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アエラの対談記事・勝間和代×香山リカ

前回、“失敗学”の泰斗・畑村洋太郎教授の 心の本を読んで なお癒されることがなく、私には それが 返ってさらなるダメージになった。そこで、どのようにして“回復”するのか さ迷いつつ書店の店頭で見つけたのが 香山リカ著“しがみつかない生き方”である。手にとって、目次を眺めて “老・病・死で落ち込まない”、・・・・“生まれた意味を問わない”とあり、ウム!仏陀の悟りか、と思ったとたん、その終わりに “<勝間和代>を目指さない” とあって、思わずプッと吹き出し、買ってしまった。
結論からいうと、打ちのめされた分は 香山氏の本である程度 安らぎ、回復した。それは 弱者の目で 弱者をおもんばかっているからではないかと思う。それは 確かに<勝間和代>や 元東大教授の目でもないのだ。

ところが、それが そのまま ご当人同士の勝間和代氏と香山リカ氏の対談が 週刊誌アエラの先週号に掲載されたのだ。私は 誌上対決に、これまた飛びついてしまった。ここで語られた内容は おそらくどちらも 正しいのだろう。それでも やっぱり、負け組男の私は 香山氏の発言に共感を覚えるのだ。
勝間氏はやっぱり どうしようもなく強者であり成功者なのだ。

アエラには 次のような香山氏の発言の引用が 対談記事欄外に掲載されている。
- “人生には最高もなければ、どうしようもない最悪もなく、ただ「そこそこで、いろいろな人生」があるだけではないか”
- “「これは私のオリジナルのアイデアだ」と自負したり吹聴したりする人よりは、「私には独創性がいまひとつなくて」と自覚できる人のほうが、ずっと正しく世の中を見ている”
- “人生の大事な場面での即断即決はあまりおすすめできません。むしろ優柔不断くらいのほうが、後悔は少ないはずです。”
いずれも 普通に読むと スーッと入ってくる 癒されるもの言いである。

その “最高もなければ、どうしようもない最悪もなく、ただ「そこそこな人生」”は まさに私の人生そのものであった。
しかし、ヒョッとして これまでの人間の歴史の中の人生は“最悪”が普通だったのが、時代が良くなり、“どうしようもない最悪もなく、「そこそこな人生」”がほとんど となったのではないか、と気付いたのだ。一世代前には その人生には必ず戦争や疫病・自然災害による不幸があり、或いは それよりも もっと前の世代では戦乱が無くても窮屈で理不尽な封建社会ではなかったか。そこには飢饉の地獄もあったに違いない。
現代日本の 災厄のない 仕合せの時代に生きて“最高もなければ、どうしようもない最悪もなく、ただ「そこそこな人生」”などとうそぶいて 無事な人生を バチ当たりにも、呪っているだけのかも知れない。負け犬の遠吠え、そんな気がしない訳ではない。
そう 考えると “うつ”も 良い時代の贅沢病なのだろうか。だが、こんな物言いをすると それこそ、強者の論理ではないかと 負け組の人々から罵られるのかも知れない。

次の主張 “「自分のオリジナリティ」を自慢する人よりは、「独創性の無さ」を自覚できる人のほうが、ずっと正しく世の中を見ている”には、思わず共感してしまう。だが、冷静に考えると “自覚できる人のほうが、ずっと正しく世の中を見ている”と本当に断言できるのだろうか。この断言は どのような根拠に基づいているのだろうか。ヒョッとして 根拠無き断定ではないのか。こういう根拠なき断定が 精神科医と呼ばれる人々の台詞にしばしば登場するような気がする。その種の断定に 妙に安らぎを覚えてしまうが そこに催眠術に掛けられてしまったような ある種の弱さはいないだろうか。

三つ目の“即断即決より、むしろ優柔不断くらいのほうが、後悔は少ないはずです。”の台詞も 本当なのだろうか。確かに “認知的複雑性”を持っている方が 単純バカよりも 周囲に迷惑をかけることもなく、遥かにマシな印象だが、いつまでたっても決断できず、そのまま放置したことが 後になって “ヤッパリあの時 こうすれば良かった”というようなことは無かったか。そこにも 意志の弱さはいないだろうか。
その結果が “最高もなければ、どうしようもない最悪もない人生があるだけ”ということになっていないか、とも思うのだ。

