The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
福島スタディー・ツアーに参加
ブログで取り上げるには少々、間があき過ぎた感があるが、実は先月の半ばにいわき市のNPO・ふよう土2100が主催するスタディー・ツアーに参加していたので、今回はその内容を紹介したい。これは昨年の東北ツアーで最後にやろうとしていた福島原発アプローチのスタディ・ツアーが、台風の襲来によって中止になったのを春が近付いたのを機にリベンジ企画したものだ。NPO・ふよう土2100のイベントとしては中止されたらしいスタディ・ツアーだったが無理をお願いして実現したものだ。今もホーム・ページにはこの企画は掲載されていないが、後から聞いたところによると冬季は雪で休止していた、ということでシーズンが良くなれば再開するつもりだと仰っていた。
ブログ投稿が遅れたのは、ルートのトレースが不十分で撮影した写真の整理がつかず、キャプションの正確性に自信が持てなかったからだが、今回何とか確信が持てるようになったのだ。とは言ってもそんなに沢山の写真が撮れていた訳ではない。何故かルポルタージュには不十分なもので、後からの反省しきり。
ツアー要領は昨年企画されていたのと同じで、出発は湯本の老舗旅館“古滝屋”。そこで昨年同様前日からの宿泊で露天風呂等温泉を楽しむ。前日の夕食は今回外食して寿司を腹一杯に食べた。朝風呂を楽しみ朝の軽食後10時にチェック・アウトして10時半のスタートまで1階のロビーで過ごした。
ツアーはふよう土2100の理事長さんに車で案内していただいた。無理をお願いしたせいで参加者は私1名の贅沢なものとなった。実は企画予定が決まってから急遽仲間内で参加者を募ったが、話が急すぎるという理由で皆から参加断念された結果だった。
ご挨拶の後、若干の注意事項を伺ったが放射能に関する基礎的な態度についてだったように思うのと、印象に残ったのは“できるだけ写真は撮って欲しい。むしろお願いしたい。”ということだったように思う。
この湯本の在る いわき市は市域が巨大であり、その来歴は次の通り。磐城地方は、基幹産業であった常磐炭田と水産業の斜陽化が進み、早急な方向転換を迫られていた。そのため、1966年に県が主導となり市町村合併が実施され市町村合併を成立させ、当時としては日本一広い面積(1,231.13km²)のいわき市が誕生した(現在は15番目)。
先ず湯本から常磐自動車道で北上。恐らく広野ICで高速道を降りる。すると圧倒的な迫力で、2本の巨大な煙突が目に入って来た。案内者の“あれは何だと思いますか?”の問いかけには全く返答できず、東電の広野火力発電所とのこと。何故火力発電所をわざわざ巨大消費地の東京から遠い福島に置いたのか不明だ。石炭火力の煤煙を福島でまき散らすつもりとも考えられない。何故ならば、総出力440万kW;6基の内 石炭火力は120万kW;2基で一部でしかなく、しかも石炭火力が一番新しいからだ。こういう遠隔地からでは送電ロスが大き過ぎるのではないか。我が地元の関西電力は、黒部第4水力(常時出力:8.8万kW)より大きい火力を大阪南港(総出力180万kW;3基)に設置しているくらいだ。地元民はこの異様な発電所設置方針を白眼視している風だ。原発事故もあり東電忌避の意識は地元には強い。
国道6号をしばらく北上。原発に最も近いコンビニだと言われるファミリーマート楢葉町上繁岡店を右に見て通り過ぎ、やがて東電第二福島原発への道も右に見つつ通り過ぎる。ここも津波でやられていれば、大変な事態だったことになる。
Jビレッジはこの近くだが、森に遮られているので説明がないと分からないまま過ぎてしまうようなところだ。
やがて富岡町に至る。スタート前にもらった資料の地図を見ると、ここは避難指示解除準備区域と居住制限区域、帰還困難区域が入り混じる町となっている。既に、避難指示解除準備区域に入っているが、車による交通はあるが人の気配は殆どない。ひとけ自身は元来そんなものだったかもしれないが、中学校の校庭の雑草は寂しさをもよおす。無人の校庭には放射能線量計が設置されていて、数値は“0.256μSv/h”と妙に鮮明に表示されていた。自然放射能が世界平均2.4mSv/年(日本では1.4mSv/年)とされるならば、それは0.274μSv/hに相当するはずなので、日本平均からは少々高目かも知れないが殆ど問題ない水準と思って間違いないだろう。
