The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
懲りない日本“おごり”で敗戦なのか―これからどうする
福島原発の対応を見ていて、日本の科学技術もえらく空洞化していたなぁの印象で “おごれる日本”の象徴のように感じている。例えば、ロボット大国日本はどこへ行ったのだろうか。放射線飛び交う中、ガレキを乗り越えて勇躍登場する日本の二足歩行ロボット、この勇姿に拍手喝采、さすがロボット先進国・日本、という光景で下手な危機対応で惨めな思いをしていた大方の日本人は、ここで溜飲を下げることになるハズだった。だが、一向に そのような和製ロボットは登場せず、米国製のキャタピラー付の“ロボット”が原子炉建屋に投入された。やっぱり日本の技術力は 最近外国に劣るものになったのだろうか。
ロボットばかりではない。放射線計測のための、或いは原子炉の状況確認のための無人の日本製ヘリコプターがいち早く活躍せず、米軍の無人偵察機が放射線等の情報収集をしたというのは何故なのだろうか。
先日、日本のロボット博士と言われる御仁がテレビ出演し、ガンダムなら800億円あれば作れる、と称して“どや顔”をしていたが、非常に不愉快であった。こんな国家的危機時にガンダムを作って何になるというのか。この緊急時、高温、多湿で放射線の飛び交う中で、細かい調査や、溶接・組立て作業のできる人型ロボットも作らずに、“どや顔”をするような御仁は語るに落ちるし、情けなさも極まれる。それとも、このような事態はテレビ局側の問題で収録したのは、3月11日以前だったというのだろうか。ならば、テレビ局も その旨の釈明を流すべきではなかったか。あの番組は 時期的にはあまりにも不謹慎であった。
いや、ここではそういうことが言いたいのではない。どうして、急遽日本のロボット関係者が総力を結集して、二足歩行で細かい調査や、溶接・組立て作業のできる人型ロボットを作ろうという気運が生まれて来ないのだろうか。この瞬発力が日本にみなぎらないのは何故なのだろうか。それが、何とか原発を冷温停止させる決定的決め手であるにもかかわらず国家プロジェクトが結成できないのは、日本には危機を乗り越える力が衰えて来ているためだろうか。せめて政治主導ででも、成し遂げる意欲あるチームが登場しないのは何故なのだろう。その姿勢こそ科学技術立国の原点ではないのか。
政治といえば、あの首相は何とかするべきではなかろうか。平時においても経済音痴のため財務官僚の思うままにコントロールされているし、組織マネジメントのセンスにも欠けているためあらゆる情報を独占しようとする。それが、緊急の危機に際してあまりにも極端な形で不適切な挙動として現れてきている。
この緊急事態に不適切な首相を、日本の法律では対処のしようが無いというのが実情のようだ。例えば、日本の首相が突然気が狂ったとして、本人が辞任する意思が無い場合、どうするのか。日本の首相は、きちんとした人物がやることが大前提となって体制が出来上がっているため、その首相が明らかに異常であっても、法的には如何ともし難い、というのが実態のようだ。本人が辞任しない限り、勝手にその地位を外部から奪うことはできないようになっているらしい。
組織自身が緊急に対処しなければ組織の存亡に係わるにもかかわらず、トップが明らかに不適任であることが判明した場合、危機管理対応をどうするべきなのであろうか。組織に所属する人々は如何にするべきであろうか。
以前、クリムゾン・タイドという映画を見たことがある。敵地に潜行出撃した潜水艦で、外部交信すれば情報漏洩となるため無線封止状態の中で、少しエキセントリックで自分の狭い経験だけから事態を即決しようとする艦長以下のグループと、何とか外部情報を収集してから冷静に判断を下そうとする副長以下のグループが対立するという内容だった。判断を誤ると核戦争の引き金を引くことになるので副長は艦長を解任して、事なきを得るという筋だったように思う。ここで欧米の軍隊では緊急異常事態では乗組員の一定の合意の下で、艦長解任という処置が取れる仕組にしてある、ということを了解したものだった。そういう仕組もリスク・マネジメント上では必要なのかも知れない。
今、日本は正常な状況ではない。危急存亡の中にあって、適切な判断ができない首相が居座っているというのが現状だ。ここで、首相を選ぶ選挙をしている時間的余裕のないのだが、何をどのようにするべきなのであろうか。官房長官以下の閣僚の誰かが、超法規的処置に出なければならない時なのかも知れない。しかし、この場合、まずトップの“異常”とは何を持ってそのように判断するのか、判断基準の客観性が厳しく問われることになるのだが・・・。
