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新潮45の特集記事“さらば維新と言おう”を読んで

大阪在住ではないためか、不注意だったのかで知らなかったが、この22日日曜に大阪府知事・大阪市長のダブル選挙の投票日だと言う。日程は迫っている。
私は“維新政治”はもう終わりとするべきで、そうでなければ本格的都市戦略の構築と実行による“大阪の再生はない”と考えていて、何とか維新勢力が敗退して消滅して欲しいと思っている。私が育った大阪が荒廃して行くのは見るに忍びない。否、大阪の荒廃は近隣の関西諸都市全体への悪い影響が大きいのは確実でもあるのだ。それは東京集中をさらに促進することにしかならない。それは日本全体の不幸でもあるのだ。そうならないために何とかこのブログを読んで頂いている大阪の方々―どれぐらいの方々が居られるのかは知らないが―には、明確に反維新俵を投じて頂きたいと思うので、慌ててこの記事を投稿している。幸いにも、雑誌“新潮45(2015・12月号)”が特集記事“さらば維新と言おう”を組んでいて同感したので、それを紹介しつつ“維新”批判を試みたい。

特集記事の冒頭にこうある。
“カネをめぐってヤクザ顔負けの抗争を繰り広げたかと思えば、またしても「維新」と名のつく新党を結成。「大阪都構想」を持ち出す一方で、今度は「5年で政権を取る」宣言である。もあや言ってることもやってることも支離滅裂。大阪と政治を弄び、引っ掻き回すだけの不逞の輩を、このまま野放しにしていいのか。もはや我慢も限界、こらえきれぬ時には党ごと流そう。選挙のその日を待って、さらば維新と言おう!”
もうこの序言で十分な気がするが、それだけも何やらモノ足りない。もう少し難癖付けた上で、御引取を願いたい。

この特集では次の記事が掲載されている。
(1)“大阪を不幸にした「暗黒の8年」” 藤井 聡(京都大学大学院教授)
(2)“名誉棄損裁判かく闘えり「橋下徹は人格障害」で訴えられて” 野田 正彰(精神科医・ノンフィクション作家)
(3)“大阪府民よ、いい加減に目を覚ませ” 適菜 収(作家・哲学者)
(4)“橋下組vs松野組・どっちもどっちの低級「大阪都抗争」” 落合 慶人(ジャーナリスト)

藤井教授は 学者らしく相変わらず反維新派の論戦の正攻法である。“橋下・松井府政は、過激な「緊縮」路線である”と主張して数字を示し、大阪を不況に貶めその結果府民所得を低下させ、さらに大阪府の財政を悪化させたと言っている。中でも府市二重行政の解消のため信用保証協会を統合し、さらに大阪市経済局を組織改編して観光・文化・スポーツといった行政を所管させるようにして、中小企業支援行政の質を劣化させたという。“大阪市内の事業所の98.1%を占める「新産業」と関連性をかならずしも持たない「中小企業」が、どんどん冷遇されていった。”と指摘する。都市計画についても防災の第一人者・河田惠昭教授が“防災・減災は選挙の票につながらないと素人政治家は判断し、今回の大阪都構想における大阪市の区割りや大阪府との役割分担において、防災・減災は全く考慮されていない。”と言っているという。*教育改革も“維新”が熱心に取り組んだという割には、小中高での暴力行為発生件数や不登校生徒数は増加し、全国ランキングでも悪い方へ変化しているという。

*その河田教授や名古屋大学の福和伸夫教授がWTCは府庁舎としては 災害に弱い高層建築なので不適切であると説明した時(2011年)は当時の府知事橋下氏はそれを理解したとは、福和教授自身が神戸のあるセミナーで語ってくれていた。しかし未だにそれを府庁舎として利用し府職員は本庁舎との行き来に振り回されているという報道がある。どうやらここに有象無象の“維新”の本質があるようだ。

2番目の記事は、私も知らない“事実”を指摘している。野田氏は橋下徹氏を“自己顕示欲型精神病質者”であり、“演技性人格障害”と断定している。橋下氏の高校時代を知る教諭の“証言”によれば、“地味なことはしない。伝達伝言のようで、コミュニケーションにならない。嘘を平気で言う。バレても恥じない。信用できない。約束をはたさない。自分の利害にかかわることには理屈を考え出す。相手が傷つくことを平気で言い続ける。文化、知性に対して拒絶感があるようで、楽しめない”ということのようだ。余りにも現在の橋下氏と同様なので、あたかも作ったかのような話のように思って」しまう。これが事実なら、堺屋太一氏は橋下氏を“誠実な人”と人物評しているのだが、その客観的根拠はどこにあるのだろうか。そして、橋下氏は政治家として適格なのだろうか。
私は公的人間、特に権力を持っているものほど基本的人権は認めてはならないと考えている。権力者の個人情報は、全て公開されなければならない。或いは、反社会的性格が認められるような場合はそれは個人情報ではあるが選挙民はそれを問題にしなければならない、とも考えている。例えば、国会議員の保有資産の公開はそういう考え方の一環である。そこには不正蓄財を監視する意味もある。首相動静が毎日こと細かく新聞紙上に公開されるのはそういうことだ。もし、異常者が政治指導者になった場合、それは社会そのものの存続に強烈な危機を及ぼすことになるからだ。そういう意味で日本の現状からは高級官僚も、個人情報保護法で守られることがあってはならないはずだが、実態はどうであろうか。ヒットラーのような人格の所有者を政治的指導者として仰いではならないのである。そういう人物を選択するのは、選挙民自身の責任でもあるので、政治権力者の全てを知るのは選挙民の権利であり義務でもある。
野田氏はさらに言う。“政治は政策であるとのみ思っている人がいる。だが、政策を作っているのは人であり、政治家の集合である党や官僚、利害団体である。政策のみ批判すべきであるというまやかしの主張の裏にあるものを、市民は知るべきであろう。”

