The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
太秦広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像拝観
ノーベル物理学賞に日本人が受賞した。未だ、日本人が受賞対象者となるネタがあったのだ、と思ってよかった、というのが第一印象だった。だが次の瞬間、現職は“プリンストン大学上席研究員”だというので、ナァ~んだ“頭脳流出か!残念!”そんな感想だった。やはり、この国では革新的研究はできないのだ。下らない“しがらみ”ばかり、そして昨日までの続きで明日も乗り切ろうとする姿勢。それで革新的な研究が出来るわけがない。特に、そこに利権が絡んでいて、スッキリしないのだ。それで良いのか?そんな思いだった。
“受賞理由は「気候の物理的モデリング、気候変動の定量化、地球温暖化の確実な予測」に関する業績で、クラウス・ハッセルマン、ジョルジョ・パリージの2人とともに共同受賞”とのこと。
これまで、自分なりに気候変動について“お勉強”してきたつもりだったが、こういう“国の宝”のような人物が居ることは全く知らず、不明を恥じるばかり。情けない気分にすらなった。特に、コンピュータを使ったシミュレーションで“温暖化は南極の周辺では起こり辛く、北極の周囲で影響が強く、つまり北半球の温暖化の変化がより大きい”という意味の結論だ、ということ。これも私には全くの初耳だった。全くの“お勉強不足”だったのだ。
そして先週末、あるテレビ番組で“科学”という言葉を連発している解説者がいて、フト気が付いた。あれは科学と言えるものだろうか。コンピュータ・シミュレーションが“科学”と言えるのであろうか。つまり“物理学”の分野として扱ってよいのだろうか、という気付きだった。それはむしろ“気候工学”という分野ではないのか、ということだ。だからこそ、御本人が“これが対象になるとは、全く思っても居なかった。”という感想を漏らされたのと符合するものではないのか。
“気候の物理学的モデリング”が物理学的に画期的であったのならば、物理学賞受賞は意義があるのだろうが、そのあたりの解説が全くないので、私には分からない。日本のマスコミはこういった突っ込んだ議論や解説は全くやらない。単に権威ある海外賞の受賞で“ヨカッタァ~、ヨカッタァ~パチパチパチチ”これがこの国の“科学立国”の実態なのだ。科学と工学の差異すら分からない、アホバッカリ。
岸田政権の発足、所信表明演説があった。何だかバラマキ政策ばかり並べた内容の印象~で、財源はどうするの?振り返ると、総選挙を前に野党も人気取りでバラマキ政策ばかり並べ立てている印象、それでエエンカ?
それを警戒して、財務次官が雑誌に“最近のバラマキ合戦のような政策論を聞いていて、やむにやまれぬ大和魂か、もうじっと黙っているわけにはいかない、ここで言うべきことを言わねば卑怯でさえある”との記事を投稿した由。この内容は新任の財務大臣も、妖怪と化した党副総裁も承知している、つまり公認の“財務省御意見”だとのこと。
これは見方によっては岸田政策の“分配無くして、成長なし”に真っ向から対立する内容となる。派閥間対立の鞘当ては始まっている。まぁ自民党妖怪世界の問題と矮小化しても構わないことなのか。
“分配無くして、成長なし”は正しいと思うが、週末の辛口ニュース解説のバラエティ番組で、“無制限の国債発行を積極的にやるべき”との主張をなす、元内閣参与の大学教授が居る。この御仁、経済学者ではない。本来は“土木工学者、社会工学者”となっているが、今は“公共政策”の専門家となっている。何だか分かり辛い御人だが、どうやら学位論文が“生活行動を考慮した交通需要予測ならびに交通政策評価手法に関する研究”だとのことで、本来は“新幹線をもっと拡充して活用するべき”との言説で世に出て来た人。恐らくは、交通政策のシミュレーションの専門家のようだ。シミュレーションの専門家なので、感染症の広がりや、統計的分析もできるのでコロナ禍について独自の見解を展開できたのだろう。そう見てくれば“土木工学”の影はないと言えそうだ。