実は私は生きとし生けるものには必ず放射能耐性があり、その耐性には閾値が存在すると確信している。科学者の中には閾値は存在せず、絶対0まで比例的に影響を受けるとする見解を持つ人もいるようだが、これは私は非科学的意見だと思っている。何故ならばこの宇宙は放射線で満ち満ちているのであり、そのような宇宙空間で誕生した生命に放射能耐性がなければこの世に長らく生存し続ける訳がない、と考えるからである。その閾値をどの程度とするかは、一応世界平均値の2.4mSv/年で十分妥当ではないかと考えているのだ。どうだろう。
いよいよ富岡町の中心JR駅へ向かって市街地を進む。案内者から電柱に取り付けられた看板に皮肉な台詞が書かれているとの説明。そこには“こどもたちの未来のために・東北電力”と書かれていた。何だか虚しさが募る。
市街地の建物の全ての1階部分は津波で破壊されていて、そのまま放置されていた。中には生活の日常が分かるような状態の所もある。
いよいよJRの駅前に到着。ここはしばしば報道があった場所のはずだが、つい最近陸橋駅舎も撤去されたとのことでホームのコンクリート以外に建物はなく、だだっ広い空間だけになっていた。車の外に出ると早春の海風が冷たく吹いていてどこか緊張感が漂う。
未だに残る街の建物残骸は駅跡とは対照的で、振り返って良く目を凝らすと津波で流されて横転したり折り重なったりした車があるのに気付く。広場の目に付く一角には慰霊の花束が置かれていた。合掌黙礼、些少献金。
ここにも線量計あり、数値は“0.294μGy/h”とここも鮮明に表示されていた。しかし表示単位がμGy/hということにいささか戸惑うが、設置管理者であるらしい原子力規制委員会のホームページによれば1μGy/h=1μSv/hとのことなのでそのつもりで見るべきなのだろう。表示単位の統一をお願いしたいものだ。(ことのついでに、そのホームページで他所の全国の線量実績を見ると、大抵0.01~0.02μSv/hとなっており、既述の世界平均や日本平均の自然放射能と一桁異なる値となっている。これはどういうことか、私は困惑している。例えばγ線のみとかの測定線種が異なるためや計算方法が異なるためだろうか。放射線関係の単位がややこしいのと、こうした測定計算のアヤが専門家と一般の間でのリスク・コミュニケーションを危うくしているように思うが一向に改まらないのが実状のように感じる。)
駅から離れて、市街からでると黒いフレコンにモノが詰められて沢山積み上げられている場所があった。除染した物を詰めて積み上げているのだという。ならば、どのような材料で作られたフレコンなのか気になった。耐候性や耐放射線性はどうなのか気になったのだ。近くによって見ると袋の検査証が添付されていたが、提供者の社名やサイズ、強度の表示はあったが材質や耐久性についての表示は全くない。何時ごろまで積み上げて置くのか不明だが、あまりに長期にわたって野ざらしにするようであれば、いずれフレコンも材質劣化して内容物が漏れ出てくる危険性は高いと懸念されるがいかがだろうか。うかつにもその時、案内者が持っていた線量計で周囲を測定することに気付かず、残念にもぬかってしまった。
富岡の東電エネルギー館を右折して国道6号をさらに北上。このエネルギー館は住民に原発安全性をPRするためのもので、案内者も子供の頃に見学に来たことがあると言っていたように思う。そして再び森林地帯を通ったが、そこでは除染作業が行われていた。どうやらこのような作業は各地で頻繁に行われているようだ。
気が付くと両側に立派な古木の並木のある道路を北上していた。有名な桜並木との説明であった。あとからトレースしてみると夜ノ森の桜並木のようだ。案内者は桜の花の芽を気にして車を降りて、写真を撮っていた。恐らく今頃は満開前の華々しい状態なのであろう。人が見に来なくても桜は自然の摂理で咲いているであろう。
突き当りが、帰還困難区域で警戒監視者が居る様子。そこを避けて、左折。帰還困難区域と線引きされた境界をしばらく走る。帰還困難区域内の住民は内部に入れず、僅かな差で大きな扱いの差が出ていることに大変困惑だろうとのことであった。全く同感。
やがて何故か常磐線は狭い谷合に潜り込んで隠れてしまっている所にさしかかり、その見えない常磐線にそって少し北上。駅舎もその谷合にあるようだ。また桜並木がその谷に沿ってある。夜ノ森地区は歴史的な桜の園なのだろうか。
