The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
久しぶりの京都文化博物館・近世京都のすがたと戦時下の前衛画家展
問題の2020東京オリパラが始まってしまった。“始まれば不都合なことは皆、忘れるサ!”などとの不埒な台詞が、その通りの印象。人の世とはそんなものか。
それにしても、寸前までの人事起用のドタバタ。マネジメントというかガバナンス、アドミニストレーションいずれの言葉選びが適切かは知らぬが、何が欠けているのだろうか。まるでアホアホ運営を絵に描いたような仕儀である。
組織委のトップの熱意、情熱が無いのが原因ではないのか。
TBSの1、2週間前の報道番組で組織委職員のこんな意味の言葉を紹介していた。“毎日、毎日、問題が上がってくるので相談はしているが、解決策のないまま時間だけが過ぎて行く。気が付けば無為に日々が過ぎて行っている。”
この言葉を聞いて不安がよぎらない訳がないではないか。恐らく、決定権のない一般職員に問題を押しつけて何も判断しない組織委幹部の仕事のスタイルが目に見えるように感じる。それは仕事に熱意、情熱が無いのと、判断力のない無能な人物が幹部に座っていることが原因だろうと想像できる。
前回の1964東京五輪はNHK大河ドラマ“いだてん〜東京オリムピック噺〜”を見て分かるように、主催者には熱意、情熱があったし、その開催コンセプトは言葉にしなくても、十分に伝わった。だが、今回の開催には何の意義があるのかサッパリ伝わってこない。だから、返ってその開催意義を示すコンセプトは言葉にして示す必要があった。
だからこそ、主催者に熱意、情熱が無いのは大会コンセプトが無いためではないか、とも思える。だが、実はそれは決まっていて、正式にはUnited by Emotionだという。和訳すると“感動で、私たちは一つになる”とのこと。
この言葉の背景を解説する一文があるが、残念ながらそこには最初に言われた“復興”がどこへ行ったか欠片もない。こうなると東北の被災者がダシに使われたという喪失感が一層大きくなるのではあるまいか。そこに“誰も取り残さない”意識があるのだろうか。そこにも強烈ないい加減さ、テキトー感が透けて見えるように思う。“共生”をいうのなら、“復興”や疫病の“克服”を目指す言葉があって然るべきではなかったか。それがあっての“共生”ではないのか。実感を伴わない言葉の上滑り感が漂っているではないか。やっぱりそこには組織委のトップの熱意、情熱が無いのが透けて見えるように思うのだ。
2020東京オリパラで私がもっとも懸念したのは、サイバーテロ。世界中のハッカーが東京の中枢を、腕によりをかけて襲うことだった。その中でも、中国はアジアの盟主は最早日本ではなく、中国であることを世界に印象付ける強い動機を持っていて、手ぐすね引いてまっていたと思われたからだ。
ところが、開会式は異状なく開始され、予定時間はオーバーしたものの無事終了した。日本政府のデジタル対応の無様さは定評となった観があるが、とにかく無事過ぎたのは良かったことだ。恐らく、米英の強力なバックアップがあったのではなかろうか。この舞台裏はひょっとすると永遠に闇の彼方となるのかも知れない。だがこれこそ縁の下の力持ちの黒子であり、称えるべきであろう。
さて、今回は今月上旬、午後の研修会に久しぶりに来京するので、午前の時間を無駄にしないように京都文化博物館の展示観覧に赴くことにした。展示は次の2つであったので紹介したい。
〇京都文化プロジェクト 誓願寺門前図屏風 修理完了記念・花ひらく町衆文化 ―近世京都のすがた
〇さまよえる絵筆―東京・京都 戦時下の前衛画家たち
このところ、カテゴリー“休戦エンタ”への投稿ばかりとなってしまっているが、投稿ネタの在庫一斉処分となってしまっているためだ。自粛の中、思わず在庫が滞留してしまいこのようなことになり、申し訳ない。もうそろそろカテゴリー“書棚”への投稿をしたいと考えている。
“花ひらく町衆文化 ―近世京都のすがた”展示では、HPに次のように紹介している。会場は4階特別展示室。
