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“決断できる日本へ”を読んで
この本・中尾茂夫著“決断できる日本へ―3・11後の政治経済学”は、この夏に読んだ中尾茂夫氏の“入門・世界の経済”の姉妹編だ。読んだ本の順序と、出版の順序は逆で、私が先に読んだ本の方が後から出版されていて新しい。つまり、今回読んだ方が古く、2012年7月の発行であり、“入門・世界の経済”で紹介されていて、そこで現状批判を行っているとあったので読んでみたのだった。
著者は、“3・11で覚醒されたこの国の行方に対する不安、さらに「なぜ日本はこういう国になり下がつたのか?」という断腸の思いと、学者としての自責の念”に駆られて、この連著となったと説明している。確かに、3・11に迫るには、“決断できる日本へ”の方がより直接的ではないか、そこで現代日本を如何に分析し、その方向の付け方に興味があったのだ。
さて、この本に何が書いてあるのか。著者の総括をさらに要約すると次のようになるのではないか。
①3・11以降明らかになったのは、マスコミは“戦時の大本営発表の再版だった”のではないかという問題提起である。つまり、日本のマスコミの堕落の指摘。
②“危機的状況に陥った日本社会の抜本的な制度設計を変更するには、日本の近代社会論、戦後論を語った。システムの意思決定過程の構造論議こそが必要”だとし、“注意深く考えるべきは、悲しいながらも、(米国による)「属国」や「軍隊なき占領」といった概念”が成立するのが、戦後日本の実態ではないか、との指摘。(括弧内は筆者追記)
③“世界を支配するマネーと権力を論” じて、その中での日本人のメンタリティを示した。
④“政治経済学的視点から考察した風土論”によって、日本人のメンタリティを解き明かすアプローチを試みようとして、“その具体的事例を、東京と大阪と長崎に求めた”が、あまりにも大阪人のメンタリティに過剰期待の傾向にある。
この本のほとんどに、マスコミや識者が調査し、伝えた内幕ものを夥しく引用している。その中には一般が驚倒するべきものも多く、情報源には“週刊プレイボーイ”まで含まれているのは驚きだ。
その中でも直近のエピソードで衝撃的なのは、上記②事例の1つを示した次の指摘だ。“2011年5月6日、菅直人首相(当時)は、突然、静岡県浜岡原発の中部電力に停止要請を行った。当時、政府内での十分な検討も調整も行わない突然の要請に当惑する空気が広がった。この首相要請の背後には、首都圏にある在日米軍基地(横田や横須賀等)の壊滅可能性を危惧するアメリカからの指示だったという推測(たとえば、大前研一の発言『SAPIO』2011年6月29日、および神戸女学院大学名誉教授の内田樹の発言『SAPIO』2011年8月3日)が流れた。”との記述だ。ここに、日本政府政権の党派を問わない対米依存性に疑問が湧くし、その現実に唖然としてしまう。
問題は沖縄の普天間・辺野古ばかりではない。首都圏の空路は米軍横田基地によって、著しく制限されている。これは、“入門・世界の経済”にも述べられていた事実だ。現在、世界の首都で外国の軍隊が、本来の国の主権を制限している例はないと言われ、本書では“横田幕府”として揶揄している。にもかかわらず、日本の右派の人々すら、その現実に触れようとはしない。唯一、元都知事の石原氏がクレームを付けたくらいだ。政治的関心の薄い人々の支持者も多い当時の現役都知事の行動でも、現状を変更する力にはならなかったのは非常に不思議だし、日本の民族派の問題意識に大いに疑問を抱く。(沖縄の米軍基地のゲートで鳥居をデザインしている所があるが、これは日本人の古来からの宗教心を小ばかにしているように思える行為にもかかわらず、かつてそれを指摘した日本の民族主義者が問題視したことを寡聞にして聞いたことがない。)
そういうことに対する鈍感さや結果としての軟弱さが、著者の次のような指摘につながるのではないか。