この御仁の“財政規律を取っ払え!”の主張の根拠は、どうやら過去50年近く日本は財政赤字を垂れ流してきたが、全くインフレにならずデフレのままだから、“財政赤字は全く怖くない、むしろ積極的にやるべきだ!”という単なる経験論でしかないようだ。経済学や財政学の社会科学的裏付けがあって言っている訳では無さそうなのだ。だからこの論には警戒が必要で危険な議論なのだ。
だが大学の研究者を名乗るなら、そんな議論をするには“日本は財政赤字を垂れ流してきたが、全くインフレにならずデフレのまま”である根拠を、経済学・財政学的に明らかにしてから、展開するのが普通であろう。そうでなければ酔っぱらった“街のオッサン”が飲み屋で展開する議論にしかならない。御本人曰く、“この議論は与野党含めて様々な政治家に説明してきたが、反論は一切なかった。”とのこと。私の感じたような、危険を一切感じないような政治家ばかりであったのならば、日本の政治家のレベルもそんなものかと、少々不安になる。京大のコンピュータ・シミュレーション専門の教授には、面と向かって逆らえない、そんな“権威”に怖気づいてしまうような胆力のない政治家ばかりなのだろうか。
私も経済学は齧った程度なので、大したことは言えたものではないが、“借りたモンは返すのが当たり前ジャロ!”という町金の銀次郎の台詞は、経済倫理の1丁目1番地だと思っている。財政赤字は政府の借金。借りたまま借り換えを繰り返して、50年も先延ばししてきた政府が借金で首が回らなくなる日がいつかは訪れるはずだと信じる。政府が借金で首が回らなくなる場合、どうやって返済するかと言えば、それはハイパーインフレ、つまりバブル崩壊で対応するのが歴史の常。否、そういう政策を取らずとも、おのずとその現象へ必然的に引き込まれるのだ。その事実を知ってか知らずか、それを無いことにして“財政規律を取っ払え!”の主張をするのは学問の徒としては極めて無責任だと思うのだ。
では、何故“日本は長年財政赤字を垂れ流してきたが、全くインフレにならずデフレのまま”なのかとの問いには、私なりには、次のように考えている。要は、バブル崩壊後各企業の過剰な借金を返済し、その後資金を潤沢にするために投資もせず、従業員の給与も上げず厳しく内部留保を積み上げた。その後、リーマンショック時あの巨大なトヨタ自動車が資金ショートしかけたという情報を耳にして、日本の経営陣はさらに行き過ぎた警戒をして、この情報革命の時代にDXにも乗り遅れても構わない、賃上げもせず、金融機関から融通を受けずにひたすら内部留保を積み上げて来たのだ。この企業行動がインフレにならずに来た主因だろう。日本のサラリーマンは賃上げもなく弱体化されたた組合の下、黙々と働いてきた。これがGDPの57%を占める消費がのびなかった主因だ。
しかも赤字国債を発行して出した政府資金も、利権絡みの怪しい政商の懐を肥やしただけで、闇に吸い込まれて行った。本当に資金が必要な中小企業の下に届かなかった。このためになけなしの投下資金に乗数効果が働かず、経済が拡大しなかったのではないか。
おそらくあのアホアホ政権でこの傾向が強くなり、その典型例が五輪開催であろう。だからこそ、コロナ禍でも強行開催となった。闇の政商が政府資金を湯水のように使い、食品廃棄も膨大になっても平気なのだ。これが景気刺激策になるハズが無い。
本来、こうした事態を計量的に説明するべきで、日本の経済学者がやるべき仕事だと思うのだが、そうしたチャレンジがなされたとは寡聞にして聞かない。それが私には、非常に不思議なのだ。恐らく、日本の利権まみれの指導層にとっての“不都合な真実”は隠蔽されたまま、歴史の闇に葬り去られることになるのではないかと思っている。日本の真実の歴史は、記録も改竄され闇から闇へ葬られるのだろう。こんな近代国家が存在して良いのだろうか。
私立大学の付属病院の建設工事をめぐる汚職事件。この大学50年も前から改革を迫られていたが、一向に変わらず近年もアメフトで他大学の選手に不当な仕掛けをしたことが露になった。それでも変わらない。腐ったまま変わらないのだ。犯罪を犯してもほとぼりが冷めたら、当然のように旧職に復帰する。まるでオツトメから戻るヤクザ社会。