当館が所蔵する岩佐又兵衛筆「誓願寺門前図屏風」は、又兵衛が描いた国宝「洛中洛外図屏風」と共に都市風俗画の重要作例として認識されています。当館では、当該作品の解体修理を行い、このほど無事に完成を迎えることができました。本展はこの機会をとらえ、新たに修理が加えられた誓願寺門前図屏風とその関連資料を展示し、当該作品の新たな魅力に迫ります。
またあわせて、この屏風が描かれた江戸時代の京都に焦点をあて、近世都市京都がいかに表象され、また都市に息づく人々はどのように文化を紡いできたのか、絵画、考古、古文書など豊富な資料で展観いたします。
岩佐又兵衛[いわさ またべえ;天正6年(1578年)~慶安3年6月22日(1650年7月20日)]は、江戸時代初期の絵師。Wikipediaによれば、次の通り。
摂津国河辺郡伊丹(現在の兵庫県伊丹市伊丹)の有岡城主、荒木村重の子として生まれる。 誕生の翌年・天正7年(1579年)、村重は織田信長の家臣であったが、信長に反逆を企て、失敗する(有岡城の戦い)。落城に際して荒木一族はそのほとんどが斬殺されるが、数え年2歳の又兵衛は乳母に救い出され、石山本願寺に保護される。
成人した又兵衛は母方の岩佐姓を名乗り、信長の息子・織田信雄に近習小姓役として仕えたという。文芸や画業などの諸芸をもって主君に仕える御伽衆のような存在だったと考えられる。信雄が改易後、浪人となった又兵衛は勝以を名乗り、京都で絵師として活動を始めたようである。
大坂の陣の直後の40歳のころ、福井藩主・松平忠直に招かれて、あるいは後に岩佐家の菩提寺になる興宗寺第十世心願との出会いがきっかけで、北の庄(現福井市)に移住する。忠直配流後、松平忠昌の代になっても同地に留まり、20余年をこの地ですごす。寛永14年(1637年)2代将軍・徳川秀忠の招き、あるいは大奥で地位のあった同族の荒木局の斡旋で、3代将軍・徳川家光の娘・千代姫が尾張徳川家に嫁ぐ際の婚礼調度制作を命じられ、江戸に移り住む。20年余り江戸で活躍した後、73歳で波乱に満ちた生涯を終える。家は福井に残した長男・岩佐勝重が継いだ。また、長谷川等伯の養子になった長谷川等哲も又兵衛の子といわれる。
“荒木村重の子”とは驚きである。有岡城落城後、織田信長の激怒から荒木一族は妻子すべてが処刑されたものと思っていたが、見過ごされた子があったのだ。(有岡城城址はJR伊丹駅直ぐ西にある。村重は尼崎城や神戸市内の花隈城(現・駐車場)も領有していた。)しかも、村重自身は生き延びて、その後秀吉の御伽衆となったとあるので、親子ともども同じような職に就いたのだろうか。否、お互い生前に名乗り合って顔を合わせたことがあるのだろうか。
“誓願寺門前図屏風”は、福井に移住する直前に描かれたものと想像されるとのこと。徳川家の江戸幕府政権が安定するか否かの不安定期の京都の街の様子がうかがえるというもの。
誓願寺は京都の中心地、新京極通りのど真ん中にある“浄土宗西山深草派”の総本山で、世阿弥作と伝えられる謡曲「誓願寺」の中で和泉式部が歌舞の菩薩となって現れることから、芸道上達を祈願して「扇塚」に扇子を奉納する慣習があるという。
そこで、門前図の一角に扇屋があり、そこには女主人が客の相手をしているが、彼女は夜は遊女として稼いでいるという裏悲しさがある、という解説ビデオが会場にあった。この絵にはそれ以外にも様々な町人エピソードが描かれているというのだ。そこに風俗の歴史的価値もあるというのだ。
またこの絵は、屏風となっているが常時鑑賞できるように“ふすま”になっていた時期があることが分かったという。
戦国後期から江戸初期には洛中洛外図は多数描かれたことは知ってはいた。国宝“洛中洛外図屏風 上杉本”がその中でも最も秀逸だとされるものだ。これは狩野永徳画とされ、信長が謙信を恐れて機嫌を取りなすために贈ったものとされている。それ以外にも、この図のように立派なものがあるというのだ。日本の歴史の奥深さの一つを思い知った印象だ。
この岩佐又兵衛の図を中心に、関連した芸術作品が紹介展示されているものと思っていたが、とにかく京都の町衆の生活が分かるような絵や物品の展示だった。ひどいのは“蛤御門の変で罹災した磁器”だ。こうなると一体何なんだの思いがこみ上げた。その点が、若干不満でアンケートにその旨を書いて会場を出た。