“尖閣諸島事件でもAPEC外交でも、さらには未曾有の福島原発事故でも、何の意思表示もできない日本の政治家の姿勢に、世界は呆れたのではなかったろうか。・・・(省略)・・・日本に資源はない。人材だけが頼りだったこの国で、人材が劣化すれば、何が残るだろうか。パワーのない辺境国家が大国の陰に隠れて、微笑みながら揉み手のジェスチャーを繰り返したところで、何の存在感もないだろう。国家の危急に関わる事件が勃発しても、笑顔で「イエス、イエス」を繰り返し、和の精神を強調したところで、いったい誰が敬意を払うだろうか。”
日本人としての矜持は何処に行ったのか。その統治実態が米国の“属国”である限りどうしようもない現実が広がるのではないか。
一体日本は、どこで何を間違っているのだろうか。
昔、日本の絶頂期には“経済は一流、政治は三流”と自嘲していたが、今や日本の経済も一流ではなくなって来ている。アジアの企業の競争力に明らかに負けている。特に弱電メーカーの退潮は著しく、どうやら経営者は過去の栄光時代の発想を捨て切れていないようだ。さらに、原発事故からの完全復興もままならず、逆に解決見通しは全く立たず、汚染水は垂れ流しに近い状態だという。この件に関し、現首相は厚顔にも国際的にウソを語った。ところが、そうして無理やり招致したオリンピックによって、建設労働力は逼迫し東北の復興はさらに遅れそうである。震災直後は“東北の復興なくして、日本の再生はない”と言っていたはずだが、あの精神は何処へ行ったのか。第3だか第4の矢だかは知らぬが、その矢の中に“東北の復興”は入っているのか。オリンプック招致は、日本の再生に最早有効ではない。これも過去の成功体験を捨てきれずに、発想の転換が出来ていない証だ。問題山積にもかかわらず意識転換ができないままに、現政権は自らの命脈維持だけを目的としているかのように見える。
こういう現状を、日本のマスコミは的確に批判していない。逆に、政権追従の記事ばかりが目立つような気がする。そのような指摘を“大本営発表だ”として、この本でも随所に指摘している。そして一般には、伝えられていない報道を次々と引用している。
この本は、2年前の発行なのでこれには書いていないことで、私は前にも言ったが、朝日新聞の不祥事によって、マスコミにとってリスクのない安全な情報つまり“大本営発表”ばかりを伝える傾向がさらに強くなるのではないか。そういう懸念を表明する声も、マスコミ側自身から、ほとんど聞かれないのは何故か。
また、明らかに景気は良くなっていないにもかかわらず、あたかも良いと思わせるような報道ばかりがつい最近まで目立っていた。そういうムードも寄与して株価は上がったのだが、その動向も最近は怪しくなりだした。すると現政権は昔流行ったPKOに頼って年金資金を出動させるという。そういう小手先のことばかりの政権維持政策に、大マスコミは批判することを避けているかのようだ。
だが残念なことに、そういう日本の現状の何が原因で、それをどうすれば良いのかについては、一切明示的に書いていない。少なくとも、私はそれを読み取れず、欲求不満ばかりが募った。
この本の半ばで、突然林芙美子を取り上げている。そこに、日本人一般に通底するメンタリティを見出しているのだろう。“どんな時代であれ、戦時期の不自由さも敗戦後の厳しさもともに、林芙美子にとっては、与件であり、所与だった。つまり、批判する対象でも、コメントを投げる対象ともならなかったのである。どんなに辛い時代にあっても、その状況に苦言一つ発せず、個人的努力で健気に立ち向かう姿こそが、庶民の心意気だというメッセージにはかならない。この「放浪記」のモチーフは、1980年代に一世を風靡したテレビドラマ「おしん」のモチーフでもあり、繰り返し、奏でられてきた旋律だったのではないか。”
戦前を知る世代はほとんど亡くなったが、それでも今も連綿として残る日本人のメンタリティであろうか。それをこの著者は、“丸山真男が半世紀前に嘆いた、近代的な「する」論理ではなく、封建的な残滓である「である」論理がいまだ支配的だという思いを強くする(『日本の思想』岩波新書、1961年)”にも見出しているのだろう。
もしそれが、社会の木鐸たるべきマスコミに色濃く現われているとするならば、ことは重大ではないか。批判精神を欠いたマスコミは、時の政権に好都合な情報ばかり流し、世の中を間違った方向に導くので害悪でしかありえないからだ。それは、戦前のいつか来た道ではないか。