ここの幹部、あのアホアホさんの長年のオトモダチだという。
日本の最高学府、理性の府の一角でこの有様。まるでこの国の社会のありようを示しているように見える。だからその名を日本大学というのか。
そう、DXと言えば私の審査の仕事もペーパーレス化が図られ、現在、私はiPadとPC間のデータの共有化に悪戦苦闘している。事務局のお偉方はグーグル・ドライブを使えというが、これが何故か指示通りには事が運ばないのだ。それがとうとう今週の審査から始まるのだ。若干、不安が過っているのが本当のところだ。いざとなれば、従来通り手書きのデータをPDF化して事務局に送付することにするかと思っている。だがそうなれば、従来は紙で郵送されて来たものをそのまま使えばよかったのだが、自分でデータをプリント・アウトしなければならなくなり、紙の消費がこちらの負担となるのだ。何だか、面倒なことになって来た。DXにはそういう側面もあるのだ。
さて、今回は太秦広隆寺(うずまさこうりゅうじ)拝観を報告したい。この寺には菩薩の半跏思惟像(はんかしゆいぞう)があり、これは中学校の日本美術史の教科書の最初に登場する有名な仏像で、その写真による姿態は非常に優美である。だから、その中学当時から一度は拝観したいと思っていたものだ。
ところが最近、京都の西院から嵐電で嵐山や平野神社、竜安寺に向かう時に、“太秦広隆寺”駅を通過するのだが、その度に昔の思いを思い出してドキッとするのみだった。つまり予定は既に決めていて、衝動的にこの駅で降りてしまう訳には行かない。
今回も午後からの研修会があり、午前は京都のどこで過ごそうかと思った時に、このドキッとするのを思い出したのだ。そうだ、太秦広隆寺に行って“菩薩半跏思惟像”を見ようと、予定を立てた。
そして先週初めにそれを実行。例によって、阪急電車で西院に向かい、西院から嵐電に乗り換えて太秦広隆寺に行った。駅のホームから道路の向こうに見える大きな楼門が広隆寺なので直ぐに分かる。
非常事態宣言は明けていたが、境内に観光客は少ない、と言うより私以外居ない、というのが第一印象だった。このように世間は未だ落ち着いたままで、ゆったり拝観できた。
広隆寺について、Wikipediaによれば、以下の通り。
京都市右京区太秦蜂岡(はちおか)町にある真言宗御室(おむろ)派大本山。蜂岡山と号し、俗に太秦の太子堂といわれる。古くは蜂岡寺、太秦寺、秦寺(はたでら)、秦公寺(はたのきみでら)、葛野寺(かどのでら)などともいわれた。本尊は聖徳太子像。山城(京都府)最古の名刹で、四天王寺、法隆寺などとともに聖徳太子ゆかりの日本七大寺の一つ。当寺一帯は古くから渡来人の秦氏が住んでいた地域で、その長、秦河勝(はたのかわかつ)であった。聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、秦河勝が、この仏像を譲り受け、603年(推古天皇11)に「蜂岡寺」を建てたと『日本書紀』に伝える。古くは弥勒像が本尊であった。その後、818年(弘仁9)と1150年(久安6)に焼失したが、そのつど再建された。
広隆寺は、(現在は)太秦に所在するが、創建当初からこの地にあったものかどうかは未詳で、7世紀前半に今の京都市北区平野神社付近に創建され(北野廃寺跡に比定されている)、平安遷都前後に現在地に移転したという説が有力である。創建当初は弥勒菩薩を本尊としていたが、平安遷都前後からは薬師如来を本尊とする寺院となり、薬師信仰と共に聖徳太子信仰を中心とする寺院となった。現在の広隆寺の本堂にあたる上宮王院の本尊は聖徳太子像である。『上宮聖徳法王帝説』は蜂岡寺(広隆寺)を「太子建立七大寺」の一つとして挙げている。
また『聖徳太子伝暦』には太子の楓野別宮(かえでのべつぐう)を寺にしたとする別伝を載せる。推古天皇12年(604年)、聖徳太子はある夜の夢に楓の林に囲まれた霊地を見た。そこには大きな桂の枯木があり、そこに五百の羅漢が集まって読経していたという。太子が秦河勝にこのことを語ったところ、河勝はその霊地は自分の所領の葛野(かどの)であると言う。河勝の案内で太子が葛野へ行ってみると、夢に見たような桂の枯木があり、そこに無数の蜂が集まって、その立てる音が太子の耳には尊い説法と聞こえた。太子はここに楓野別宮を営み、河勝に命じて一寺を建てさせたという。この説話は寺内の桂宮院(けいきゅういん)の由来と関連して取り上げられる。
