The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
雑感オムニバス140915
今回も いくつかの出来事についてのコメントを短く行いたい。
□朝日新聞の誤報謝罪
東電の吉田調書に関する報道は、朝日新聞にしては事実確認に脇が甘い印象だ。また、従軍慰安婦に関する吉田清治証言が信憑性を欠くものであったことについて、撤回することは遅きに失した朝日新聞の対応は問題があったし、またその撤回と共に謝罪しなかったのも、問題だったと言えるのだろう。
特に、東電撤退報道に関しては私もその記事を読んだ時、今更なぜこのようなことを取り上げるのか、また内容にも違和感を持った。というのは、当時の“現場撤退”は東電本店から政府に申し入れがあったと全てのマスコミが報道していて、朝日新聞だけが伝えていたものではなかった。ただ、その撤退の内容が吉田所長の意図したことと異なって実施されたことまでは、私達一般人は知る由もなかった。それを“業務命令違反”と取るには、当時の混乱の中にあった東電社内で正確に伝達(例えば、指示は文書か口頭かにはじまって様々な状態)されていたのかを検証する必要があるのではないかと思った。それは現場から東電本店への伝達情報も正確なものではなかったことから容易に推察できる。だから当時の政府は慌てたのではないか。その記事を読んだ時も、その点が明確でなかったからだった。
こういった誤報問題について、この週末テレビの様々な解説を聞いたが、言いっ放しでほっかむり可能な彼らの言にはどこかいい加減さがある。そして、紙媒体の新聞も含めて、日本の報道機関はいつも真実を伝えて来たのか。
私は、自分が身近に接した事項に関する報道や特集番組のいくつかを見て来たが、いずれの場合も表面的な事象からの主観的な憶測であったり、公的機関の発表に基づくもので、真実とは遠いものであった。中には今回の朝日のような誤報に近いものもあった。
視聴料を取る報道機関は、彼らの偏った主観によって内容が編集された内容になっていることが非常に多い。また、学生時代聞いた話では、S紙は“記事はデスクが作る”という噂もあったくらいだった。報道にあたって、いわゆる“エッヂの立った”記事にするための様々な努力がなされているのではないか。或いは、当局広報の役割を担っているとの“自覚”が感じられる場合もある。
だが、私のそのような経験の中で朝日新聞は比較的真実に近い報道をしていたし、見極めが明確でない点についての憶測は記事にしていなかったように思っていた。だから、朝日新聞の報道は世界的に信頼されていて、外国の報道機関も朝日の記事をそのまま検証せずに発信したという側面もあったのだろう。その朝日新聞が何時の頃から、事実を捨象して“エッヂの立った”記事にするための努力をするようになったのか、気になるところだ。また、最近は特にその朝日新聞に対する必要以上のバッシングが行われていることにも懸念を抱く。
前にも書いたように日本には、何故か事実を検証しない性癖がある。東電の福島原発についても国家的な精確な検証をしようともしていなかった。聞き取り調査の結果も秘匿したままにしようとしていた。そのような中で、今回の誤報が起きた。ところが何故か政府は、このような事件で朝日新聞に対する当て付けのように、秘匿情報をあっさり公開した。そこに何らかの意図を感じざるを得ない。
一方、こうした報道には どうしても誤報リスクを伴うのは当然であろう。このようなリスクを回避するために“安全な報道”に傾いて行くことが懸念される。“安全な報道”とは、政府による“大本営発表”一色に染まることである。いよいよ、いつか来た道を再び歩む時代になるのであろうか。あの日が、報道の自由を失った転換点であった、ということがないように祈りたい。
またそのためにも、朝日新聞自身は問題点をしっかり検証し直して欲しいと願うばかりだ。朝日が没して暗闇の世界が訪れるのでは、辛い。
□スッコット・ランドの独立機運
“地方自治”を推し進めた結果、スコットランドに独立の機運が出てきたという。バルセロナを中心都市とするカタルーニアも独立運動が盛んになっているそうだ。
この機運は国民国家Nationの解体の解体への序曲となるのだろうか。Nationの解体は、近代の第一次世界戦争のような総力戦の戦争形態を維持できなくする効果があるような気がする。つまり、Nationによって維持されている核兵器システムは崩壊する可能性があるのだ。現に、スコット・ランドが独立すれば、英国の核兵器の運用に支障がでるとの話もあるくらいだ。
日本では、さしずめ琉球の独立が課題に上ることになるのだろうか。琉球は、豊臣秀吉の時代は日本の一部との認識は薄い。江戸時代も琉球は清に朝貢していた。ペリーとも江戸幕府とは独立した交渉を行っている。明治になって琉球処分が実行されて、ようやく日本の一部となった。しかし、琉球では万葉時代の古い日本語も使われていて、中国語が話されている訳ではない。このような歴史を見れば、沖縄の人々が、独立を希望することは決しておかしな話ではない。しかし、現代の日本人にその認識はない。