夜ノ森地区を離れて西方の常磐自動車道に乗って、ここから南下。右手、西方に巨大な変電所があるという。確かに大きな鉄塔が送電線を保持して集まって来ている。原発の電力がここに集約されて東京に送電されるのだという。遠方にあるため高速道路から詳しくは視認できなかったが、巨大な規模の雰囲気は伝わって来た。
また谷合や森林のはざまの随所に除染物集積所が見られ、いささか気懸り。
あまり空腹感はなかったが、案内者から“豚丼にしますか、それとも…にしますか?”と突然聞かれて、…は何だったか今や思い出せないが、私は迷わず“豚丼”と答えていた。前日の夕食の贅沢のせいだろうか。
森の中のJビレッジの近く6号線沿いに豚丼の店“豚壱(ぶたいち)”はあった。富岡のウナギの由緒ある名店が被災後はウナギができないから豚丼の店に転換したのだ、という説明だった。やはり、地元は生き残るのに皆大変なのだ。場所柄、原発の作業者や警備の警察官が顧客だという。
豚丼と言っても牛丼チェーンの豚丼とは異なって、さすがに名店、チャーシュウというかいわゆる焼き豚に高級なタレをかけたという趣の丼だった。うかつにもここでも、店や丼の写真を撮ることを忘れていた。我ながらどういう心理状況だったのか不思議だ。帰りがけ店の入口で立ち止まっていた2人の警察官の制服には偶然にも兵庫県警と表示があった。案内者は そうと知って東北人らしく“挨拶なさったら?”と言ってくれたが、ここで突然挨拶しても相手も驚くばかりでお互いどうしようもない雰囲気となるダケと思いそのままで車に乗る。しかし、未だに全国からの応援警察官が活動しており御苦労なことである。
そこから国道を南下して戻ったと思う。やがて車はJR久之浜駅―JRで湯本へ乗って来た普通列車の終着駅だった―から市街地に入って行った。
学校の校庭の一部を借りて開いた仮設の商店街に到着。ここが時々報道もあった“浜風商店街”だ。残念だが お客もなく店主達も手持無沙汰の様子。案内者は店のオバチャンを呼び集めてくれて、しばらく歓談。最近、京都からたずねてやってきた若い女性がいたが、知らされていたことと現実が違うと言って驚いて帰ったという話をしてくれた。関西ではどんな報道がなされているのか、との問いかけがあった。私は、日本の報道は全て一旦東京のフィルターに掛けられて全国に流されるので、東京の目で見た報道または東京の都合でニュースは作られる傾向があり、その傾向は最近特に強くなっているので、そうなるのだろう、と答えておいた。
この辺りには、政治家は殆どやって来ないとも言っていたように思う。政府に棄てられた意識が強い様子だ。案内者によれば、このオバチャン達は今はあのように陽気にしているが、津波では皆凄惨な経験をされた方々だと言う。
少々の御土産を買って車に戻る。津波でほぼ全滅状態の久之浜沿岸も盛土工事が進展していた。昨秋、岩手でも見た光景だが東北沿岸は殆どこのような工事が施されているようだ。
帰路 案内者との車中会話で、防災工事に躍起になって沿岸部の自然破壊を促進するよりも、政府はハザード・マップを整備して安心・安全に住める場所の公示を推進して、徐々にでも安全な場所にしか住めないような仕組みをつくるべきなのだろう、という見解を交わした。果たして、そのような場合 原発はどのように扱うべきであろうか。大きな問題であろう。またそのように展開する場合は、環境負荷の小さいコンパクト・シティの重点建設を目指し、田舎に分散して住みたがるような人の自由を制限する可能性まで視野に入れる必要があるように思うが、これは危険思考だろうか。
見て廻った全体感では福島での政府というか中央東京統治体制への不信感は相当なものだという印象を持った。そういう点で昨秋に行った岩手・山田町等とは大きな違いではないかと感じた。確かな将来を見通せない風景が 福島にはあるように思う。
本来 政治家はそこにこそ存在するべきだが、驚くことに“現地に来ていない”らしい。何の見通しもなく覚悟もない癖に 平気で”信なくば立たず”という言葉を口にするような連中にこの国を任せておいては 日本はどんどん駄目になるのは火を見るより明らかではないか。しかし、さりとて私自身で何かが出来る訳でもなく、無力感が漂ってしまう。
