The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
“変わる世界、立ち遅れる日本”を読んで
またまた、読後感想で恐縮。この本は ビル・エモット氏の最新刊である。“立ち上がれ日本”イヤ“立ち枯れる日本”ならぬ、“立ち遅れる日本”とは、最近 “日本”に付く 形容詞も様々という印象だ。
何故、立ち遅れるのか そしてそれにどう対処するべきか、それが知りたくて読んでみたのだが、読後感としては残念ながら、インパクトは皆無であった。
それは、日本についての記述が、全8章の内、第1章と2章に限られているためだと思われる。要するに エモット氏は“変わる世界”に興味があり、ことのついでに 日本人向けの本として“日本”を付け加えただけなのであろう。
全体的な 本書の感想では 興味深い見解はいくつかあり、世界の情勢についてジャーナリストらしく よく把握しているようには感じるが、肝心なところで少々 ピントがずれているように思うのだ。だから、本書の印象が薄くなるのではないか。
例えば、“環境”については あまり独自の見解がなく、“常識的”反応というように感じる。エコノミストとしての目で 5年程度先を見ることに慣れている、と思えるが、環境を語る場合は もっと50年、100年先という長期的視点が必要なのだ。おそらく、このために言っていることに正鵠を得ていない印象を与えるのだろう。
特に エネルギー資源について、“BP社が発行する、年刊『世界エネルギー統計調査』はきわめて権威がある。採掘できる石炭の確認埋蔵量は、現行の消費ペースだと150年分あり、天然ガスは60年分以上、原油は40年分以上あるという。・・・同様にBP社の統計で、原油、石炭、天然ガスの埋蔵量は5~10年前に比べ、すべて増えている。”と述べて 資源予測に楽観的見通しを語っている。しかし、中国やインドが 現在の先進国と同様の消費をするようになった場合 そうそう楽観視できないはずだ。何より、それに加えて、人口増加の影響を視野に入れていないのは問題だと思われる。経済学の視点で人口は欠かせない要素だし、そもそも人口増加と言えば、食料問題が必須のはずだが その点には触れていない。
それに、“グリーン大国に化ける中国”という見通しは 少々中国を買いかぶりすぎていると思われる。多分、これは、大勢の日本人を焦らせるための台詞と思われ、それには効果的な表現である。エモット氏は 巧みに日本での発行部数を稼ぐことを考えているように見える。
さて、肝心の第1章と2章に 日本は どのように書かれているのか。
第1章の終わりに次のように言っている。
“代わりに日本が急ぐべきなのは、製造業を一層効率化し、その生産性を高めることはもちろんだが、それよりも、サービス業分野での生産性の問題を解決することだ。それが実現できれば、サービス業の賃金と利潤が上昇し、ひいてはこれが製品への需要を増大させえるので、製造業をも助けることになるのである。”
要は、日本では サービス産業が “GDPの約70%を占めているのに対して、製造業は約20%を占める”にすぎないにもかかわらず、サービス産業へ力点を置いておらず、生産性も悪いままだ、と言うのだ。だから、知識集約型産業の発展に重点を移すべきで、“真の知識国家への道は、より強力な福祉国家と、サービス業分野での規制緩和を合わせることである。それによって、ピーター・ドラッカーが描いた、近代的な知識経済の将来像が実現するかもしれないのだ。また、財源を自己調達できる税収を増やす絶好のチャンスとなり、より高い生活水準に必要な、高賃金を生み出すことも可能となる。この組み合わせこそが、今後、日本の重荷となる人口の高齢化に対処できる唯一の方策であり、事実、日本に残された、唯一の実行可能な進路なのである。”と、第2章の終わりでは言っているのだ。
エモット氏の言うサービス産業とは、小売、法務、宣伝、会計、ロジスティックス(物流システム)、デザイン、教育、ヘルスケア、他にメディアや娯楽であり、IT(情報技術)関連産業の恐らく ソフト開発産業のことのようである。
だが、これら サービス産業は 強い 製造業なしで成立するものなのだろうか。サービス産業の本質は 製造業のバックヤードであり、サポートする産業であるため 基本的には強い製造業が なければ根無し草になり、存在意義を失うのではないのか。
サービス業を 議論する場合 注意を要するのに 気付くべきだ。
確かに 世の中が進歩すれば、製造業に従事する人口は減少するのは当然である。それは、経済が成長すれば、競争により企業淘汰が進み、生き残った強い製造業は 生産性が高まっており、従業員数は 生産の量に対し相対的に低下している。さらに、この生産性が極限にまで高まって行けば、そこには従業員は ほとんど必要としなくなるのが理想的状態のはずなのである。