楼門から入って見ると境内は結構広い。由来は山城の国最古の寺とあるが、楼門、太秦殿などの建物は江戸のもの。先ず見える木立に囲まれた建物は講堂(赤堂)のようだ。それを右手に見ながら、石畳になった道路に導かれて、どんどん進んで行くと、また御堂が見えてくる。これは上宮王院太子殿だ。上宮とか、太子と言えば聖徳太子のこと。つまりここは聖徳太子を祀った御堂である。
賽銭箱があるので、お参り。下足して御堂に上がり、堂内を覗くが暗がりで何があるのか分からず。その御堂からさらに奥に進むと、拝観受付があり、霊宝堂拝観ができる。ここに目的の弥勒菩薩半跏思惟像が、千手観音や多数の仏像と共に安置されている。
中に入ると薄暗く蝋燭のみの明かり、慌てて持ち物を捜したがこの時何故か準備でボーっとしていて眼鏡を家に忘れて来ていた。なので、折角来たのに、しっかりと拝観できず残念。中は、写真撮影禁止。光すら制限して、国宝をお守りしているのだろう。
弥勒菩薩半跏思惟像について、Wikipediaによれば、以下の通り。
弥勒菩薩半跏思惟像は、仏像の一形式で、台座に腰掛けて左足を下げ、右足先を左大腿部にのせて足を組み(半跏)、折り曲げた右膝頭の上に右肘をつき、右手の指先を軽く右頰にふれて思索する(思惟)姿の弥勒菩薩像である。日本には大陸より6世紀から7世紀の弥勒信仰の流入と共に伝えられる。
太秦広隆寺霊宝殿に安置されている「宝冠弥勒」(国宝彫刻の部第一号)は、右手の中指を頬にあてて物思いにふける姿であり、傑作として知られる。像高は123.3センチメートル(左足含む)、坐高は84.2センチメートル。アカマツ材の一木造で、右手を頬に軽く当て、思索のポーズを示す弥勒像である。像表面は、現状ではほとんど素地を現すが、元来は金箔でおおわれていたことが、下腹部等にわずかに残る痕跡から明らかである。右手の人差し指と小指、両足先などは後補で、面部にも補修の手が入っている。
制作時期は7世紀とされるが、制作地については作風等から朝鮮半島からの渡来像であるとする説、日本で制作されたとする説、朝鮮半島から渡来した霊木を日本で彫刻したとする説があり、決着を見ていない。この像については、韓国ソウルの韓国国立中央博物館にある金銅弥勒菩薩半跏像との様式の類似が指摘される。
日本の飛鳥時代の木彫仏、伎楽面などの木造彫刻はほとんど例外なく日本特産のクスノキ材であるのに対し、広隆寺像は日本では他に例のないアカマツ材製である点も、本像を朝鮮半島からの渡来像であるとする説の根拠となってきた。ところが、1968年に毎日新聞刊の『魅惑の仏像』4「弥勒菩薩」の撮影のさい、内刳りの背板はアカマツ材でなく、クスノキに似た広葉樹が使用されていることが判明した。この背板は後補ではなく、造像当初のものとみられる。この点に加え、アカマツが日本でも自生することから本像は日本で制作されたとする説がある。
朝鮮半島からの渡来仏だとする説からは、『日本書紀』に記される、推古天皇11年(603年)、聖徳太子から譲り受けた仏像、または推古天皇31年(623年)新羅から請来された仏像のどちらかがこの像に当たるのではないかと言われている。
弥勒菩薩半跏思惟像は実際には、堂内の奥の中央にあり、それと直ぐに分かるようになっている。その前で拝観できるようになっていたので、やや左手に座り込んで4~5分拝んでいた。何だか、お顔が長いように見えた。だが、これは本当は右側から見た方がよかったのだ。実際に見てみると、左側より右側からがバランスが良い、ということが分かった。
もうこれ以上いても、無駄と思えるまで中にいた。いざ出て行こうとすると、係の人に深々と礼をされ、恐縮してしまった。
御堂の前のお庭の緑がきれいであった。珍しいことに小さな蓮池が整備されていた。