このまま日常の煩雑さに逃げ込みそこに埋もれてしまおうとするのは、やはり問題だろう。でもやっぱり またそのように人生を送ろうとしている自分がここには居るのだ。でも、それでもなお何とか 時々は現地に思いを馳せてみよう、できれば、またその後を確かめてみようとは思う。思い詰めて過激になることなく、できるだけ冷静に柔軟に思考しブレることなく(integrity)対処していきたい。そしてそこでも“リスク”に考えを致すのがせめてではないかと思うのである。
ブログ投稿が遅れたのは、ルートのトレースが不十分で撮影した写真の整理がつかず、キャプションの正確性に自信が持てなかったからだが、今回何とか確信が持てるようになったのだ。とは言ってもそんなに沢山の写真が撮れていた訳ではない。何故かルポルタージュには不十分なもので、後からの反省しきり。
ツアー要領は昨年企画されていたのと同じで、出発は湯本の老舗旅館“古滝屋”。そこで昨年同様前日からの宿泊で露天風呂等温泉を楽しむ。前日の夕食は今回外食して寿司を腹一杯に食べた。朝風呂を楽しみ朝の軽食後10時にチェック・アウトして10時半のスタートまで1階のロビーで過ごした。
ツアーはふよう土2100の理事長さんに車で案内していただいた。無理をお願いしたせいで参加者は私1名の贅沢なものとなった。実は企画予定が決まってから急遽仲間内で参加者を募ったが、話が急すぎるという理由で皆から参加断念された結果だった。
ご挨拶の後、若干の注意事項を伺ったが放射能に関する基礎的な態度についてだったように思うのと、印象に残ったのは“できるだけ写真は撮って欲しい。むしろお願いしたい。”ということだったように思う。
この湯本の在る いわき市は市域が巨大であり、その来歴は次の通り。磐城地方は、基幹産業であった常磐炭田と水産業の斜陽化が進み、早急な方向転換を迫られていた。そのため、1966年に県が主導となり市町村合併が実施され市町村合併を成立させ、当時としては日本一広い面積(1,231.13km²)のいわき市が誕生した(現在は15番目)。
先ず湯本から常磐自動車道で北上。恐らく広野ICで高速道を降りる。すると圧倒的な迫力で、2本の巨大な煙突が目に入って来た。案内者の“あれは何だと思いますか?”の問いかけには全く返答できず、東電の広野火力発電所とのこと。何故火力発電所をわざわざ巨大消費地の東京から遠い福島に置いたのか不明だ。石炭火力の煤煙を福島でまき散らすつもりとも考えられない。何故ならば、総出力440万kW;6基の内 石炭火力は120万kW;2基で一部でしかなく、しかも石炭火力が一番新しいからだ。こういう遠隔地からでは送電ロスが大き過ぎるのではないか。我が地元の関西電力は、黒部第4水力(常時出力:8.8万kW)より大きい火力を大阪南港(総出力180万kW;3基)に設置しているくらいだ。地元民はこの異様な発電所設置方針を白眼視している風だ。原発事故もあり東電忌避の意識は地元には強い。
国道6号をしばらく北上。原発に最も近いコンビニだと言われるファミリーマート楢葉町上繁岡店を右に見て通り過ぎ、やがて東電第二福島原発への道も右に見つつ通り過ぎる。ここも津波でやられていれば、大変な事態だったことになる。
Jビレッジはこの近くだが、森に遮られているので説明がないと分からないまま過ぎてしまうようなところだ。
やがて富岡町に至る。スタート前にもらった資料の地図を見ると、ここは避難指示解除準備区域と居住制限区域、帰還困難区域が入り混じる町となっている。既に、避難指示解除準備区域に入っているが、車による交通はあるが人の気配は殆どない。ひとけ自身は元来そんなものだったかもしれないが、中学校の校庭の雑草は寂しさをもよおす。無人の校庭には放射能線量計が設置されていて、数値は“0.256μSv/h”と妙に鮮明に表示されていた。自然放射能が世界平均2.4mSv/年(日本では1.4mSv/年)とされるならば、それは0.274μSv/hに相当するはずなので、日本平均からは少々高目かも知れないが殆ど問題ない水準と思って間違いないだろう。
実は私は生きとし生けるものには必ず放射能耐性があり、その耐性には閾値が存在すると確信している。科学者の中には閾値は存在せず、絶対0まで比例的に影響を受けるとする見解を持つ人もいるようだが、これは私は非科学的意見だと思っている。何故ならばこの宇宙は放射線で満ち満ちているのであり、そのような宇宙空間で誕生した生命に放射能耐性がなければこの世に長らく生存し続ける訳がない、と考えるからである。その閾値をどの程度とするかは、一応世界平均値の2.4mSv/年で十分妥当ではないかと考えているのだ。どうだろう。