こうした無批判な日本人のメンタリティは、どこから来るのだろうか。それをこの著者中尾氏は、風土論に依拠して提示しようとしている。それも素朴な自然環境の影響を重視した和辻哲郎や梅樟忠夫の論に依らず、“政治経済的力学によってその基本的影響を付与されるということである。いわば、政治経済学的風土論の試み”に依ろうとし、その具体論を東京、大阪、長崎の都市比較によって明らかにしようとしている。だが、時の政権から様々な恩恵を受け、繁栄を謳歌している東京からは批判精神を育む要素・要因はなく、そこから手懸りは何ら得られない。
それに対し著者は、歴史的に特異な都市として長崎を取上げている。しかし、その隣地は島原の乱によって、中央(時の政権徳川幕府)から徹底した弾圧を受けた。その結果、“長崎を覆う空気はつねに保守的であり、権威や権力に従順な土地柄を生んだのだと解釈される。”その一方、“もちろん、禁教令に伴う幾多の弾圧を潜り抜け、「隠れキリシタン」として点在しながらも生きながらえたのは歴史の示すところである。”とも言っている。
しかし恐らく、日本の大部分の地域の人々のメンタリティには、この長崎の人々のように一見保守的で従順ではあっても、中央の政権に対する多少の抵抗感があるのは、普通だと示唆しているのだろう。
それに対して、日本で東京に比肩しうる都市は大阪だとして、“東京では官僚国家を肌で感じるし、アメリカという権威筋には何も言えないのも、雰囲気として分かる。東京では東大や財務省や日銀といった権威筋が幅を効かすが、大阪では「それがなんぼのもんや」という台詞に代表されるように、権威主義への反発もある。それは権威に媚を売るメンタリティヘの軽蔑を含む大阪商人の気質を表す表現である。たんに金銭万能という下衆なニュアンス(それもないとは言えないが)だけを含むわけではない。”と指摘している。
江戸時代、大阪にも大塩の乱があった。それでも天領大坂は、それに影響されない程の“天下の台所”としての大きな機能を果たしたことは、言葉として知られた事実であり、恐らく当時日本一の都市機能を持っていた。米は当然のこと日本の殆どの物産は、一旦大坂に集積され、市場で取引された。特に堂島に米市場があって、相場安定のために先物が取引されたと言う。それが、世界最初の先物市場だ。
さらに長崎に輸入された薬材原料も、一旦全て大坂道修町に持ち込まれ、そこで吟味され分析され、調合されて日本全国に出荷された。その伝統によって、日本の製薬会社の9割以上のルーツは道修町にある。
医療に関しても、幕末には北浜に緒方洪庵の適塾があって、日本中の医者希望の若者に先端的教育をし、それが福沢諭吉や大村益次郎等、維新を支える多くの優秀な人材を育てた。
勿論、上方落語の伝統も相撲も、歌舞伎、文楽も大阪の南で育まれた。その延長に“しゃべくり漫才”はあり、その先にヨシモトはある。現代人、特にトウキョウ人の意識に、そんな大阪の経済・文化の歴史上の認識はなく、“大阪といえば、「えげつない」「豹柄」「マナー違反」「うるさい」「派手」「下品」といった否定的なイメージが浮かぶ”となるようだ。
だが、そういう歴史上の栄光も、今の大阪に残留するものは少なく、その都市力は衰える一方だ。それにもかかわらず、この著者の大阪への期待は大きすぎるし、現実的ではないように思える。今や大阪は、“都構想”に足を囚われむしろ停滞しているように私には見える。企業活動についても、今なお弱電メーカーの復活兆しは見えず、原発中心だった電力会社も勢いがなく、疲弊しきっているようだ。中小零細企業の跡地の多くは空き家のままで空洞化していて、再生のための行政は方向感なく、漂っているように見える。
それよりも、京都の企業は皆非常に元気だし、その多くは大企業に限らず先端的活動、例えば環境やCSRに熱心である。しかもその大半は老舗であり、伝統に従うしたたかさを見る。京都人へのステレオタイプのイメージは、“誇りだけが高く頑迷固陋”だが、その動きを注意深く見ると官民挙げて常に極めて先端的で柔軟である。この本の著者は京都大学出身にしては、その京都力を過少評価している。さらに振り返れば、神戸も先端医療とファッションで着々と単なる港湾都市からの脱皮を図ろうとしている。
