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この夏・しまなみ海道ドライブの思い出

未だ暑さは残っている。脳が機能しない程ではないが、やはり沈思するにはもう少し涼しいほうが望ましい。ISO研究会で研究発表が10月に迫っているが、大枠は出来たが、未だ詰めが見えていないので焦っている。

ところで、北朝鮮は絶妙なタイミングで世界を脅迫する。先週の9月3日午後0時半頃に、水爆実験を行ったという。原爆の小型化は未だだろうと思っていたが、今回は2回目の水爆の実験だったということだ。その威力は当初TNT火薬で70キロトンと言われていたが、最新の情報では300キロトンではないかと言われ始めている。そうした外形的な状況から、水爆実験であったことは、ほぼ是認せざるを得ない状態のようだ。であるならば、核爆弾の小型化もできていると見做さなければならないことになる。であるならば、スカッドやノドン・ミサイルに搭載可能になっているのだろうか。
先週、“(北が保有しているのは、)射程1000㎞前後のスカッドは800基以上、最大射程が1300㎞のノドンは300基とされる。”と書いたが、自衛隊の元将官だった人の推測によれば、一気に同時発射可能なのは50基程度ではないかと、言っていた。一方、核弾頭は60発保有とされる。であれば、最初の攻撃で50基全てのミサイルに核弾頭を搭載できることになる。これで、第1撃の核攻撃で北は韓国も日本もほぼ全土を破壊できるのではないか。
もし米軍が北を軍事攻撃するのであれば、こうしたことを条件に作戦を立案しなければなるまい。恐らくトマホークでの全土攻撃となるだろうが、それでもなお北のミサイルの数パーセントは事前に破壊はできずに、残るのではないか。残ったのが全て核弾頭搭載で、発射できたとすれば、その数発は日本国土に飛来するものと覚悟しなければならない。北の兵士に戦闘意志があればの前提だが。
50発全てへの対応は無理だろうが、その内の数発の迎撃は可能なのだろうか。そもそもスカッドやノドン・ミサイルであっても迎撃可能なのだろうか。韓国に急遽増備したTHAADは日韓防衛に有効なのだろうか。
いずれ、米国は抜き打ち攻撃するだろうが、どう考えても北の核ミサイルの飛来の覚悟は必要だ。その場合、飛来した数の都市が破壊されることになる。特に米軍基地が隣接する都市は、警戒しなければなるまい。こういった心配の種が尽きない。

さて、この夏は“しまなみ海道”へドライブしようと計画していた。家族旅行はこれが最後かも知れない。しかし、長女は多忙で来れないという。家内と次女の3人旅だ。その概要は下記の通りだ。何とか宿泊先も確定・予約でき、ホッとしていた。
第1日8月6日:神戸(出発)⇒山陽道⇒尾道(観光)⇒ふれあいの里(泊)
第2日8月7日:ふれあいの里⇒しまなみ海道(向島→因島→生口島)⇒生口島・ペンション(泊)
第3日8月8日:生口島・ペンション⇒しまなみ海道(生口島→大三島→伯方島)⇒伯方島・民宿(泊)
第4日8月9日:伯方島・民宿⇒しまなみ海道(伯方島→大島)⇒今治市内⇒今治湯ノ浦温泉・ホテル(泊)
第5日8月10日:今治湯ノ浦温泉・ホテル⇒今治・小松、松山、高松道⇒観音寺・高松市内⇒高松道、淡路・鳴門道⇒神戸(帰着)

ところが、7月下旬に日本列島から遥か東南沖に発生した台風5号が、8月4日には鹿児島・南方沖に停滞気味。この時の予想進路は、鹿児島の西岸から九州に上陸し、東北方向に九州をほぼ縦断し、8月7日にはしまなみ海道付近に至るというもので、スケジュールの核心部分を襲われたようなもの。そこで、8月6日、7日の宿泊の予約をキャンセルした。このようなキャンセルは、私の人生で初めてのことだった。これで最も大きな楽しみの一つだった尾道市内観光は、これで断念せざるをえなくなった。
結局、台風5号は進路を大幅に東側に振って、九州東岸沖から四国南岸を東進し、8月7日に和歌山に上陸し、本州を滋賀、北陸、新潟へと抜けて、9日に低気圧へと勢力を落とした。