11時半を回ったので、太秦広隆寺駅横の食堂・京富に向かう。その前に、この駅の嵐山方面ホームに仏像の自販機があると2日前のNHKテレビで紹介していたので、わざわざ見に行った。中にもし、弥勒菩薩半跏思惟像のミニチュアが売られていれば買うつもりだったが、どうやらここは広隆寺とは関係なく売られているようだった。
昼食は、“ざるそば+親子丼セット”とし、ざるそばは並とした。蕎麦湯もついてきて、真面目な御商売と感じた。帰りは、市バスで烏丸高倉まで出ることにした。
“受賞理由は「気候の物理的モデリング、気候変動の定量化、地球温暖化の確実な予測」に関する業績で、クラウス・ハッセルマン、ジョルジョ・パリージの2人とともに共同受賞”とのこと。
これまで、自分なりに気候変動について“お勉強”してきたつもりだったが、こういう“国の宝”のような人物が居ることは全く知らず、不明を恥じるばかり。情けない気分にすらなった。特に、コンピュータを使ったシミュレーションで“温暖化は南極の周辺では起こり辛く、北極の周囲で影響が強く、つまり北半球の温暖化の変化がより大きい”という意味の結論だ、ということ。これも私には全くの初耳だった。全くの“お勉強不足”だったのだ。
そして先週末、あるテレビ番組で“科学”という言葉を連発している解説者がいて、フト気が付いた。あれは科学と言えるものだろうか。コンピュータ・シミュレーションが“科学”と言えるのであろうか。つまり“物理学”の分野として扱ってよいのだろうか、という気付きだった。それはむしろ“気候工学”という分野ではないのか、ということだ。だからこそ、御本人が“これが対象になるとは、全く思っても居なかった。”という感想を漏らされたのと符合するものではないのか。
“気候の物理学的モデリング”が物理学的に画期的であったのならば、物理学賞受賞は意義があるのだろうが、そのあたりの解説が全くないので、私には分からない。日本のマスコミはこういった突っ込んだ議論や解説は全くやらない。単に権威ある海外賞の受賞で“ヨカッタァ~、ヨカッタァ~パチパチパチチ”これがこの国の“科学立国”の実態なのだ。科学と工学の差異すら分からない、アホバッカリ。
岸田政権の発足、所信表明演説があった。何だかバラマキ政策ばかり並べた内容の印象~で、財源はどうするの?振り返ると、総選挙を前に野党も人気取りでバラマキ政策ばかり並べ立てている印象、それでエエンカ?
それを警戒して、財務次官が雑誌に“最近のバラマキ合戦のような政策論を聞いていて、やむにやまれぬ大和魂か、もうじっと黙っているわけにはいかない、ここで言うべきことを言わねば卑怯でさえある”との記事を投稿した由。この内容は新任の財務大臣も、妖怪と化した党副総裁も承知している、つまり公認の“財務省御意見”だとのこと。
これは見方によっては岸田政策の“分配無くして、成長なし”に真っ向から対立する内容となる。派閥間対立の鞘当ては始まっている。まぁ自民党妖怪世界の問題と矮小化しても構わないことなのか。
“分配無くして、成長なし”は正しいと思うが、週末の辛口ニュース解説のバラエティ番組で、“無制限の国債発行を積極的にやるべき”との主張をなす、元内閣参与の大学教授が居る。この御仁、経済学者ではない。本来は“土木工学者、社会工学者”となっているが、今は“公共政策”の専門家となっている。何だか分かり辛い御人だが、どうやら学位論文が“生活行動を考慮した交通需要予測ならびに交通政策評価手法に関する研究”だとのことで、本来は“新幹線をもっと拡充して活用するべき”との言説で世に出て来た人。恐らくは、交通政策のシミュレーションの専門家のようだ。シミュレーションの専門家なので、感染症の広がりや、統計的分析もできるのでコロナ禍について独自の見解を展開できたのだろう。そう見てくれば“土木工学”の影はないと言えそうだ。
この御仁の“財政規律を取っ払え!”の主張の根拠は、どうやら過去50年近く日本は財政赤字を垂れ流してきたが、全くインフレにならずデフレのままだから、“財政赤字は全く怖くない、むしろ積極的にやるべきだ!”という単なる経験論でしかないようだ。経済学や財政学の社会科学的裏付けがあって言っている訳では無さそうなのだ。だからこの論には警戒が必要で危険な議論なのだ。