そんな都市力から見た場合、大阪単独での中央批判よりは関西広域連合で考え、それを全国に広げる方が、現実的であり戦略的ではないかと私は考える。
この本の主旨に微妙に絡む重要な指摘がある。それは、震災の復興財源として“人びとに負担を強いる消費税増税ではなく、膨大に溜め込んできた米国債売却によって資金を捻出しようという見解や、その他いろいろな選択肢があってもいいはずだが、そういった選択肢はほとんど提示されることなく、増税一本槍である。”という事実である。これについて、元公安調査庁キャリア官僚の菅沼光弘の見解を合理的憶測として紹介している。“菅沼は、日本が財源として米国債を売却するようなことになれば、デフオルト寸前にある米国債はますます窮地に追い込まれる。そうならないように、アメリカは日本の財務省に、米国債を売却しないように圧力をかけていると読む。”さらに、日本の通貨当局を米国側当局者が“乗っ取りたい”と思っている深層心理を、1999年2月19日付けのニューヨーク・タイムズ紙に載ったジョーク記事に見られるとも紹介している。
長期低落のドル安環境下での米国債売却は、所有する米国債そのものの棄損にもつながるので、思いとどまる選択もありうるし、そのような議論はあった。だが、今や状況は大きく変化し、ドル高となっているにもかかわらず、そのような議論は当局は勿論、マスコミ側からも、識者と言われる人々からも行われない。日本の対米“属国”化は、極まっている。
いつも以上に思わず長くなってしまったが、この本の饒舌さに引きずられた感がある。現代日本の問題点、それも核心を突いた指摘満載である。その点では評価できるが、知っている情報全てを披歴することが本来の目的ではないだろう。一体“決断できる日本へ”は、この本の何処で語られているのか。明確なキィ・ワードでそれを語る場面が乏しく、核心に迫りかけると、関連エピソードに転化してはぐらかされるような印象を持つ。浅学菲才にはこの本の論旨が見え難いのが欠点で、整理するのに骨が折れる。示唆するものは大きいようにも感じるが、余程考えないと“結局どうなのか”という結論が見えないという点で良書とは言えない。
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著者は、“3・11で覚醒されたこの国の行方に対する不安、さらに「なぜ日本はこういう国になり下がつたのか?」という断腸の思いと、学者としての自責の念”に駆られて、この連著となったと説明している。確かに、3・11に迫るには、“決断できる日本へ”の方がより直接的ではないか、そこで現代日本を如何に分析し、その方向の付け方に興味があったのだ。
さて、この本に何が書いてあるのか。著者の総括をさらに要約すると次のようになるのではないか。
①3・11以降明らかになったのは、マスコミは“戦時の大本営発表の再版だった”のではないかという問題提起である。つまり、日本のマスコミの堕落の指摘。
②“危機的状況に陥った日本社会の抜本的な制度設計を変更するには、日本の近代社会論、戦後論を語った。システムの意思決定過程の構造論議こそが必要”だとし、“注意深く考えるべきは、悲しいながらも、(米国による)「属国」や「軍隊なき占領」といった概念”が成立するのが、戦後日本の実態ではないか、との指摘。(括弧内は筆者追記)
③“世界を支配するマネーと権力を論” じて、その中での日本人のメンタリティを示した。
④“政治経済学的視点から考察した風土論”によって、日本人のメンタリティを解き明かすアプローチを試みようとして、“その具体的事例を、東京と大阪と長崎に求めた”が、あまりにも大阪人のメンタリティに過剰期待の傾向にある。
この本のほとんどに、マスコミや識者が調査し、伝えた内幕ものを夥しく引用している。その中には一般が驚倒するべきものも多く、情報源には“週刊プレイボーイ”まで含まれているのは驚きだ。