とにかく、現在 異常事態下にあって日本は萎縮し、脳死している。綿密なリスク・マネジメントが未整備であった上に、“治に居て乱をわすれず”という危機管理の思想が全体に欠落していたためではないか。それは、単純に悪しきこと、不都合なことには、あり得ないこととして目をつぶる、そういう思考力の弱さが、想定外事態に対処していなかった原因だったのだろうか。“マグニチュード9の地震”や、“15mの津波の来襲”、“全電源喪失”という少なくとも、この3つのいずれか1つでも対処していれば 今の“FUKUSHIMA”の事態は生じなかったはずにもかかわらず何もしていなかったのである。
これまでリスク・マネジメントの一分野として原子力発電の危険性について“科学的に評価”して、日常生活において生じるどのような危険より程度は低いのだ、という講義を私は何度か聞かされた。特に、巨大な地震などは1000年に1度しか生じない。1000年に1度の大災害にも対処するべきであるというのは経済的に見ても合理的判断ではない、という主旨も聞いていたと理解している。それも今回の事件でテレビに解説者として登場してきたような学者達からである。
だが、1000年に1度といえども、起きる可能性は厳然としてある訳で、その限りにおいて一旦生じれば膨大な損失を生むし、現実にそうなった。特に、当事者にとっては、それで命を落とせば世界は終わりなのであり、“リスク”どころではなくなってしまう。確かに、下手すればスキーや自動車による交通事故、航空機事故によっても命を落とすことはありうるのではある。それに比べて今の原発は安全だと語る雰囲気が 以前には 或るところにはあったのは事実だったのだ。
リスク評価の基本は、(発生頻度)×(事故による損害)という数値で評価することになっているが、それで様々な事象のリスクを客観的に比較評価可能なものとなるのであろうか。そもそも、“発生頻度”や“事故による損害”いずれにも 比較可能な公平無私で客観的な数値を算定することが可能なのであろうか。それに、今回の事件以降は“1000年に1度”の発生確率には 対処することはあっても、今度は“1万年に1度”には対策はしないのか。それが実は“1万年に1度”が目前に迫っているかも知れないとしても、対処しないのであろうか・・・。いや、1000年を越える発生頻度の事象を検出すること自体が非常に困難なことであり、容易に見落としてしまう事象ではある。見落としてしまえば、マネジメントや分析対象にもなり得ない。だから、こういう 極めてまれな発生頻度であるが、被害が甚大であり、それが原状回復不可能であればあるほど、(発生頻度)×(事故による損害)という評価方法は問題があるように思えるのだ。多少ベイズ理論でその発生確率を修正することがあってもそれで評価の本質は大きく変わらないと考えるのだ。
私は必ずしも原発そのものに それほど後ろ向きではない。今回の事件はこれまでのリスク対処への姿勢に問題があったためではないかと思っている。むしろ、今回の拙劣な対応によって、原発への拒否反応が大きくなることに危惧を持っているくらいだ。
これまでの原子力行政は業(電力業界)を中心とした政・官・学の鉄の三角形にあり、それは狭い世界であり、原子力村と揶揄されている。だが原発は とてつもない利益を生み、それが利権となって、業の発する甘い蜜に吸い寄せられた政・官・学、それに報道も加わって、村を形成していたとされる。だから、業に都合のよい話や、情報が尊重され、それを是とする空気が醸成されて行ったのではないか。その過程で、この村のメンタリティーの背景に何らかの“おごり”が形成されて行ったように感じられてならない。日本の原子力発電の技術力の“高さ”への根拠無き“おごり”である。それは、日本に原発を導入して40年間、大過なく過ごして来れた自信へのいわれなき“おごり”ではなかったか。狭い村の中で夜郎自大の空気が醸成されて行ったのではないか、と思っている。
だが“これまで大過なく過ごして来れた”とはいうものの実は大事に至らなかった“小事件”は実際にはいくつもあった、にもかかわらず、“おごり”が生まれていたのではないか。何故このような根拠無き“おごり”が生じるのであろうか。
少し考えてみて欲しい。今回、事故を起こした原発はいつ頃のもので、日本が独自に科学技術を駆使して開発したものであったのか。あの原子炉は米国のジェネラル・エレクトリック社(GE)が開発したものを、日本の東芝と日立が見よう見真似で作ったものだ。しかも、週刊誌によれば、GEの技術者がその安全性に自信が持てないと言って、生産を中止するようにGEに提言していた開発初期のマークⅠ型であると言うではないか。航空機で言えば 危なっかしい複葉機のような原子炉である。その複葉機を持って、何ら根本的改良も施さずに、世界に冠たる安全な技術であると称していたのであるから、それは非科学的で滑稽な姿ではないか。せめて複葉機をスティルス・ジェット機に改造していたのであれば 大したものと言えるのだが・・・・。
根拠無き“過信”と“おごり”が、何故か不都合なことへの対処をはばかる要因となったのではないのか。