だが大学の研究者を名乗るなら、そんな議論をするには“日本は財政赤字を垂れ流してきたが、全くインフレにならずデフレのまま”である根拠を、経済学・財政学的に明らかにしてから、展開するのが普通であろう。そうでなければ酔っぱらった“街のオッサン”が飲み屋で展開する議論にしかならない。御本人曰く、“この議論は与野党含めて様々な政治家に説明してきたが、反論は一切なかった。”とのこと。私の感じたような、危険を一切感じないような政治家ばかりであったのならば、日本の政治家のレベルもそんなものかと、少々不安になる。京大のコンピュータ・シミュレーション専門の教授には、面と向かって逆らえない、そんな“権威”に怖気づいてしまうような胆力のない政治家ばかりなのだろうか。
私も経済学は齧った程度なので、大したことは言えたものではないが、“借りたモンは返すのが当たり前ジャロ!”という町金の銀次郎の台詞は、経済倫理の1丁目1番地だと思っている。財政赤字は政府の借金。借りたまま借り換えを繰り返して、50年も先延ばししてきた政府が借金で首が回らなくなる日がいつかは訪れるはずだと信じる。政府が借金で首が回らなくなる場合、どうやって返済するかと言えば、それはハイパーインフレ、つまりバブル崩壊で対応するのが歴史の常。否、そういう政策を取らずとも、おのずとその現象へ必然的に引き込まれるのだ。その事実を知ってか知らずか、それを無いことにして“財政規律を取っ払え!”の主張をするのは学問の徒としては極めて無責任だと思うのだ。
では、何故“日本は長年財政赤字を垂れ流してきたが、全くインフレにならずデフレのまま”なのかとの問いには、私なりには、次のように考えている。要は、バブル崩壊後各企業の過剰な借金を返済し、その後資金を潤沢にするために投資もせず、従業員の給与も上げず厳しく内部留保を積み上げた。その後、リーマンショック時あの巨大なトヨタ自動車が資金ショートしかけたという情報を耳にして、日本の経営陣はさらに行き過ぎた警戒をして、この情報革命の時代にDXにも乗り遅れても構わない、賃上げもせず、金融機関から融通を受けずにひたすら内部留保を積み上げて来たのだ。この企業行動がインフレにならずに来た主因だろう。日本のサラリーマンは賃上げもなく弱体化されたた組合の下、黙々と働いてきた。これがGDPの57%を占める消費がのびなかった主因だ。
しかも赤字国債を発行して出した政府資金も、利権絡みの怪しい政商の懐を肥やしただけで、闇に吸い込まれて行った。本当に資金が必要な中小企業の下に届かなかった。このためになけなしの投下資金に乗数効果が働かず、経済が拡大しなかったのではないか。
おそらくあのアホアホ政権でこの傾向が強くなり、その典型例が五輪開催であろう。だからこそ、コロナ禍でも強行開催となった。闇の政商が政府資金を湯水のように使い、食品廃棄も膨大になっても平気なのだ。これが景気刺激策になるハズが無い。
本来、こうした事態を計量的に説明するべきで、日本の経済学者がやるべき仕事だと思うのだが、そうしたチャレンジがなされたとは寡聞にして聞かない。それが私には、非常に不思議なのだ。恐らく、日本の利権まみれの指導層にとっての“不都合な真実”は隠蔽されたまま、歴史の闇に葬り去られることになるのではないかと思っている。日本の真実の歴史は、記録も改竄され闇から闇へ葬られるのだろう。こんな近代国家が存在して良いのだろうか。
私立大学の付属病院の建設工事をめぐる汚職事件。この大学50年も前から改革を迫られていたが、一向に変わらず近年もアメフトで他大学の選手に不当な仕掛けをしたことが露になった。それでも変わらない。腐ったまま変わらないのだ。犯罪を犯してもほとぼりが冷めたら、当然のように旧職に復帰する。まるでオツトメから戻るヤクザ社会。
ここの幹部、あのアホアホさんの長年のオトモダチだという。
日本の最高学府、理性の府の一角でこの有様。まるでこの国の社会のありようを示しているように見える。だからその名を日本大学というのか。