その中でも直近のエピソードで衝撃的なのは、上記②事例の1つを示した次の指摘だ。“2011年5月6日、菅直人首相(当時)は、突然、静岡県浜岡原発の中部電力に停止要請を行った。当時、政府内での十分な検討も調整も行わない突然の要請に当惑する空気が広がった。この首相要請の背後には、首都圏にある在日米軍基地(横田や横須賀等)の壊滅可能性を危惧するアメリカからの指示だったという推測(たとえば、大前研一の発言『SAPIO』2011年6月29日、および神戸女学院大学名誉教授の内田樹の発言『SAPIO』2011年8月3日)が流れた。”との記述だ。ここに、日本政府政権の党派を問わない対米依存性に疑問が湧くし、その現実に唖然としてしまう。
問題は沖縄の普天間・辺野古ばかりではない。首都圏の空路は米軍横田基地によって、著しく制限されている。これは、“入門・世界の経済”にも述べられていた事実だ。現在、世界の首都で外国の軍隊が、本来の国の主権を制限している例はないと言われ、本書では“横田幕府”として揶揄している。にもかかわらず、日本の右派の人々すら、その現実に触れようとはしない。唯一、元都知事の石原氏がクレームを付けたくらいだ。政治的関心の薄い人々の支持者も多い当時の現役都知事の行動でも、現状を変更する力にはならなかったのは非常に不思議だし、日本の民族派の問題意識に大いに疑問を抱く。(沖縄の米軍基地のゲートで鳥居をデザインしている所があるが、これは日本人の古来からの宗教心を小ばかにしているように思える行為にもかかわらず、かつてそれを指摘した日本の民族主義者が問題視したことを寡聞にして聞いたことがない。)
そういうことに対する鈍感さや結果としての軟弱さが、著者の次のような指摘につながるのではないか。
“尖閣諸島事件でもAPEC外交でも、さらには未曾有の福島原発事故でも、何の意思表示もできない日本の政治家の姿勢に、世界は呆れたのではなかったろうか。・・・(省略)・・・日本に資源はない。人材だけが頼りだったこの国で、人材が劣化すれば、何が残るだろうか。パワーのない辺境国家が大国の陰に隠れて、微笑みながら揉み手のジェスチャーを繰り返したところで、何の存在感もないだろう。国家の危急に関わる事件が勃発しても、笑顔で「イエス、イエス」を繰り返し、和の精神を強調したところで、いったい誰が敬意を払うだろうか。”
日本人としての矜持は何処に行ったのか。その統治実態が米国の“属国”である限りどうしようもない現実が広がるのではないか。
一体日本は、どこで何を間違っているのだろうか。
昔、日本の絶頂期には“経済は一流、政治は三流”と自嘲していたが、今や日本の経済も一流ではなくなって来ている。アジアの企業の競争力に明らかに負けている。特に弱電メーカーの退潮は著しく、どうやら経営者は過去の栄光時代の発想を捨て切れていないようだ。さらに、原発事故からの完全復興もままならず、逆に解決見通しは全く立たず、汚染水は垂れ流しに近い状態だという。この件に関し、現首相は厚顔にも国際的にウソを語った。ところが、そうして無理やり招致したオリンピックによって、建設労働力は逼迫し東北の復興はさらに遅れそうである。震災直後は“東北の復興なくして、日本の再生はない”と言っていたはずだが、あの精神は何処へ行ったのか。第3だか第4の矢だかは知らぬが、その矢の中に“東北の復興”は入っているのか。オリンプック招致は、日本の再生に最早有効ではない。これも過去の成功体験を捨てきれずに、発想の転換が出来ていない証だ。問題山積にもかかわらず意識転換ができないままに、現政権は自らの命脈維持だけを目的としているかのように見える。
こういう現状を、日本のマスコミは的確に批判していない。逆に、政権追従の記事ばかりが目立つような気がする。そのような指摘を“大本営発表だ”として、この本でも随所に指摘している。そして一般には、伝えられていない報道を次々と引用している。
この本は、2年前の発行なのでこれには書いていないことで、私は前にも言ったが、朝日新聞の不祥事によって、マスコミにとってリスクのない安全な情報つまり“大本営発表”ばかりを伝える傾向がさらに強くなるのではないか。そういう懸念を表明する声も、マスコミ側自身から、ほとんど聞かれないのは何故か。