あの60年前の戦争では“おごれる日本”の“空気”が敗戦の原因となったと言われているが、今また 意味無く“おごれる日本”が 日本を滅ぼそうとしているように感じる。そもそも10年少し前の金融敗戦で、その戦塵も収まらぬ内に、それでも未だ懲りずに 学び、研究する姿勢も乏しい状態ではないか。徹底した反省の上に立って、たくましく立国する意志が 日本全体に強く感じられないのは 非常に残念なのだ。
ロボットばかりではない。放射線計測のための、或いは原子炉の状況確認のための無人の日本製ヘリコプターがいち早く活躍せず、米軍の無人偵察機が放射線等の情報収集をしたというのは何故なのだろうか。
先日、日本のロボット博士と言われる御仁がテレビ出演し、ガンダムなら800億円あれば作れる、と称して“どや顔”をしていたが、非常に不愉快であった。こんな国家的危機時にガンダムを作って何になるというのか。この緊急時、高温、多湿で放射線の飛び交う中で、細かい調査や、溶接・組立て作業のできる人型ロボットも作らずに、“どや顔”をするような御仁は語るに落ちるし、情けなさも極まれる。それとも、このような事態はテレビ局側の問題で収録したのは、3月11日以前だったというのだろうか。ならば、テレビ局も その旨の釈明を流すべきではなかったか。あの番組は 時期的にはあまりにも不謹慎であった。
いや、ここではそういうことが言いたいのではない。どうして、急遽日本のロボット関係者が総力を結集して、二足歩行で細かい調査や、溶接・組立て作業のできる人型ロボットを作ろうという気運が生まれて来ないのだろうか。この瞬発力が日本にみなぎらないのは何故なのだろうか。それが、何とか原発を冷温停止させる決定的決め手であるにもかかわらず国家プロジェクトが結成できないのは、日本には危機を乗り越える力が衰えて来ているためだろうか。せめて政治主導ででも、成し遂げる意欲あるチームが登場しないのは何故なのだろう。その姿勢こそ科学技術立国の原点ではないのか。
政治といえば、あの首相は何とかするべきではなかろうか。平時においても経済音痴のため財務官僚の思うままにコントロールされているし、組織マネジメントのセンスにも欠けているためあらゆる情報を独占しようとする。それが、緊急の危機に際してあまりにも極端な形で不適切な挙動として現れてきている。
この緊急事態に不適切な首相を、日本の法律では対処のしようが無いというのが実情のようだ。例えば、日本の首相が突然気が狂ったとして、本人が辞任する意思が無い場合、どうするのか。日本の首相は、きちんとした人物がやることが大前提となって体制が出来上がっているため、その首相が明らかに異常であっても、法的には如何ともし難い、というのが実態のようだ。本人が辞任しない限り、勝手にその地位を外部から奪うことはできないようになっているらしい。
組織自身が緊急に対処しなければ組織の存亡に係わるにもかかわらず、トップが明らかに不適任であることが判明した場合、危機管理対応をどうするべきなのであろうか。組織に所属する人々は如何にするべきであろうか。
以前、クリムゾン・タイドという映画を見たことがある。敵地に潜行出撃した潜水艦で、外部交信すれば情報漏洩となるため無線封止状態の中で、少しエキセントリックで自分の狭い経験だけから事態を即決しようとする艦長以下のグループと、何とか外部情報を収集してから冷静に判断を下そうとする副長以下のグループが対立するという内容だった。判断を誤ると核戦争の引き金を引くことになるので副長は艦長を解任して、事なきを得るという筋だったように思う。ここで欧米の軍隊では緊急異常事態では乗組員の一定の合意の下で、艦長解任という処置が取れる仕組にしてある、ということを了解したものだった。そういう仕組もリスク・マネジメント上では必要なのかも知れない。
今、日本は正常な状況ではない。危急存亡の中にあって、適切な判断ができない首相が居座っているというのが現状だ。ここで、首相を選ぶ選挙をしている時間的余裕のないのだが、何をどのようにするべきなのであろうか。官房長官以下の閣僚の誰かが、超法規的処置に出なければならない時なのかも知れない。しかし、この場合、まずトップの“異常”とは何を持ってそのように判断するのか、判断基準の客観性が厳しく問われることになるのだが・・・。
とにかく、現在 異常事態下にあって日本は萎縮し、脳死している。綿密なリスク・マネジメントが未整備であった上に、“治に居て乱をわすれず”という危機管理の思想が全体に欠落していたためではないか。それは、単純に悪しきこと、不都合なことには、あり得ないこととして目をつぶる、そういう思考力の弱さが、想定外事態に対処していなかった原因だったのだろうか。“マグニチュード9の地震”や、“15mの津波の来襲”、“全電源喪失”という少なくとも、この3つのいずれか1つでも対処していれば 今の“FUKUSHIMA”の事態は生じなかったはずにもかかわらず何もしていなかったのである。