そう、DXと言えば私の審査の仕事もペーパーレス化が図られ、現在、私はiPadとPC間のデータの共有化に悪戦苦闘している。事務局のお偉方はグーグル・ドライブを使えというが、これが何故か指示通りには事が運ばないのだ。それがとうとう今週の審査から始まるのだ。若干、不安が過っているのが本当のところだ。いざとなれば、従来通り手書きのデータをPDF化して事務局に送付することにするかと思っている。だがそうなれば、従来は紙で郵送されて来たものをそのまま使えばよかったのだが、自分でデータをプリント・アウトしなければならなくなり、紙の消費がこちらの負担となるのだ。何だか、面倒なことになって来た。DXにはそういう側面もあるのだ。
さて、今回は太秦広隆寺(うずまさこうりゅうじ)拝観を報告したい。この寺には菩薩の半跏思惟像(はんかしゆいぞう)があり、これは中学校の日本美術史の教科書の最初に登場する有名な仏像で、その写真による姿態は非常に優美である。だから、その中学当時から一度は拝観したいと思っていたものだ。
ところが最近、京都の西院から嵐電で嵐山や平野神社、竜安寺に向かう時に、“太秦広隆寺”駅を通過するのだが、その度に昔の思いを思い出してドキッとするのみだった。つまり予定は既に決めていて、衝動的にこの駅で降りてしまう訳には行かない。
今回も午後からの研修会があり、午前は京都のどこで過ごそうかと思った時に、このドキッとするのを思い出したのだ。そうだ、太秦広隆寺に行って“菩薩半跏思惟像”を見ようと、予定を立てた。
そして先週初めにそれを実行。例によって、阪急電車で西院に向かい、西院から嵐電に乗り換えて太秦広隆寺に行った。駅のホームから道路の向こうに見える大きな楼門が広隆寺なので直ぐに分かる。
非常事態宣言は明けていたが、境内に観光客は少ない、と言うより私以外居ない、というのが第一印象だった。このように世間は未だ落ち着いたままで、ゆったり拝観できた。
広隆寺について、Wikipediaによれば、以下の通り。
京都市右京区太秦蜂岡(はちおか)町にある真言宗御室(おむろ)派大本山。蜂岡山と号し、俗に太秦の太子堂といわれる。古くは蜂岡寺、太秦寺、秦寺(はたでら)、秦公寺(はたのきみでら)、葛野寺(かどのでら)などともいわれた。本尊は聖徳太子像。山城(京都府)最古の名刹で、四天王寺、法隆寺などとともに聖徳太子ゆかりの日本七大寺の一つ。当寺一帯は古くから渡来人の秦氏が住んでいた地域で、その長、秦河勝(はたのかわかつ)であった。聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、秦河勝が、この仏像を譲り受け、603年(推古天皇11)に「蜂岡寺」を建てたと『日本書紀』に伝える。古くは弥勒像が本尊であった。その後、818年(弘仁9)と1150年(久安6)に焼失したが、そのつど再建された。
広隆寺は、(現在は)太秦に所在するが、創建当初からこの地にあったものかどうかは未詳で、7世紀前半に今の京都市北区平野神社付近に創建され(北野廃寺跡に比定されている)、平安遷都前後に現在地に移転したという説が有力である。創建当初は弥勒菩薩を本尊としていたが、平安遷都前後からは薬師如来を本尊とする寺院となり、薬師信仰と共に聖徳太子信仰を中心とする寺院となった。現在の広隆寺の本堂にあたる上宮王院の本尊は聖徳太子像である。『上宮聖徳法王帝説』は蜂岡寺(広隆寺)を「太子建立七大寺」の一つとして挙げている。
また『聖徳太子伝暦』には太子の楓野別宮(かえでのべつぐう)を寺にしたとする別伝を載せる。推古天皇12年(604年)、聖徳太子はある夜の夢に楓の林に囲まれた霊地を見た。そこには大きな桂の枯木があり、そこに五百の羅漢が集まって読経していたという。太子が秦河勝にこのことを語ったところ、河勝はその霊地は自分の所領の葛野(かどの)であると言う。河勝の案内で太子が葛野へ行ってみると、夢に見たような桂の枯木があり、そこに無数の蜂が集まって、その立てる音が太子の耳には尊い説法と聞こえた。太子はここに楓野別宮を営み、河勝に命じて一寺を建てさせたという。この説話は寺内の桂宮院(けいきゅういん)の由来と関連して取り上げられる。
楼門から入って見ると境内は結構広い。由来は山城の国最古の寺とあるが、楼門、太秦殿などの建物は江戸のもの。先ず見える木立に囲まれた建物は講堂(赤堂)のようだ。それを右手に見ながら、石畳になった道路に導かれて、どんどん進んで行くと、また御堂が見えてくる。これは上宮王院太子殿だ。上宮とか、太子と言えば聖徳太子のこと。つまりここは聖徳太子を祀った御堂である。