また、明らかに景気は良くなっていないにもかかわらず、あたかも良いと思わせるような報道ばかりがつい最近まで目立っていた。そういうムードも寄与して株価は上がったのだが、その動向も最近は怪しくなりだした。すると現政権は昔流行ったPKOに頼って年金資金を出動させるという。そういう小手先のことばかりの政権維持政策に、大マスコミは批判することを避けているかのようだ。
だが残念なことに、そういう日本の現状の何が原因で、それをどうすれば良いのかについては、一切明示的に書いていない。少なくとも、私はそれを読み取れず、欲求不満ばかりが募った。
この本の半ばで、突然林芙美子を取り上げている。そこに、日本人一般に通底するメンタリティを見出しているのだろう。“どんな時代であれ、戦時期の不自由さも敗戦後の厳しさもともに、林芙美子にとっては、与件であり、所与だった。つまり、批判する対象でも、コメントを投げる対象ともならなかったのである。どんなに辛い時代にあっても、その状況に苦言一つ発せず、個人的努力で健気に立ち向かう姿こそが、庶民の心意気だというメッセージにはかならない。この「放浪記」のモチーフは、1980年代に一世を風靡したテレビドラマ「おしん」のモチーフでもあり、繰り返し、奏でられてきた旋律だったのではないか。”
戦前を知る世代はほとんど亡くなったが、それでも今も連綿として残る日本人のメンタリティであろうか。それをこの著者は、“丸山真男が半世紀前に嘆いた、近代的な「する」論理ではなく、封建的な残滓である「である」論理がいまだ支配的だという思いを強くする(『日本の思想』岩波新書、1961年)”にも見出しているのだろう。
もしそれが、社会の木鐸たるべきマスコミに色濃く現われているとするならば、ことは重大ではないか。批判精神を欠いたマスコミは、時の政権に好都合な情報ばかり流し、世の中を間違った方向に導くので害悪でしかありえないからだ。それは、戦前のいつか来た道ではないか。
こうした無批判な日本人のメンタリティは、どこから来るのだろうか。それをこの著者中尾氏は、風土論に依拠して提示しようとしている。それも素朴な自然環境の影響を重視した和辻哲郎や梅樟忠夫の論に依らず、“政治経済的力学によってその基本的影響を付与されるということである。いわば、政治経済学的風土論の試み”に依ろうとし、その具体論を東京、大阪、長崎の都市比較によって明らかにしようとしている。だが、時の政権から様々な恩恵を受け、繁栄を謳歌している東京からは批判精神を育む要素・要因はなく、そこから手懸りは何ら得られない。
それに対し著者は、歴史的に特異な都市として長崎を取上げている。しかし、その隣地は島原の乱によって、中央(時の政権徳川幕府)から徹底した弾圧を受けた。その結果、“長崎を覆う空気はつねに保守的であり、権威や権力に従順な土地柄を生んだのだと解釈される。”その一方、“もちろん、禁教令に伴う幾多の弾圧を潜り抜け、「隠れキリシタン」として点在しながらも生きながらえたのは歴史の示すところである。”とも言っている。
しかし恐らく、日本の大部分の地域の人々のメンタリティには、この長崎の人々のように一見保守的で従順ではあっても、中央の政権に対する多少の抵抗感があるのは、普通だと示唆しているのだろう。
それに対して、日本で東京に比肩しうる都市は大阪だとして、“東京では官僚国家を肌で感じるし、アメリカという権威筋には何も言えないのも、雰囲気として分かる。東京では東大や財務省や日銀といった権威筋が幅を効かすが、大阪では「それがなんぼのもんや」という台詞に代表されるように、権威主義への反発もある。それは権威に媚を売るメンタリティヘの軽蔑を含む大阪商人の気質を表す表現である。たんに金銭万能という下衆なニュアンス(それもないとは言えないが)だけを含むわけではない。”と指摘している。
江戸時代、大阪にも大塩の乱があった。それでも天領大坂は、それに影響されない程の“天下の台所”としての大きな機能を果たしたことは、言葉として知られた事実であり、恐らく当時日本一の都市機能を持っていた。米は当然のこと日本の殆どの物産は、一旦大坂に集積され、市場で取引された。特に堂島に米市場があって、相場安定のために先物が取引されたと言う。それが、世界最初の先物市場だ。