これまでリスク・マネジメントの一分野として原子力発電の危険性について“科学的に評価”して、日常生活において生じるどのような危険より程度は低いのだ、という講義を私は何度か聞かされた。特に、巨大な地震などは1000年に1度しか生じない。1000年に1度の大災害にも対処するべきであるというのは経済的に見ても合理的判断ではない、という主旨も聞いていたと理解している。それも今回の事件でテレビに解説者として登場してきたような学者達からである。
だが、1000年に1度といえども、起きる可能性は厳然としてある訳で、その限りにおいて一旦生じれば膨大な損失を生むし、現実にそうなった。特に、当事者にとっては、それで命を落とせば世界は終わりなのであり、“リスク”どころではなくなってしまう。確かに、下手すればスキーや自動車による交通事故、航空機事故によっても命を落とすことはありうるのではある。それに比べて今の原発は安全だと語る雰囲気が 以前には 或るところにはあったのは事実だったのだ。
リスク評価の基本は、(発生頻度)×(事故による損害)という数値で評価することになっているが、それで様々な事象のリスクを客観的に比較評価可能なものとなるのであろうか。そもそも、“発生頻度”や“事故による損害”いずれにも 比較可能な公平無私で客観的な数値を算定することが可能なのであろうか。それに、今回の事件以降は“1000年に1度”の発生確率には 対処することはあっても、今度は“1万年に1度”には対策はしないのか。それが実は“1万年に1度”が目前に迫っているかも知れないとしても、対処しないのであろうか・・・。いや、1000年を越える発生頻度の事象を検出すること自体が非常に困難なことであり、容易に見落としてしまう事象ではある。見落としてしまえば、マネジメントや分析対象にもなり得ない。だから、こういう 極めてまれな発生頻度であるが、被害が甚大であり、それが原状回復不可能であればあるほど、(発生頻度)×(事故による損害)という評価方法は問題があるように思えるのだ。多少ベイズ理論でその発生確率を修正することがあってもそれで評価の本質は大きく変わらないと考えるのだ。
私は必ずしも原発そのものに それほど後ろ向きではない。今回の事件はこれまでのリスク対処への姿勢に問題があったためではないかと思っている。むしろ、今回の拙劣な対応によって、原発への拒否反応が大きくなることに危惧を持っているくらいだ。
これまでの原子力行政は業(電力業界)を中心とした政・官・学の鉄の三角形にあり、それは狭い世界であり、原子力村と揶揄されている。だが原発は とてつもない利益を生み、それが利権となって、業の発する甘い蜜に吸い寄せられた政・官・学、それに報道も加わって、村を形成していたとされる。だから、業に都合のよい話や、情報が尊重され、それを是とする空気が醸成されて行ったのではないか。その過程で、この村のメンタリティーの背景に何らかの“おごり”が形成されて行ったように感じられてならない。日本の原子力発電の技術力の“高さ”への根拠無き“おごり”である。それは、日本に原発を導入して40年間、大過なく過ごして来れた自信へのいわれなき“おごり”ではなかったか。狭い村の中で夜郎自大の空気が醸成されて行ったのではないか、と思っている。
だが“これまで大過なく過ごして来れた”とはいうものの実は大事に至らなかった“小事件”は実際にはいくつもあった、にもかかわらず、“おごり”が生まれていたのではないか。何故このような根拠無き“おごり”が生じるのであろうか。
少し考えてみて欲しい。今回、事故を起こした原発はいつ頃のもので、日本が独自に科学技術を駆使して開発したものであったのか。あの原子炉は米国のジェネラル・エレクトリック社(GE)が開発したものを、日本の東芝と日立が見よう見真似で作ったものだ。しかも、週刊誌によれば、GEの技術者がその安全性に自信が持てないと言って、生産を中止するようにGEに提言していた開発初期のマークⅠ型であると言うではないか。航空機で言えば 危なっかしい複葉機のような原子炉である。その複葉機を持って、何ら根本的改良も施さずに、世界に冠たる安全な技術であると称していたのであるから、それは非科学的で滑稽な姿ではないか。せめて複葉機をスティルス・ジェット機に改造していたのであれば 大したものと言えるのだが・・・・。
根拠無き“過信”と“おごり”が、何故か不都合なことへの対処をはばかる要因となったのではないのか。
あの60年前の戦争では“おごれる日本”の“空気”が敗戦の原因となったと言われているが、今また 意味無く“おごれる日本”が 日本を滅ぼそうとしているように感じる。そもそも10年少し前の金融敗戦で、その戦塵も収まらぬ内に、それでも未だ懲りずに 学び、研究する姿勢も乏しい状態ではないか。徹底した反省の上に立って、たくましく立国する意志が 日本全体に強く感じられないのは 非常に残念なのだ。
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