3番目の記事には、橋下氏の著書“図説 心理戦で絶対負けない交渉術”の紹介があって、そこに引用がある。“「詭弁を弄してでも黒いものを白いと言わせる技術」として次のような見出しが並ぶ。◎“脅し”により相手を動かす/ ◎一度オーケーしたことを覆す技術/ ◎追い込まれたら交渉を断ち切る/ ◎感情的な議論で交渉の流れを変える (これは)悪徳弁護士の手口そのもの”とあるが、先程の高校教諭の“証言”と一致するところが認められる。

4番目の記事は事実の記載ではあろうが、少々下品な内容なので語ることは控えたい。“維新”そのものの存在が下品なので、それを客観的に語るとなると下品になってしまうのだろう。そういう意味でこの雑誌を買って読んでみて欲しい。

私は、そもそも「維新」を看板に掲げるのには何を政治的目的にしているのか、論理的に全く理解できないでいる。ここに彼等の支離滅裂の根源があるのかも知れない。何故ならば、明治維新の根幹は封建社会という地域分権(封建とはそういう意味)を廃して、中央集権の国民国家nationを建てることにあったはずだ。にもかかわらず彼等は、“地方分権”を声高に叫ぶ。これを矛盾に感じないのは“政治音痴”、政治学を知らないオバカでしかない。
私は“地方分権”という言葉は使わないことにしている。何故ならば、私には“地方”という言葉に“痴呆”を連想させるものがあり、それは中央の官僚が“地方”を蔑視している背景があるのではないかと思っている。そして“分権”も好きな言葉ではない。そこには中央官僚に“御願いして権限(権力)を分けて頂く”ような語感があるからだ。特に、威勢のいいことを話す“維新”の連中が“地方分権”という言葉を連発するのには大いに違和感を覚えるのだ。
“分権”は、しばしば橋下氏が言うように権力闘争の果てに実現するものであり、“戦争”によってしか実現しないと考えるのが、まともな政治感覚を持ったものの考え方ではないか。“戦争”であるならば勝利するための戦略と戦術が必要だが、“維新”からは具体的にそのような計画を明かされたことはない。本来、選挙戦でその計画を明らかにしてこそ、“地方分権”の実が理解できるものではないのか。それこそが肝心要の点である。明らかにしないのではなくて、何もない言葉だけがあるので、“政権”が握れれば後はどうでも良いからに過ぎないのだろう。
同じようなことは“大阪の副首都化”にも言える。これには、具体策は全く語られない。何をもって“副首都”というのかすら、明確でない。これほどぼんやりしたイメージだけの政治スローガンは聞いたことが無い。

それよりも肝心の基礎自治体であり、政治的に市民民主主義の牙城であるべき大阪市を解体して大阪府を強化するというのは、ある種の中央集権の強化に他ならない。そういう考え方の背景に道州制がある。道州制とは、技術革新で古くなった都道府県制を改めて広域化した道州を使って中央集権を強化するための方途に過ぎない。これが政策の本質に他ならない。要するに大阪市解体は、“維新”というか橋下氏は権力志向が強く、独裁政権を手にした時のための集権強化の策に過ぎない。
したがい、多くの政治学者が大阪市解体に疑問を呈しているのは当然のことであり、世界の趨勢はむしろ都市を国家に比肩しうる政治力に育て上げるべきだとしていることを知るべきだ。何故ならば都市は民主主義そのものであるからだ。

最近“維新”が発表した“5年後には衆議院で過半数”というものが実現すれば良いのだろうが、地域政党が全国的に受け入れられるとは考えられない。ここにも具体的戦略が無く何やら行き詰りつつあるが 威勢だけが良い どこかの独裁政権を見るような気がする。

ところで、“維新”の政治家に不祥事が多すぎるのは何故だろう。“維新”の人材はかつて、維新政治塾を開催し数千名に上る有為の人々を集めて、そこから選抜した人々を“育成”し、“維新”から立候補させたいわば彼等の選良ではなかったのか。にもかかわらず、どうにも不良だらけの印象がある。いわば“選りすぐり”の“筋金入り”のガラクタの有象無象でしかない。公募した校長や区長でも、不良人は散見された。“維新”の人物を見極める眼力はいかがなものなのか。結局下品なごろつきの集まりだったというナチスを想起させる。

選挙する大阪府民や市民には、自民の利権構造の胡散臭さに辟易しているから、清新さのイメージのある“維新”に投票したくなるのは理解できるような気もする。しかし、府域で権力を保持し続けた彼等にも既に利権の構造は出来上がっているようだ。紹介した雑誌“新潮45”にもそれをうかがわせる記述が認められる。大阪市解体に利権があると言うのだ。具体的には不明だが、恐らくそういうことなのだろう。大阪市解体は大阪市民には不利益しかもたらさないのは確実なことである。

今回のダブル選で“維新”が勝利してもそれが直ちに“大阪市解体”から“大阪都構想”の実現へ至るものでは無いかも知れない。しかしまともな都市戦略の策定と実行が遅れに遅れ、その分大阪は地盤沈下して行くことを覚悟するべきだ。それは藤井教授の指摘するところだ。私もそれは紛うことなく真実だと確信する。何とか、選挙民の方が間違った判断を下さないことを 旧大阪府民として又 関西人として祈りたい。

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