さらに長崎に輸入された薬材原料も、一旦全て大坂道修町に持ち込まれ、そこで吟味され分析され、調合されて日本全国に出荷された。その伝統によって、日本の製薬会社の9割以上のルーツは道修町にある。
医療に関しても、幕末には北浜に緒方洪庵の適塾があって、日本中の医者希望の若者に先端的教育をし、それが福沢諭吉や大村益次郎等、維新を支える多くの優秀な人材を育てた。
勿論、上方落語の伝統も相撲も、歌舞伎、文楽も大阪の南で育まれた。その延長に“しゃべくり漫才”はあり、その先にヨシモトはある。現代人、特にトウキョウ人の意識に、そんな大阪の経済・文化の歴史上の認識はなく、“大阪といえば、「えげつない」「豹柄」「マナー違反」「うるさい」「派手」「下品」といった否定的なイメージが浮かぶ”となるようだ。
だが、そういう歴史上の栄光も、今の大阪に残留するものは少なく、その都市力は衰える一方だ。それにもかかわらず、この著者の大阪への期待は大きすぎるし、現実的ではないように思える。今や大阪は、“都構想”に足を囚われむしろ停滞しているように私には見える。企業活動についても、今なお弱電メーカーの復活兆しは見えず、原発中心だった電力会社も勢いがなく、疲弊しきっているようだ。中小零細企業の跡地の多くは空き家のままで空洞化していて、再生のための行政は方向感なく、漂っているように見える。
それよりも、京都の企業は皆非常に元気だし、その多くは大企業に限らず先端的活動、例えば環境やCSRに熱心である。しかもその大半は老舗であり、伝統に従うしたたかさを見る。京都人へのステレオタイプのイメージは、“誇りだけが高く頑迷固陋”だが、その動きを注意深く見ると官民挙げて常に極めて先端的で柔軟である。この本の著者は京都大学出身にしては、その京都力を過少評価している。さらに振り返れば、神戸も先端医療とファッションで着々と単なる港湾都市からの脱皮を図ろうとしている。
そんな都市力から見た場合、大阪単独での中央批判よりは関西広域連合で考え、それを全国に広げる方が、現実的であり戦略的ではないかと私は考える。
この本の主旨に微妙に絡む重要な指摘がある。それは、震災の復興財源として“人びとに負担を強いる消費税増税ではなく、膨大に溜め込んできた米国債売却によって資金を捻出しようという見解や、その他いろいろな選択肢があってもいいはずだが、そういった選択肢はほとんど提示されることなく、増税一本槍である。”という事実である。これについて、元公安調査庁キャリア官僚の菅沼光弘の見解を合理的憶測として紹介している。“菅沼は、日本が財源として米国債を売却するようなことになれば、デフオルト寸前にある米国債はますます窮地に追い込まれる。そうならないように、アメリカは日本の財務省に、米国債を売却しないように圧力をかけていると読む。”さらに、日本の通貨当局を米国側当局者が“乗っ取りたい”と思っている深層心理を、1999年2月19日付けのニューヨーク・タイムズ紙に載ったジョーク記事に見られるとも紹介している。
長期低落のドル安環境下での米国債売却は、所有する米国債そのものの棄損にもつながるので、思いとどまる選択もありうるし、そのような議論はあった。だが、今や状況は大きく変化し、ドル高となっているにもかかわらず、そのような議論は当局は勿論、マスコミ側からも、識者と言われる人々からも行われない。日本の対米“属国”化は、極まっている。
いつも以上に思わず長くなってしまったが、この本の饒舌さに引きずられた感がある。現代日本の問題点、それも核心を突いた指摘満載である。その点では評価できるが、知っている情報全てを披歴することが本来の目的ではないだろう。一体“決断できる日本へ”は、この本の何処で語られているのか。明確なキィ・ワードでそれを語る場面が乏しく、核心に迫りかけると、関連エピソードに転化してはぐらかされるような印象を持つ。浅学菲才にはこの本の論旨が見え難いのが欠点で、整理するのに骨が折れる。示唆するものは大きいようにも感じるが、余程考えないと“結局どうなのか”という結論が見えないという点で良書とは言えない。
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