感で人気”とあり、ますます行ってみなくなったのだった。
ギリギリ正午前に店に到達したが、それでも既に行列ができていた。お蔭様で20分程度待ったが、何とかありつくことができた。並んで最後がレジになっているので、そこで発注して指定された席に着くのかと思ったが、実際はそうではなく、指定された席に着いてから注文を出す仕組だった。ここはメニューは定食だけだが、ご飯とみそ汁が食べ放題になっている。そこで、一番リーズナブル価格の“まきの定食\830-”を注文。
料理が来るまでしばらく時間がかかったので、これも食べ放題の“いかの塩辛”だけを少し食べたが、やはり塩辛い。しばらくしてご飯とみそ汁が出て来て、ようやく“いかの塩辛”でご飯。本番の天ぷらが食べられなくなるとつまらないのでこれも少しで止める。間があって出てきた野菜の“かき揚げ”、大きいので箸で何とか崩して天つゆで食べる。アツアツが美味い。それから名物と称している“玉子の天ぷら”が出て来た。これは食べ方が書いてあったので、それに従う。まずご飯にくぼみを作り、そこへ“ころも”の付いた玉子の天ぷらを載せて、七味をかけ箸で崩す。黄身が出たところで備え付けの醤油―恐らくこの玉子のため―をかける。表面がパリパリで、黄身の中まで熱が通っていて生でないので食べやすくなっている。いわゆる玉子かけご飯とは違ったフレーバーだ。しかし、この玉子天、どうやって揚げたのだろうか。
次に“なすび”、“とり”、“えび”と“いか”が同時にやって来て予定終了。同時にお勘定書が置かれて完全に打ち止め。
アツアツが美味かったのと目の前での調理が“高級感”の源泉かと思うのだが、体調不良か歳のせいか油で結構腹一杯。頭では天ぷらを食べたいと思っていたのに残念。それと全体の塩辛さが気懸り。まぁ最近血圧が何故か低下しているので、多少のショッパさは個人的には問題はないのだが、塩分はもう少し控えめにした方が良いように思う。
満腹感を抱えて地上に出て、近くのブック・オフでハウ・トゥ文庫本を買い、市立博物館へ向かう。
チューリッヒ美術館展は実は昨年東北・山田町へ行った時に途中下車した東京の国立新美術館で公開されていたがいずれ神戸での開催を知っていたので、同時開催のオルセー美術館展を優先させたのだった。なので今回、チューリッヒ美術館展を見る機会を得られて良かった。
中身を語るならば、チューリッヒの方が非常に内容は良かったように思う。収集者の眼力が良いのだろう。幅6mのモネの“睡蓮”が特に目玉だったが、それ以外にもシャガール、ピカソとブラック、モンドリアンもありジャコメッティの彫刻もあって、印象派以降の世界の絵画の潮流の傾向が再確認できるので素晴らしい。それに印象派と一括りにされても、それぞれの画家は皆、個性があるのがよく分かる。
実物を見ると筆致が分かる。特に、モンドリアンの“赤、青、黄のあるコンポジション”では微妙な比率案分に妙に感動を覚えるし、白の部分だけになぜかクラックが発生しているのか、させているのか不明だが、印刷物ではこういうところは分からない。
パウル・クレーの“スーパーチェス”は実物では部分的に何故か飛び出して見える不思議な絵だ。こういう感覚は印刷物でも感じられるものだろうか。
しかし、あの目玉の大作モネの“睡蓮”の筆致は非常に乱暴だ。だからあまり近寄って見ても意味がない。だが帰ってから気付いたのだが、実際に池のスイレンが夕景の池で水面(みなも)にあのような空の夕焼けが反映するのだろうか、不思議に思えるのに気付いたのだ。最近夕焼け自体が何故か見られなくなっているのだが、夕焼けになるような場合、周囲は相当に暗くなっていることが多いのではないか。空は夕焼けでも、くぼみに在る池は暗くなってしまいあのように赤い空を反映することはないように思うのだが、いかがだろうか。
逆に、ダリの絵は常に精密に描かれているので印刷物でも、実物でも驚くほど差を感じないように思う。またその精緻さが絵の大きさを感じさせない。例えば昔、“内乱の予感”の実物を見たことがあるが想像していたほどには大きくない印象を持っている。つまり彼の絵は寸法サイズからフリーなのだ。私は、そのことに驚嘆するのだ。今回展示の“バラの頭の女”も小品だが、印刷物で見ると大きさがあるように思ってしまう。
ホドラーは冒頭に展示されていた。兵庫県立美術館にも大規模に来ているが、どこかこれ見よがしの作為に嫌味を感じてしまうのであまり好きではない。ムンクのような“魂の叫び”や 逆に気軽な“遊び心”を感じさせるようなのが好きである。
あとは博物館から出て現実に戻って、近くの大丸百貨店の脇を抜けて中華街の雑踏に入り抜け、それとは別のところで駄菓子を買い漁って家路に就いた。
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