琉球が独立すれば沖縄の犠牲の上に成り立つ日米安保体制も大きく変更せねばなるまい。しかし、それは中華帝国の存在の前には、不可能な話だ。否、中国はその隙間を虎視眈々と狙っている。尖閣奪取がその手始めであろうか。
グローバル化の進展の一方で、ローカルが力を持つ時代に入って行っているのかも知れない。ローカル特に、都市自治体が人類文明の政治的核心部分を担うようになるのかも知れない。そう考えると、今でもヨーロッパは人類文明史の先頭を走っていると見るべきなのかも知れない。
□ゆとり教育
錦織圭氏がグランド・スラムの全米オープンで準優勝した。それに絡めて、最近の若い多くの日本人がスポーツ、芸能分野で国際水準の活躍をするようになったのは、“ゆとり教育”の成果だという無責任なテレビ・コメンテータが居た。彼によれば、“だからこそ、「ゆとり教育」は再評価されるべきだ。”と言うのだ。このブログのレベルよりも酷い論評だ。
錦織圭氏は、13歳から米国で厳しい英才教育を受けていた。むしろ、日本の“ゆとり教育”から抜け出した結果ではないのか。勿論、自力でものごとを考える力を養うのが重要なポイントなのであろうが、恐らく錦織圭氏は独力で考えて自分を見失わず、厳しい教育といじめに耐えられたのではないか。その考える力は、“ゆとり教育”によって涵養されるものとは必ずしも思えない。何故ならば、考えるためには様々な情報を材料として知っておく必要があるが、“ゆとり教育”ではその基本情報の教育を省略しているからだ。
それよりも“ゆとりある教育体制”が作れていないことが、日本の教育体制の本質的問題なのではないか。つまり、想定された教育コースから脱落した子供達を救済するシステムがない、“ゆとりのない教育体制”が問題なのではないか。同じことは社会体制にも言える。失敗した経営者は、容易に社会復帰できる状況にないことも大きな社会問題ではないのか。或いは、30歳代で、世の中のことが分かった人達が、一旦辞職してさらに“お勉強”できる環境にないことが、人材の流動性や高度化を阻害していると思うのだが、いかがだろうか。人材しか資源のない日本には、“ゆとりある教育体制”が必要なのだ。第3の矢だか、第4の矢だかは知らぬが、このような議論は聞いたことが無い。
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□朝日新聞の誤報謝罪
東電の吉田調書に関する報道は、朝日新聞にしては事実確認に脇が甘い印象だ。また、従軍慰安婦に関する吉田清治証言が信憑性を欠くものであったことについて、撤回することは遅きに失した朝日新聞の対応は問題があったし、またその撤回と共に謝罪しなかったのも、問題だったと言えるのだろう。
特に、東電撤退報道に関しては私もその記事を読んだ時、今更なぜこのようなことを取り上げるのか、また内容にも違和感を持った。というのは、当時の“現場撤退”は東電本店から政府に申し入れがあったと全てのマスコミが報道していて、朝日新聞だけが伝えていたものではなかった。ただ、その撤退の内容が吉田所長の意図したことと異なって実施されたことまでは、私達一般人は知る由もなかった。それを“業務命令違反”と取るには、当時の混乱の中にあった東電社内で正確に伝達(例えば、指示は文書か口頭かにはじまって様々な状態)されていたのかを検証する必要があるのではないかと思った。それは現場から東電本店への伝達情報も正確なものではなかったことから容易に推察できる。だから当時の政府は慌てたのではないか。その記事を読んだ時も、その点が明確でなかったからだった。
こういった誤報問題について、この週末テレビの様々な解説を聞いたが、言いっ放しでほっかむり可能な彼らの言にはどこかいい加減さがある。そして、紙媒体の新聞も含めて、日本の報道機関はいつも真実を伝えて来たのか。
私は、自分が身近に接した事項に関する報道や特集番組のいくつかを見て来たが、いずれの場合も表面的な事象からの主観的な憶測であったり、公的機関の発表に基づくもので、真実とは遠いものであった。中には今回の朝日のような誤報に近いものもあった。
視聴料を取る報道機関は、彼らの偏った主観によって内容が編集された内容になっていることが非常に多い。また、学生時代聞いた話では、S紙は“記事はデスクが作る”という噂もあったくらいだった。報道にあたって、いわゆる“エッヂの立った”記事にするための様々な努力がなされているのではないか。或いは、当局広報の役割を担っているとの“自覚”が感じられる場合もある。