“さまよえる絵筆”展は、下の3階展示室だ。
こちらの開催趣旨は次の通り。
日本の前衛芸術が最盛期を迎えた1930年代後半、京都では、独立美術京都研究所や新日本洋画協会を中心に、新しい絵画の実験が行われていました。活動の中心にいた北脇昇と小牧源太郎は、東京の芸術団体である創紀美術協会や美術文化協会にも参加し、活動の幅をさらに拡大しようと試みます。
しかしながら日中戦争から太平洋戦争へと突き進む状況下にあって、日本の前衛画家たちは徐々に表現の自由を奪われていきます。西洋の古典絵画を思わせる技法で描かれた人物画や静物画、埴輪や仏像、地方の風景など、描く技法やモチーフは変化していきます。瀧川事件以来、思想と学問の自由が段階的に狭められてきた京都の画家たちもまた、身近な「伝統的」モチーフを描くことで、人間や社会の深層を独自に探求し始めます。
本展では、戦時下で「新しい絵画」を模索し続けた前衛画家の作品を、当時の資料とともにご紹介します。東京と京都、ふたつの都市を拠点とする前衛画家たちは、さまよいながらも、絵筆を止めることなく「今」をキャンバスに写し続けました。
未公開作品を含め、これまで限定的な公開にとどまっていた作品約110点と資料をご紹介いたします。
実際に見て回ったが、絵は異様にグロテスクであったり、単なる模様の類や仏画に走ったもの等で、“芸術は爆発だ―ァ!”といったエネルギーや明るさや自由を感じないものばかりだった印象だ。ただひたすら個人的内面に力なく沈潜して行くような絵画ばかりだったように感じた。
戦前の“精神の不自由”時代の作品と言う、先入観でそのように見てしまったのであろうか。とにかく“これは良い!!”と思える作品はなかったように思う。 紹介しておきながら申し訳ないが、“不自由の時代”に芸術は育たないという当然の結論の確認。意気消沈の気分で会場を出た。
京博の展示鑑賞を終え、ほぼ予定通りの12時前となった。昼食は近くの“京味菜 わたつね”で、やまかけそばを注文した。ここは蕎麦屋と思い込んでいたが、蕎麦を中心に近所の日常の食を満たしている印象だ。焼き魚定食や刺身定食や丼物もある。
それにしても、寸前までの人事起用のドタバタ。マネジメントというかガバナンス、アドミニストレーションいずれの言葉選びが適切かは知らぬが、何が欠けているのだろうか。まるでアホアホ運営を絵に描いたような仕儀である。
組織委のトップの熱意、情熱が無いのが原因ではないのか。
TBSの1、2週間前の報道番組で組織委職員のこんな意味の言葉を紹介していた。“毎日、毎日、問題が上がってくるので相談はしているが、解決策のないまま時間だけが過ぎて行く。気が付けば無為に日々が過ぎて行っている。”
この言葉を聞いて不安がよぎらない訳がないではないか。恐らく、決定権のない一般職員に問題を押しつけて何も判断しない組織委幹部の仕事のスタイルが目に見えるように感じる。それは仕事に熱意、情熱が無いのと、判断力のない無能な人物が幹部に座っていることが原因だろうと想像できる。
前回の1964東京五輪はNHK大河ドラマ“いだてん〜東京オリムピック噺〜”を見て分かるように、主催者には熱意、情熱があったし、その開催コンセプトは言葉にしなくても、十分に伝わった。だが、今回の開催には何の意義があるのかサッパリ伝わってこない。だから、返ってその開催意義を示すコンセプトは言葉にして示す必要があった。
だからこそ、主催者に熱意、情熱が無いのは大会コンセプトが無いためではないか、とも思える。だが、実はそれは決まっていて、正式にはUnited by Emotionだという。和訳すると“感動で、私たちは一つになる”とのこと。
この言葉の背景を解説する一文があるが、残念ながらそこには最初に言われた“復興”がどこへ行ったか欠片もない。こうなると東北の被災者がダシに使われたという喪失感が一層大きくなるのではあるまいか。そこに“誰も取り残さない”意識があるのだろうか。そこにも強烈ないい加減さ、テキトー感が透けて見えるように思う。“共生”をいうのなら、“復興”や疫病の“克服”を目指す言葉があって然るべきではなかったか。それがあっての“共生”ではないのか。実感を伴わない言葉の上滑り感が漂っているではないか。やっぱりそこには組織委のトップの熱意、情熱が無いのが透けて見えるように思うのだ。