結局8,9,10日は予定変更なし。しかし、8日の予定は少なくとも午前中には生口島に到着していなければならず、少し早目の出発とし、山陽道を急ぐ。台風一過もあってか天候は良かった。長距離ドライブは数年ぶりだったので、いささか自動車道の雰囲気が違っているような気がした。以前より、長距離トラックの数が意外に多いように感じるのだった。車も結構快調に疾走。山陽道へ入るのを間違えて、旧来の加古川バイパス経由となり、姫路手前でようやく播但道から何とか山陽道へ入る。車の古いナビのせいだ。細切れの有料道路対応には、数日前に装着できたETCは有効だった。このため、サービス・エリアでことごとく休憩するつもりだったが、吉備サービス・エリアで初めて休憩。そうこうして正午前にしまなみ海道に入り、因島の最初のパーキング・エリアで休憩。そのまま、因島、生口島を突っ切って大三島のインター・チェンジでようやく地道に降りる。大山祇神社の脇にある道の駅の駐車場に停める。
近くの和風レストランで海鮮丼を食べて、一息つく。これで、後は当初の計画通りに走れば済むことになる。安価な値段の店には列ができていたので、避けた。それでも何とか計画通りとなり、予定は余裕を持たせておくべし。

昼食後、伯方の塩の大三島工場を見学。これも古いナビのため、少々迷子となり島の西岸に行きつくところだった。娘のスマホ・ナビで何とか目的地に到着する。入口に叩けばそのまま、テレビCMの“ハカタのシオ”となるチャイム鉄板があり、来訪者は一様に面白がって叩いてから、建物の中に入って行く。
どうやら、メキシコやオーストラリアから原料の塩を輸入している由。それにこの島の海水を混ぜて製塩しているとのこと。工場内を覗いても解説がパネルで適当なので、どういう構造の機械でどういうプロセスになっているのか、詳細は不明だ。製塩業の民営化改革時、旧専売公社がイオン交換膜法で精製すれば良いとの主張に、天然塩の重要性(微量の無機イオンの含有の有効性)を説いて、起業したとのことのようだった。

この後、再び道の駅の駐車場に戻って、大山祇神社を参拝。
Wikipediaには由緒等を次のように説明している。“全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社である。また、主祭神の大山祇神は「三島大明神」とも称され、当社から勧請したとする三島神社は四国を中心に新潟県や北海道まで分布する。祭神は大山積神(おおやまづみのかみ、おおやまつみのかみ)。伊弉諾尊と伊弉冉尊の子で、天照大神の兄。(神社現地のパネルにあった)元は山の神であるが、神社が瀬戸内海の要所に位置することなどから、大山祇神社は海の神としての性格も強い。
こうして古くから山の神・海の神・戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めた。源氏・平氏をはじめ多くの武将が武具を奉納して武運長久を祈ったため、国宝・重要文化財の指定をうけた日本の甲冑の約4割がこの神社に集まっている。社殿・武具等の文化財として紫陽殿と国宝館に収納・一般公開されている。さらに、昭和天皇の「御採集船」として活躍した「葉山丸」と、四国の海に生息する魚介類や全国の鉱石、鉱物を展示した大三島海事博物館(葉山丸記念館)が併設されている。”
こういう由緒正しい神社が、瀬戸内の島にあるというのを初めて知って意外であった。一通り境内を回ったが、国宝館や博物館には寄らず伯方島にむかった。神社の背後に山があるが、それが御神体だったのかも知れない。

しまなみ海道で、伯方島へ。結構すぐに着く。インターチェンジを出たところが伯方ビーチ。ここで海水浴を楽しむつもりだったが、波打ち際にクラゲがかなり打ち上げられていて、家族が泳ぐのを嫌がった。
仕方ないので、時間つぶしに翌日行くつもりだった“ふるさと歴史館”に行く。 旧市街地を通るせいか、途中の狭い道に閉口。恐る恐る向かう。歴史館は小高い山の上にあった。水軍の砦か城があった跡であろうか、島内を広く見渡せる。下には入り江にある複数の造船所が見える。北東部には塩田の跡地らしき地域も見える。展示物は発掘調査して出土したものばかりだった。残念ながら、どこを発掘したのか外部の観光客には直ちには詳しくは理解できず。とにかく瀬戸内なので、日本黎明期から文明が存在していた先進地域だったということだろうか。大三島の大山祇神社の存在も、そういうことの証なのだろう。

久しぶりの長距離ドライブで意外に刺激的な一日で、結構疲れた。夕方となり、予約した民宿に駆け込むように投宿。民宿なので、やはり施設等には限界がある。バス、トイレは共用なのは少々窮屈。エアコンも古く頭部に直接冷気が降りてくるので、快適な睡眠は期待できそうにない。しかし、食事は海鮮中心で十分満足できるものだった。娘は夕食で救われた、と言う。