いよいよ富岡町の中心JR駅へ向かって市街地を進む。案内者から電柱に取り付けられた看板に皮肉な台詞が書かれているとの説明。そこには“こどもたちの未来のために・東北電力”と書かれていた。何だか虚しさが募る。
市街地の建物の全ての1階部分は津波で破壊されていて、そのまま放置されていた。中には生活の日常が分かるような状態の所もある。
いよいよJRの駅前に到着。ここはしばしば報道があった場所のはずだが、つい最近陸橋駅舎も撤去されたとのことでホームのコンクリート以外に建物はなく、だだっ広い空間だけになっていた。車の外に出ると早春の海風が冷たく吹いていてどこか緊張感が漂う。
未だに残る街の建物残骸は駅跡とは対照的で、振り返って良く目を凝らすと津波で流されて横転したり折り重なったりした車があるのに気付く。広場の目に付く一角には慰霊の花束が置かれていた。合掌黙礼、些少献金。
ここにも線量計あり、数値は“0.294μGy/h”とここも鮮明に表示されていた。しかし表示単位がμGy/hということにいささか戸惑うが、設置管理者であるらしい原子力規制委員会のホームページによれば1μGy/h=1μSv/hとのことなのでそのつもりで見るべきなのだろう。表示単位の統一をお願いしたいものだ。(ことのついでに、そのホームページで他所の全国の線量実績を見ると、大抵0.01~0.02μSv/hとなっており、既述の世界平均や日本平均の自然放射能と一桁異なる値となっている。これはどういうことか、私は困惑している。例えばγ線のみとかの測定線種が異なるためや計算方法が異なるためだろうか。放射線関係の単位がややこしいのと、こうした測定計算のアヤが専門家と一般の間でのリスク・コミュニケーションを危うくしているように思うが一向に改まらないのが実状のように感じる。)
駅から離れて、市街からでると黒いフレコンにモノが詰められて沢山積み上げられている場所があった。除染した物を詰めて積み上げているのだという。ならば、どのような材料で作られたフレコンなのか気になった。耐候性や耐放射線性はどうなのか気になったのだ。近くによって見ると袋の検査証が添付されていたが、提供者の社名やサイズ、強度の表示はあったが材質や耐久性についての表示は全くない。何時ごろまで積み上げて置くのか不明だが、あまりに長期にわたって野ざらしにするようであれば、いずれフレコンも材質劣化して内容物が漏れ出てくる危険性は高いと懸念されるがいかがだろうか。うかつにもその時、案内者が持っていた線量計で周囲を測定することに気付かず、残念にもぬかってしまった。
富岡の東電エネルギー館を右折して国道6号をさらに北上。このエネルギー館は住民に原発安全性をPRするためのもので、案内者も子供の頃に見学に来たことがあると言っていたように思う。そして再び森林地帯を通ったが、そこでは除染作業が行われていた。どうやらこのような作業は各地で頻繁に行われているようだ。
気が付くと両側に立派な古木の並木のある道路を北上していた。有名な桜並木との説明であった。あとからトレースしてみると夜ノ森の桜並木のようだ。案内者は桜の花の芽を気にして車を降りて、写真を撮っていた。恐らく今頃は満開前の華々しい状態なのであろう。人が見に来なくても桜は自然の摂理で咲いているであろう。
突き当りが、帰還困難区域で警戒監視者が居る様子。そこを避けて、左折。帰還困難区域と線引きされた境界をしばらく走る。帰還困難区域内の住民は内部に入れず、僅かな差で大きな扱いの差が出ていることに大変困惑だろうとのことであった。全く同感。
やがて何故か常磐線は狭い谷合に潜り込んで隠れてしまっている所にさしかかり、その見えない常磐線にそって少し北上。駅舎もその谷合にあるようだ。また桜並木がその谷に沿ってある。夜ノ森地区は歴史的な桜の園なのだろうか。
夜ノ森地区を離れて西方の常磐自動車道に乗って、ここから南下。右手、西方に巨大な変電所があるという。確かに大きな鉄塔が送電線を保持して集まって来ている。原発の電力がここに集約されて東京に送電されるのだという。遠方にあるため高速道路から詳しくは視認できなかったが、巨大な規模の雰囲気は伝わって来た。
また谷合や森林のはざまの随所に除染物集積所が見られ、いささか気懸り。