2020東京オリパラで私がもっとも懸念したのは、サイバーテロ。世界中のハッカーが東京の中枢を、腕によりをかけて襲うことだった。その中でも、中国はアジアの盟主は最早日本ではなく、中国であることを世界に印象付ける強い動機を持っていて、手ぐすね引いてまっていたと思われたからだ。
ところが、開会式は異状なく開始され、予定時間はオーバーしたものの無事終了した。日本政府のデジタル対応の無様さは定評となった観があるが、とにかく無事過ぎたのは良かったことだ。恐らく、米英の強力なバックアップがあったのではなかろうか。この舞台裏はひょっとすると永遠に闇の彼方となるのかも知れない。だがこれこそ縁の下の力持ちの黒子であり、称えるべきであろう。
さて、今回は今月上旬、午後の研修会に久しぶりに来京するので、午前の時間を無駄にしないように京都文化博物館の展示観覧に赴くことにした。展示は次の2つであったので紹介したい。
〇京都文化プロジェクト 誓願寺門前図屏風 修理完了記念・花ひらく町衆文化 ―近世京都のすがた
〇さまよえる絵筆―東京・京都 戦時下の前衛画家たち
このところ、カテゴリー“休戦エンタ”への投稿ばかりとなってしまっているが、投稿ネタの在庫一斉処分となってしまっているためだ。自粛の中、思わず在庫が滞留してしまいこのようなことになり、申し訳ない。もうそろそろカテゴリー“書棚”への投稿をしたいと考えている。
“花ひらく町衆文化 ―近世京都のすがた”展示では、HPに次のように紹介している。会場は4階特別展示室。
当館が所蔵する岩佐又兵衛筆「誓願寺門前図屏風」は、又兵衛が描いた国宝「洛中洛外図屏風」と共に都市風俗画の重要作例として認識されています。当館では、当該作品の解体修理を行い、このほど無事に完成を迎えることができました。本展はこの機会をとらえ、新たに修理が加えられた誓願寺門前図屏風とその関連資料を展示し、当該作品の新たな魅力に迫ります。
またあわせて、この屏風が描かれた江戸時代の京都に焦点をあて、近世都市京都がいかに表象され、また都市に息づく人々はどのように文化を紡いできたのか、絵画、考古、古文書など豊富な資料で展観いたします。
岩佐又兵衛[いわさ またべえ;天正6年(1578年)~慶安3年6月22日(1650年7月20日)]は、江戸時代初期の絵師。Wikipediaによれば、次の通り。
摂津国河辺郡伊丹(現在の兵庫県伊丹市伊丹)の有岡城主、荒木村重の子として生まれる。 誕生の翌年・天正7年(1579年)、村重は織田信長の家臣であったが、信長に反逆を企て、失敗する(有岡城の戦い)。落城に際して荒木一族はそのほとんどが斬殺されるが、数え年2歳の又兵衛は乳母に救い出され、石山本願寺に保護される。
成人した又兵衛は母方の岩佐姓を名乗り、信長の息子・織田信雄に近習小姓役として仕えたという。文芸や画業などの諸芸をもって主君に仕える御伽衆のような存在だったと考えられる。信雄が改易後、浪人となった又兵衛は勝以を名乗り、京都で絵師として活動を始めたようである。
大坂の陣の直後の40歳のころ、福井藩主・松平忠直に招かれて、あるいは後に岩佐家の菩提寺になる興宗寺第十世心願との出会いがきっかけで、北の庄(現福井市)に移住する。忠直配流後、松平忠昌の代になっても同地に留まり、20余年をこの地ですごす。寛永14年(1637年)2代将軍・徳川秀忠の招き、あるいは大奥で地位のあった同族の荒木局の斡旋で、3代将軍・徳川家光の娘・千代姫が尾張徳川家に嫁ぐ際の婚礼調度制作を命じられ、江戸に移り住む。20年余り江戸で活躍した後、73歳で波乱に満ちた生涯を終える。家は福井に残した長男・岩佐勝重が継いだ。また、長谷川等伯の養子になった長谷川等哲も又兵衛の子といわれる。
