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超一流になれなかった国

オリンピックの開催が リオデジャネイロに決まった。
日本の都市が オリンピック招致に失敗三度目である。名古屋、大阪、東京と三度目の正直はなかったのである。それぞれ、ソウル、北京に破れ、今度はリオに負けた。
国内候補地選定では福岡と争った東京が 招致を決めたが この時既に、“なんで東京か” という思いが日本人の大多数のものではなかったか。アジアの開催地を念頭に置けば、むしろソウル、北京の次には 福岡の方が、ふさわしいように思ったものだった。国内的に見ても、東京一極集中を回避し、日本各地の都市自治体の活性化のためには東京以外の方が 好ましかったのではないか、と思ったのだ。
だから 国内でも盛り上がりは生まれなかったのではないか。開催地決定の前日、ある女性のニュース・キャスターだったが、同僚の男性キャスターに予想を聞かれて“やっぱりリオあたりでやったらいいような気がします。”と あっさり言ってのけたのに、少々驚きとともに、なるほど ほとんどの日本人はそう思っているのだ、と改めて思い直したものだった。

こういう国家的決定が 一般国民や国際社会の意識と大きくかけ離れた認識に基づいてなされて来なかったか。そういうことが日本の国際的地位を 逆に 貶めて来なかったか。さらには、そういう活動の中で、無駄な税金が使われて来ただけということはなかったか。
そんな直感が 駆け巡るのだ。

大きな将来性のある ブラジルのリオデジャネイロに決まったのは どう見ても妥当な話だ。これからは 途上国の開催地決定へと どんどん突き進むことのなるだろう。余程 上手く 途上国候補地のスキマを狙っていかないと日本でのオリンピック開催は あり得ないだろう。様々な局面・レベルでの根底的戦略性が必要だ。そんな 粘着的持続力は 淡白草食系の日本人には無理のような気もするが・・・。
特に、今回のように 小手先のプリゼンテーションで何とかしようという 姑息な手段だけでは永遠にやれないだろう。下手な戦略 というより無戦略は、どんなに巧みな戦術でもカバーできないことを またまた証明してしまった。
“エコ”が東京開催の キィ・ワードだと取って付けたような主張だったが、埋立地利用の開催が 本当にエコロジーにつながっているのか。
バックアップするべき、エモーションというか、国民的パッションも欠いたままだったのだ。

このことは 日本の国際的地位というか 国際的存在価値または 必要性の低下の結果であることも 否めまい。
途上国の発展と、先進国の成長の鈍化の傾向は一般的であるという。国家・地域間の格差は縮まり、世界は どんどん均一化して来ているのだ。その均一化の中で 特に日本は どんどんうずもれて行くのではないか。人口減少の中で 没落の縁に立っているように思う。日本には 明日が見えないのだ。
しかも あたかも末法思想のように 地球温暖化が言われ、事実 現象的には 温暖化しているように見える。これが 催眠術のように人々の心を さらに暗くしている。突破口の無い 暗い潜在意識に埋もれて行っている印象だ。

思えば、日本が一番輝いたのは80年代だった。あのころは豊かな社会だった。日本が歴史的頂点に登った一瞬の時代だった。人々の公共の場でのマナーも今より良かった。忘れ物をしても そのままその場所に有ったり、必ず どこかに届けられていて、無くなることはなかった。それより前は こんなことはなかったし、今現在も こんなことは ほとんどなくなったように思う。今は 貧しい社会に逆戻りしている印象だ。
そして その頃に 日本は国際社会でも超一流の地位を築くべきだったのだが、その機会を逃したように思う。最早、このようなチャンスは 日本にとって永遠に来ないのではないか。
バブル崩壊時に 国外勢力に付け込まれて そのまま 豊かな社会は遠退いて行った印象だ。
超一流になったからと言ってそれにどういう価値があるのか、という議論もあるだろうが、物質的にも精神的にも豊かな社会の方が 良いにきまっている。貧しい格差社会では困るのだ。

その格差社会は 新自由主義という考え方だけの問題ではない。世界経済の均一化、メガコンペティションの一環によるものなのだ。世界中の貧困が 日本にも押し寄せてきているのが問題の本質であり、低技能労働者の低賃金競争になっているのが事実なのだ。特に、途上国の低賃金労働者は 劣悪な労働環境の中で、著名な世界企業に搾取されている。このことを 強く認識するべきだ。国連のグローバル・コンパクトは そのような不正義が 増加してきている事実への警告でもあるのだ。
世界の貧困を根絶しなければ 格差社会の問題の本質は解決しないのだ。貧困は それを見かけ上解決しようとする暴力による紛争や戦争の原因にもなっているのだ。世界の人口爆発の中での 貧困の根絶がなければ、いずれ 人間社会は立ち行かなくなる。つまり 人類の絶滅への道なのだ。地球の崩壊ではない。人類社会より地球の寿命は長いと思うべきだ。こう考えると“猿の惑星”は絵空事ではない。
エゴイスティックなパワー・ゲームに熱中するあまり、自己の足許が 崩壊していることを認識できずにいることが問題なのだ。
だから 暴力の頂点にある核の廃絶が 現実の政治課題となってきているのだ。

話が 発散し過ぎてしまった。
現東京都知事にどのような利権があったのかは、知らない。しかし、背後には必ず 様々な利権が交錯したに違いない。“元気になるべきだ”とは そういう事であると いい加減思い知るべきなのだ。利益があるから“元気になる”のであり、利益が見込めるから利権が発生するのである。
一般人に何のメリットもない不毛の活動に うつつを抜かしている場合ではないのは事実ではなかったか。このような消耗も 日本人の戦略性欠如の 結果なのだろう。戦略性がなければ超一流の国家にはなれない。
日本は 遠い将来を見据えずに、無駄な活動ばかりしているような気がするが、このまま消耗・摩滅して行くだけなのだろうか。
だが、4日のNHK特集にあったように 少なくとも 驚くような貧困が 子供たちの将来を奪うようなことは あってはならない。このような番組には 是非 竹中平蔵氏に出演していただき経済学者としての有益な 意見を拝聴したかったが、こういう人達は“不都合な真実”には近づかない特性を持っておいでのようだ。

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