このように 香山氏の主張には 冷静に眺めると “ひ弱さの正当性”への逃避があり、思わず親近感を覚えてしまうのだが、そこにある種の“甘え”が あるようにも思うのだ。そういう“甘え”を振り切って 強い意志で自己主張するべきだ、という強さへの指向が いわゆるカツマー達の共感するところかも 知れないと、思い至るのだ。
ヤッパリ これは、どちらが、正しいか、という問題ではなく 人それぞれの嗜好の問題なのかも知れない。そして、どちらの生き方で成功するかは その人に与えられた運のみに依存しているのだろう。神のみぞ知ることなのだろう。

だが、香山氏は“しがみつかない生き方”の中で次のように語ってもいる。
彼女は 医者として“「なぜこの人がこんな不幸な目にあわなければならないのか」と神に抗議したくなるような人に、毎日のように出会う。”という。病を得ること自体不幸なことなのだが、“「がんばれば夢はかなう」とか「向上心さえあればすべては変わる」といったいわゆる〝前向きなメッセージ〟を聞くたびに、診察室で出会った人たちの顔を思い出して、こう反論したくなる。「あの人はずっとがんばっていたのに、結局、病気になって長期入院することになり夢は潰えたじゃないか」「両親とも自殺して、育ててくれた祖父が認知症になっている彼女が、どうやって向上心を出せばよいのか」”と。
さらに続けて“努力したくても、そもそもそうできない状況の人がいる。あるいは、努力をしても、すべての人が思った通りの結果にたどり着くわけではない。これはとても素朴でシンプルな事実であるはずなのだが、まわりを見わたしてみるととくに最近、そのことを気にかける人がどんどん減っているように思える。”と言っている。
この人生の暗い側面は 真実であり 非常に重い。彼女はそんな “めまいがするほどの悲しさが押し寄せるとき”に浮かぶという万葉集の大伴旅人の歌を紹介している。

世の中は 空しきものと知る時し いよよますます悲しかりけり

私は 彼女に医者として このようなどうしようもなく不幸な人々に接した時 どのような言葉をかけているのか、聞いてみたい。ただじっと不幸な人々の話を聞き じっとたたずみ、目前の一つ一つの障害に何とか対処する、それしか方法がないのだろう。それが現実なのだろうが、それだけで 不幸な人々は自分の境遇を受け入れることはできるものなのだろうか。いや 受け入るしか生きる方法がないのが現実なのだ。時には 理不尽な死すら受け入れざるを得ないのだ。

世の中には 成功者の弁ばかりが 声高に 勝ち誇って語られる。成功者は ただ運が良かっただけなのにもかかわらず、なのだ。その良い運の背後には 数限りない不幸と失敗が 存在するのは事実だ。そして、その“不幸と失敗”は 密かにしか 語られることはなく 世の中に表立つことはほとんどないのだ。確かに その“成功”は 血を吐くような努力の果てかもしれない。だが、同じような、いやそれを超える努力の果てに “不幸と失敗”しかなかった人生も必ずあるのだ。そういう真実への想像力を失ってはならない。
成功者は ただ勝ち誇っているだけで良いのだろうか。負け組の人々への さげすみの眼差しは 成功者の“正当な権利”なのだろうか。
敗者への おもんばかりとは そういう豊かな想像力のなせる業であり、ただ運が良くて勝ち誇るのは 心の貧しい人のすることなのだ。そして 日本には その豊かで優しい心の伝統が あったはずなのだ。例えば、勝った横綱のガッツ・ポーズは下品なことという考え方はその表れだ。“勝敗は時の運”であり、勝利は その人の力だけではないのだ。
その繊細で優しい 心の伝統が 滅びた時、日本人とその社会は 不幸に 陥るのだろうが、今の日本は その方向にまっしぐらのような気がする。それが 彼女の指摘の “そのことを気にかける人がどんどん減っているように思える。”に符合するのだ。

アエラでは 香山氏は 自分を“東スポ”に譬え、勝間氏を “品格ある日経”に譬えていてこれが絶妙のように見えるが、私は “東スポ”にも“日経”にも 等しく距離感がある。だが 私は やっぱり香山氏の感性に 親近感がある。
いずれにせよ “最高もなければ、どうしようもない最悪もない そこそこの人生”が “普通の仕合せ”なのかも知れない。そこに“仕合せを感じる”ことができれば 人生一丁上がりなのかも知れない。

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