しかし、健康な疲労が睡眠を誘い、無事一晩が過ぎた。翌朝、予定通り宿を立ち、船折の瀬戸のキャンプ場で車を止めて覗いてみる。きちんとした施設ではあるが宿泊者はゼロ。台風接近の影響であろうか。小さな砂浜もあるようで、絶好の穴場のように感じる。海の流れが結構急で、水もきれいでしばらく見とれる。
しまなみ海道に戻り、大島に入る。大島南端の海水浴場を目指すが、ここでも古いナビで、道路のない山中を走行。降りるべきインターを見過ごしてしまい、四国・今治に渡ってしまう。こんな時の来島海峡大橋は長い。そのままでは予定が狂うので、一旦大島に戻り何とか南端のインターから降りて、やがて狭い道路を通り抜け、目指す千年松海岸に到着。
ここはネットの記事を見て大いに期待した海水浴場だ。しかし、そのネットにあったシャワーや着替えのブースは見当たらない。近くの民宿の受付に聞いてみると、宿泊者にしか貸さないという。こうした狭い料簡の対応に非常に落胆。ネット情報は数年前のものだったが、まさかこんな対応をしているとは思わなかった。日本の海岸は共有財産であるが、この民宿は体よくプライベート・ビーチとして私物化している。

ぐずぐずしていても仕方ないし怒りが込み上げてくるだけなので、早々に午後の予定を前倒し。大島北部にある村上水軍博物館へ向かう。到着して見ると結構新しい施設・建物のようで、駐車場も広く快適。
これまであまり知らなかった水軍といえば聞こえはいいが、“海賊”の歴史が分かった。どうやら室町時代から活発化した日宋貿易だったが、幕府の権威が大したことがなかったので、島々の勢力が海上通行税を徴発するようになって明確に水軍を名乗り始めたもののようだ。京都にある文献で室町時代の初期に、水軍のことが書かれているのがあり、それが最初だと言う。ところが、秀吉政権成立で中央の権威が瀬戸内に及ぶようになり、勝手な通行税徴収が禁じられたため、水軍の収益源がなくなり、村上一族もバラバラになって、毛利氏等沿岸の有力大名の家臣になったり、来島氏のように大名になったものもいた、ということ。まぁ、陸上の政治勢力も元はと言えば、やくざな連中(いわば暴力団)が侍となって、独特の文化と歴史を重ねてきたもので、その海上版が“水軍”ということなのだろう。伊予には村上氏以外に河野氏がいたはずで、その両者の関連については分からなかった。一遍上人はこの河野氏(海賊)の出であることは、大山祇神社境内にあった史跡説明のパネルで今回初めて知った次第である。

昼食は、その博物館の道路向かい、海岸沿いにある“能島水軍”という施設にあるレストランで摂る。私は“釜揚げしらす丼”にした。私はむしろ望まないのだが量が多く、その観点でコスパは良い。内容もシラスの下に大根おろしが敷かれていて、消化には良い印象だ。博物館も“能島水軍”も地域行政と地元漁協の経営のようだ。“能島水軍”では激しい潮流観光の船も出しているので、ここで観光船を予約。その待合で食事をした訳だ。
食事後、しばらく海岸をボーっと眺めて過ごす。カモメ(海)とカラス(山)の関係が面白い。基本的には山が強いようで、カラスが1羽来ればそれまで羽を休めていた大勢のカモメは一斉に海に逃げる。カラスが去れば、カモメが戻って来るといった次第だ。カモメには大勢で1羽のカラスを追い払う意思はないハト派のようだ。
急流観光は結構刺激的だった。場所によってはしぶきが容赦なく船内に入ってくる。この急流は瀬戸内海と外洋の潮の干満差で生じている。その東側が鳴門の渦潮であり、西側がここしまなみ海道の諸島沿岸で見られる急流だ、と言うことがようやく分かった。

次に寄ったのは、宮窪石文化運動公園の石文化伝承館だ。この島も小豆島同様石を切り出して日本の建設に役立てているのだ。行ってみて驚いたのは、伝承館は実は体育館との併設で、どうやら地元の子供達のクラブ活動に供されているのが主だったようだ。何らかの公的資金が投入されているので、それを様々に有効活用する知恵に感心する。ただ珍しい観光客の来訪に、逆に子供たちの方が驚いていた。せめて体育館と博物館の出入り口を上手く分けた設計に工夫して欲しいものだと思うのだ。ただ、展示内容には特に驚くものはなかったのは残念。
ガラーンとした駐車場から次へ出発。