あまり空腹感はなかったが、案内者から“豚丼にしますか、それとも…にしますか?”と突然聞かれて、…は何だったか今や思い出せないが、私は迷わず“豚丼”と答えていた。前日の夕食の贅沢のせいだろうか。
森の中のJビレッジの近く6号線沿いに豚丼の店“豚壱(ぶたいち)”はあった。富岡のウナギの由緒ある名店が被災後はウナギができないから豚丼の店に転換したのだ、という説明だった。やはり、地元は生き残るのに皆大変なのだ。場所柄、原発の作業者や警備の警察官が顧客だという。
豚丼と言っても牛丼チェーンの豚丼とは異なって、さすがに名店、チャーシュウというかいわゆる焼き豚に高級なタレをかけたという趣の丼だった。うかつにもここでも、店や丼の写真を撮ることを忘れていた。我ながらどういう心理状況だったのか不思議だ。帰りがけ店の入口で立ち止まっていた2人の警察官の制服には偶然にも兵庫県警と表示があった。案内者は そうと知って東北人らしく“挨拶なさったら?”と言ってくれたが、ここで突然挨拶しても相手も驚くばかりでお互いどうしようもない雰囲気となるダケと思いそのままで車に乗る。しかし、未だに全国からの応援警察官が活動しており御苦労なことである。
そこから国道を南下して戻ったと思う。やがて車はJR久之浜駅―JRで湯本へ乗って来た普通列車の終着駅だった―から市街地に入って行った。
学校の校庭の一部を借りて開いた仮設の商店街に到着。ここが時々報道もあった“浜風商店街”だ。残念だが お客もなく店主達も手持無沙汰の様子。案内者は店のオバチャンを呼び集めてくれて、しばらく歓談。最近、京都からたずねてやってきた若い女性がいたが、知らされていたことと現実が違うと言って驚いて帰ったという話をしてくれた。関西ではどんな報道がなされているのか、との問いかけがあった。私は、日本の報道は全て一旦東京のフィルターに掛けられて全国に流されるので、東京の目で見た報道または東京の都合でニュースは作られる傾向があり、その傾向は最近特に強くなっているので、そうなるのだろう、と答えておいた。
この辺りには、政治家は殆どやって来ないとも言っていたように思う。政府に棄てられた意識が強い様子だ。案内者によれば、このオバチャン達は今はあのように陽気にしているが、津波では皆凄惨な経験をされた方々だと言う。
少々の御土産を買って車に戻る。津波でほぼ全滅状態の久之浜沿岸も盛土工事が進展していた。昨秋、岩手でも見た光景だが東北沿岸は殆どこのような工事が施されているようだ。
帰路 案内者との車中会話で、防災工事に躍起になって沿岸部の自然破壊を促進するよりも、政府はハザード・マップを整備して安心・安全に住める場所の公示を推進して、徐々にでも安全な場所にしか住めないような仕組みをつくるべきなのだろう、という見解を交わした。果たして、そのような場合 原発はどのように扱うべきであろうか。大きな問題であろう。またそのように展開する場合は、環境負荷の小さいコンパクト・シティの重点建設を目指し、田舎に分散して住みたがるような人の自由を制限する可能性まで視野に入れる必要があるように思うが、これは危険思考だろうか。
見て廻った全体感では福島での政府というか中央東京統治体制への不信感は相当なものだという印象を持った。そういう点で昨秋に行った岩手・山田町等とは大きな違いではないかと感じた。確かな将来を見通せない風景が 福島にはあるように思う。
本来 政治家はそこにこそ存在するべきだが、驚くことに“現地に来ていない”らしい。何の見通しもなく覚悟もない癖に 平気で”信なくば立たず”という言葉を口にするような連中にこの国を任せておいては 日本はどんどん駄目になるのは火を見るより明らかではないか。しかし、さりとて私自身で何かが出来る訳でもなく、無力感が漂ってしまう。
このまま日常の煩雑さに逃げ込みそこに埋もれてしまおうとするのは、やはり問題だろう。でもやっぱり またそのように人生を送ろうとしている自分がここには居るのだ。でも、それでもなお何とか 時々は現地に思いを馳せてみよう、できれば、またその後を確かめてみようとは思う。思い詰めて過激になることなく、できるだけ冷静に柔軟に思考しブレることなく(integrity)対処していきたい。そしてそこでも“リスク”に考えを致すのがせめてではないかと思うのである。
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