“荒木村重の子”とは驚きである。有岡城落城後、織田信長の激怒から荒木一族は妻子すべてが処刑されたものと思っていたが、見過ごされた子があったのだ。(有岡城城址はJR伊丹駅直ぐ西にある。村重は尼崎城や神戸市内の花隈城(現・駐車場)も領有していた。)しかも、村重自身は生き延びて、その後秀吉の御伽衆となったとあるので、親子ともども同じような職に就いたのだろうか。否、お互い生前に名乗り合って顔を合わせたことがあるのだろうか。
“誓願寺門前図屏風”は、福井に移住する直前に描かれたものと想像されるとのこと。徳川家の江戸幕府政権が安定するか否かの不安定期の京都の街の様子がうかがえるというもの。
誓願寺は京都の中心地、新京極通りのど真ん中にある“浄土宗西山深草派”の総本山で、世阿弥作と伝えられる謡曲「誓願寺」の中で和泉式部が歌舞の菩薩となって現れることから、芸道上達を祈願して「扇塚」に扇子を奉納する慣習があるという。
そこで、門前図の一角に扇屋があり、そこには女主人が客の相手をしているが、彼女は夜は遊女として稼いでいるという裏悲しさがある、という解説ビデオが会場にあった。この絵にはそれ以外にも様々な町人エピソードが描かれているというのだ。そこに風俗の歴史的価値もあるというのだ。
またこの絵は、屏風となっているが常時鑑賞できるように“ふすま”になっていた時期があることが分かったという。
戦国後期から江戸初期には洛中洛外図は多数描かれたことは知ってはいた。国宝“洛中洛外図屏風 上杉本”がその中でも最も秀逸だとされるものだ。これは狩野永徳画とされ、信長が謙信を恐れて機嫌を取りなすために贈ったものとされている。それ以外にも、この図のように立派なものがあるというのだ。日本の歴史の奥深さの一つを思い知った印象だ。
この岩佐又兵衛の図を中心に、関連した芸術作品が紹介展示されているものと思っていたが、とにかく京都の町衆の生活が分かるような絵や物品の展示だった。ひどいのは“蛤御門の変で罹災した磁器”だ。こうなると一体何なんだの思いがこみ上げた。その点が、若干不満でアンケートにその旨を書いて会場を出た。
“さまよえる絵筆”展は、下の3階展示室だ。
こちらの開催趣旨は次の通り。
日本の前衛芸術が最盛期を迎えた1930年代後半、京都では、独立美術京都研究所や新日本洋画協会を中心に、新しい絵画の実験が行われていました。活動の中心にいた北脇昇と小牧源太郎は、東京の芸術団体である創紀美術協会や美術文化協会にも参加し、活動の幅をさらに拡大しようと試みます。
しかしながら日中戦争から太平洋戦争へと突き進む状況下にあって、日本の前衛画家たちは徐々に表現の自由を奪われていきます。西洋の古典絵画を思わせる技法で描かれた人物画や静物画、埴輪や仏像、地方の風景など、描く技法やモチーフは変化していきます。瀧川事件以来、思想と学問の自由が段階的に狭められてきた京都の画家たちもまた、身近な「伝統的」モチーフを描くことで、人間や社会の深層を独自に探求し始めます。
本展では、戦時下で「新しい絵画」を模索し続けた前衛画家の作品を、当時の資料とともにご紹介します。東京と京都、ふたつの都市を拠点とする前衛画家たちは、さまよいながらも、絵筆を止めることなく「今」をキャンバスに写し続けました。
未公開作品を含め、これまで限定的な公開にとどまっていた作品約110点と資料をご紹介いたします。
実際に見て回ったが、絵は異様にグロテスクであったり、単なる模様の類や仏画に走ったもの等で、“芸術は爆発だ―ァ!”といったエネルギーや明るさや自由を感じないものばかりだった印象だ。ただひたすら個人的内面に力なく沈潜して行くような絵画ばかりだったように感じた。
戦前の“精神の不自由”時代の作品と言う、先入観でそのように見てしまったのであろうか。とにかく“これは良い!!”と思える作品はなかったように思う。 紹介しておきながら申し訳ないが、“不自由の時代”に芸術は育たないという当然の結論の確認。意気消沈の気分で会場を出た。
京博の展示鑑賞を終え、ほぼ予定通りの12時前となった。昼食は近くの“京味菜 わたつね”で、やまかけそばを注文した。ここは蕎麦屋と思い込んでいたが、蕎麦を中心に近所の日常の食を満たしている印象だ。焼き魚定食や刺身定食や丼物もある。
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