道の駅よしうみいきいき館が、ネット上では人気がありそうだったので立ち寄ったのだが、何か土産になるものはないかと物色したが、ここでも残念ながら気に入るものはなかった。単なるトイレ休憩で気分転換にはなった。

朝通った来島海峡大橋を再び通って、いよいよ四国・今治の地へ降りる。海道最後の海水浴を求めて、桜井海岸を目指す。ネットでは“市の東南、延長約8kmにも及ぶ桜井海岸は、平成8年に「日本の渚・百選」に選ばれました。その中でも唐子浜は、延長2kmに及ぶ美しい白砂青松の海岸です。瀬戸内を代表する自然海浜としても知られ、シーズンになれば、海水浴、ビーチバレーなどを楽しむ人でにぎわいます。”とあったので、大いに期待していた。しかし、何とかたどり着いてみると、駐車場には車がいっぱいで、来訪者多数。付近にはサッカー場があって少年サッカーの大会が開かれていたようで、その関係者の車だった。海岸はキャンプ場の向こう100m以上先にあった。海水浴の道具を抱えて砂浜に着いてみると、海水浴客は殆どいない。確かに白砂青松の雰囲気はあるのだが、残念なことに水が泥水のような色で、不透明。要するに海水浴用の海岸ではなく、お散歩のための海岸のようだ。ここでも家族は泳がないと言うのだが、私は泳ぐと言うよりとにかく海水に浸かって、どんより曇った空を見ながらプカプカ浮かぶことにした。これで残念ではあるが、何とか最低限の満足を得たと自分を納得させることとした。為すこともなく、そうやって寂しい浜を漂って、30分程度で過ごして、私だけトイレ兼シャワー脱衣場で着替えて、再び車に乗り込む。

次はこの日の最終目的地、海岸からほど近い湯浦温泉の観光ホテルだ。着いてみると普通のイメージ通りのホテルで、良かったよかった一安心。しかも奥の角部屋で周囲の部屋よりは一番ましな部屋だった。
温泉があるので、夕食まで温泉に浸かる。夕食も結構凝った和洋の組合せレシピで腹いっぱい。夕食後、部屋に戻ってテレビの見慣れた番組を見つつ酔いを醒まして、又温泉。温泉は室内にメインの浴槽、冷水槽、少し尖った肌触りの槽、それに露天風呂が2つ。露天はいずれも小さく1人が入ればそれで一杯、せいぜいで2人までの大きさの凝った形のFRP浴槽だった。露天風呂では小雨の中で、むしろ風情を感じる。それぞれの浴槽に全て入って、満足して上がる。そして熟睡。
朝起きて、又すぐ温泉。朝食はお定まりのバイキング。いつもは朝食は軽くするのだが、バイキングとなると腹一杯になる。珍しくパンを食べたように思う。

最終日は、ホテルから直ぐのインターチェンジから自動車専用道に乗って、観音寺の銭型砂絵へ。正午前、一度見たいとは思ってはいたのだが、実際に行ってみると先ずは、見るための山に登るのだが、車で登るには狭い道幅、ギリギリ。頂上付近の駐車場も狭い。実際に見てみると、PRにある写真の通りで、それ以上でも以下でもなく感動もない。どうしてだろう。それにしても、この砂絵の管理は誰がどういう報酬の中で運営されているのだろうか。維持は大変だろうな、とは思うのだが、何故か感動がない。私の感性に欠けるものがあるのだろうか。
昼食は高松市内の人気うどん店とした。食べログで高松市内トップ、JR端岡駅近くの予讃線踏切間近のお店。娘は出汁が良かったと言っていた。これまでも高松でうどんは何度も食べてきたが、私には違いは分からない。私の舌はそんなものなので、このブログで何度も意識的に食レポして来たが、白状すれば御注意願いたいところ。但し、これまでチェーン店のマニュアルによるレシピは紹介していないつもりだ。店主の懸命さを伝えたいとレポートしてきたつもりだ。このうどん店はチェーン店であろうか、何となく流れ作業で客をさばいている印象。さぬきのうどん店はいずれもそうだが・・・。
後は、以前にも紹介した四国村と山上の屋島を観光。今回は娘の希望で屋島の山上動物園に行ってみた。狭い水槽でイルカが結構頑張っていた。

その後、車を疾走させて無事神戸に帰着。近所のファミレスで遅い夕食。
結局、島々での海水浴と尾道観光はできなかったが、知らないことが多くあり良かった。いずれ又家族と再訪してみたいと思っている。

(自分のオリジナル写真の編集は時間なく未整理なので、下に掲げた写真はネット上のフリー画像から編集。申し訳ない。)

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