だが、私のそのような経験の中で朝日新聞は比較的真実に近い報道をしていたし、見極めが明確でない点についての憶測は記事にしていなかったように思っていた。だから、朝日新聞の報道は世界的に信頼されていて、外国の報道機関も朝日の記事をそのまま検証せずに発信したという側面もあったのだろう。その朝日新聞が何時の頃から、事実を捨象して“エッヂの立った”記事にするための努力をするようになったのか、気になるところだ。また、最近は特にその朝日新聞に対する必要以上のバッシングが行われていることにも懸念を抱く。
前にも書いたように日本には、何故か事実を検証しない性癖がある。東電の福島原発についても国家的な精確な検証をしようともしていなかった。聞き取り調査の結果も秘匿したままにしようとしていた。そのような中で、今回の誤報が起きた。ところが何故か政府は、このような事件で朝日新聞に対する当て付けのように、秘匿情報をあっさり公開した。そこに何らかの意図を感じざるを得ない。
一方、こうした報道には どうしても誤報リスクを伴うのは当然であろう。このようなリスクを回避するために“安全な報道”に傾いて行くことが懸念される。“安全な報道”とは、政府による“大本営発表”一色に染まることである。いよいよ、いつか来た道を再び歩む時代になるのであろうか。あの日が、報道の自由を失った転換点であった、ということがないように祈りたい。
またそのためにも、朝日新聞自身は問題点をしっかり検証し直して欲しいと願うばかりだ。朝日が没して暗闇の世界が訪れるのでは、辛い。
□スッコット・ランドの独立機運
“地方自治”を推し進めた結果、スコットランドに独立の機運が出てきたという。バルセロナを中心都市とするカタルーニアも独立運動が盛んになっているそうだ。
この機運は国民国家Nationの解体の解体への序曲となるのだろうか。Nationの解体は、近代の第一次世界戦争のような総力戦の戦争形態を維持できなくする効果があるような気がする。つまり、Nationによって維持されている核兵器システムは崩壊する可能性があるのだ。現に、スコット・ランドが独立すれば、英国の核兵器の運用に支障がでるとの話もあるくらいだ。
日本では、さしずめ琉球の独立が課題に上ることになるのだろうか。琉球は、豊臣秀吉の時代は日本の一部との認識は薄い。江戸時代も琉球は清に朝貢していた。ペリーとも江戸幕府とは独立した交渉を行っている。明治になって琉球処分が実行されて、ようやく日本の一部となった。しかし、琉球では万葉時代の古い日本語も使われていて、中国語が話されている訳ではない。このような歴史を見れば、沖縄の人々が、独立を希望することは決しておかしな話ではない。しかし、現代の日本人にその認識はない。
琉球が独立すれば沖縄の犠牲の上に成り立つ日米安保体制も大きく変更せねばなるまい。しかし、それは中華帝国の存在の前には、不可能な話だ。否、中国はその隙間を虎視眈々と狙っている。尖閣奪取がその手始めであろうか。
グローバル化の進展の一方で、ローカルが力を持つ時代に入って行っているのかも知れない。ローカル特に、都市自治体が人類文明の政治的核心部分を担うようになるのかも知れない。そう考えると、今でもヨーロッパは人類文明史の先頭を走っていると見るべきなのかも知れない。
□ゆとり教育
錦織圭氏がグランド・スラムの全米オープンで準優勝した。それに絡めて、最近の若い多くの日本人がスポーツ、芸能分野で国際水準の活躍をするようになったのは、“ゆとり教育”の成果だという無責任なテレビ・コメンテータが居た。彼によれば、“だからこそ、「ゆとり教育」は再評価されるべきだ。”と言うのだ。このブログのレベルよりも酷い論評だ。
錦織圭氏は、13歳から米国で厳しい英才教育を受けていた。むしろ、日本の“ゆとり教育”から抜け出した結果ではないのか。勿論、自力でものごとを考える力を養うのが重要なポイントなのであろうが、恐らく錦織圭氏は独力で考えて自分を見失わず、厳しい教育といじめに耐えられたのではないか。その考える力は、“ゆとり教育”によって涵養されるものとは必ずしも思えない。何故ならば、考えるためには様々な情報を材料として知っておく必要があるが、“ゆとり教育”ではその基本情報の教育を省略しているからだ。
それよりも“ゆとりある教育体制”が作れていないことが、日本の教育体制の本質的問題なのではないか。つまり、想定された教育コースから脱落した子供達を救済するシステムがない、“ゆとりのない教育体制”が問題なのではないか。同じことは社会体制にも言える。失敗した経営者は、容易に社会復帰できる状況にないことも大きな社会問題ではないのか。或いは、30歳代で、世の中のことが分かった人達が、一旦辞職してさらに“お勉強”できる環境にないことが、人材の流動性や高度化を阻害していると思うのだが、いかがだろうか。人材しか資源のない日本には、“ゆとりある教育体制”が必要なのだ。第3の矢だか、第4の矢だかは知らぬが、このような議論は聞いたことが無い。
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