賽銭箱があるので、お参り。下足して御堂に上がり、堂内を覗くが暗がりで何があるのか分からず。その御堂からさらに奥に進むと、拝観受付があり、霊宝堂拝観ができる。ここに目的の弥勒菩薩半跏思惟像が、千手観音や多数の仏像と共に安置されている。
中に入ると薄暗く蝋燭のみの明かり、慌てて持ち物を捜したがこの時何故か準備でボーっとしていて眼鏡を家に忘れて来ていた。なので、折角来たのに、しっかりと拝観できず残念。中は、写真撮影禁止。光すら制限して、国宝をお守りしているのだろう。
弥勒菩薩半跏思惟像について、Wikipediaによれば、以下の通り。
弥勒菩薩半跏思惟像は、仏像の一形式で、台座に腰掛けて左足を下げ、右足先を左大腿部にのせて足を組み(半跏)、折り曲げた右膝頭の上に右肘をつき、右手の指先を軽く右頰にふれて思索する(思惟)姿の弥勒菩薩像である。日本には大陸より6世紀から7世紀の弥勒信仰の流入と共に伝えられる。
太秦広隆寺霊宝殿に安置されている「宝冠弥勒」(国宝彫刻の部第一号)は、右手の中指を頬にあてて物思いにふける姿であり、傑作として知られる。像高は123.3センチメートル(左足含む)、坐高は84.2センチメートル。アカマツ材の一木造で、右手を頬に軽く当て、思索のポーズを示す弥勒像である。像表面は、現状ではほとんど素地を現すが、元来は金箔でおおわれていたことが、下腹部等にわずかに残る痕跡から明らかである。右手の人差し指と小指、両足先などは後補で、面部にも補修の手が入っている。
制作時期は7世紀とされるが、制作地については作風等から朝鮮半島からの渡来像であるとする説、日本で制作されたとする説、朝鮮半島から渡来した霊木を日本で彫刻したとする説があり、決着を見ていない。この像については、韓国ソウルの韓国国立中央博物館にある金銅弥勒菩薩半跏像との様式の類似が指摘される。
日本の飛鳥時代の木彫仏、伎楽面などの木造彫刻はほとんど例外なく日本特産のクスノキ材であるのに対し、広隆寺像は日本では他に例のないアカマツ材製である点も、本像を朝鮮半島からの渡来像であるとする説の根拠となってきた。ところが、1968年に毎日新聞刊の『魅惑の仏像』4「弥勒菩薩」の撮影のさい、内刳りの背板はアカマツ材でなく、クスノキに似た広葉樹が使用されていることが判明した。この背板は後補ではなく、造像当初のものとみられる。この点に加え、アカマツが日本でも自生することから本像は日本で制作されたとする説がある。
朝鮮半島からの渡来仏だとする説からは、『日本書紀』に記される、推古天皇11年(603年)、聖徳太子から譲り受けた仏像、または推古天皇31年(623年)新羅から請来された仏像のどちらかがこの像に当たるのではないかと言われている。
弥勒菩薩半跏思惟像は実際には、堂内の奥の中央にあり、それと直ぐに分かるようになっている。その前で拝観できるようになっていたので、やや左手に座り込んで4~5分拝んでいた。何だか、お顔が長いように見えた。だが、これは本当は右側から見た方がよかったのだ。実際に見てみると、左側より右側からがバランスが良い、ということが分かった。
もうこれ以上いても、無駄と思えるまで中にいた。いざ出て行こうとすると、係の人に深々と礼をされ、恐縮してしまった。
御堂の前のお庭の緑がきれいであった。珍しいことに小さな蓮池が整備されていた。
11時半を回ったので、太秦広隆寺駅横の食堂・京富に向かう。その前に、この駅の嵐山方面ホームに仏像の自販機があると2日前のNHKテレビで紹介していたので、わざわざ見に行った。中にもし、弥勒菩薩半跏思惟像のミニチュアが売られていれば買うつもりだったが、どうやらここは広隆寺とは関係なく売られているようだった。
昼食は、“ざるそば+親子丼セット”とし、ざるそばは並とした。蕎麦湯もついてきて、真面目な御商売と感じた。帰りは、市バスで烏丸高倉まで出ることにした。
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