また、真に強い製造業の企業は間接部門比率が高くなっているはずであり、その間接部門の従業員を サービス産業従事者とカウントするのか 製造業従事者とカウントするのか 統計上の問題はある。例えば、巨大メーカーが 間接部門を分社化すると それまで製造業従事者としてカウントされていた人が、同じ仕事をしているにも拘わらず、分社化されたとたん、サービス業従事者と扱われることになっているのではないか。
それに、日本の サービス産業の 生産性を考える場合 具体的に何を問題にしているのだろうか。小売や輸送部門の話なのだろうか。それなら 多少 話は分かるような気もするのだが、その辺の腑分けも必要な気がするのだ。
一体、サービス業の生産性とは 何なのだろう。究極の サービスと言えば、サービスを受ける人間1人に対し、それ以上の数の人間の提供する心からのサービスのはずだ。この特上のサービスの生産性は 驚くほどの低生産性と言えるのではないか。いや、そのサービスの対価が 莫大なものであれば サービス提供者は儲けることが 可能だが、そうでなければ、サービス提供側は、人件費の安い人間を提供しなければならなくなる。こうなると、そのサービスも本質的に怪しいものとならざるを得ない。あの日航は キャビン・アテンダントをアジア系外国人にして 日本人乗客から顰蹙を買ったではないか。
一体、エモット氏は 日本のサービス業のあり方を どうするべきだと言うのだろうか。この辺については 何も語っていない。つまり、この本では 何も言っていないことと同じなのだ。このようなロジック展開は 素人のアホな議論なのだろうか。
日本経済の発展が止まっているのは、サービス業の生産性の問題ではない。日本は、明らかに 開発のフロンティアを失って、従来型の容易にイメージでき、参入も容易な分野にカイゼン的発想で事業展開しているために、ケインズの乗数効果が 発揮されずにいるためなのだ。IT産業も 従来産業の効率を上げるための補完的産業でしかなかった。だから ミニ・バブルで終わってしまい、庶民にとって好況の慈雨とはならなかった。グリーン産業も 既存の産業が取りこぼした隙間を丹念に拾い上げるのが その本質であり、ケインズの乗数効果は期待できるものとは 思えない。
これからの事業は どのようなものであっても“知識集約型”にならざるを得ないのは エモット氏に殊更に言われなくても 至極当然の話であり、誰もが認識し実行している。だから、それが日本の経済社会にとって本質的問題なのではない。
要するに、エモット氏は 独自の見方で何を言いたいのか 良く分からない まま 読了してしまったのである。
だが、エモット氏の経済学に関する次の指摘は 共感できるもので有った。
“(経済学にとって)経済危機の深刻さの程度と範囲を予測することは、現在の景気回復の力強さと本質を予測しにくいのと同様に、困難だったことである。困難だというのは、経済学が科学ではなく、その考えや調査結果を数字的方程式に集約できないからである。つまり、その根底は人間行動の考察にあるからだ。”
何故、立ち遅れるのか そしてそれにどう対処するべきか、それが知りたくて読んでみたのだが、読後感としては残念ながら、インパクトは皆無であった。
それは、日本についての記述が、全8章の内、第1章と2章に限られているためだと思われる。要するに エモット氏は“変わる世界”に興味があり、ことのついでに 日本人向けの本として“日本”を付け加えただけなのであろう。
全体的な 本書の感想では 興味深い見解はいくつかあり、世界の情勢についてジャーナリストらしく よく把握しているようには感じるが、肝心なところで少々 ピントがずれているように思うのだ。だから、本書の印象が薄くなるのではないか。
例えば、“環境”については あまり独自の見解がなく、“常識的”反応というように感じる。エコノミストとしての目で 5年程度先を見ることに慣れている、と思えるが、環境を語る場合は もっと50年、100年先という長期的視点が必要なのだ。おそらく、このために言っていることに正鵠を得ていない印象を与えるのだろう。
特に エネルギー資源について、“BP社が発行する、年刊『世界エネルギー統計調査』はきわめて権威がある。採掘できる石炭の確認埋蔵量は、現行の消費ペースだと150年分あり、天然ガスは60年分以上、原油は40年分以上あるという。・・・同様にBP社の統計で、原油、石炭、天然ガスの埋蔵量は5~10年前に比べ、すべて増えている。”と述べて 資源予測に楽観的見通しを語っている。しかし、中国やインドが 現在の先進国と同様の消費をするようになった場合 そうそう楽観視できないはずだ。何より、それに加えて、人口増加の影響を視野に入れていないのは問題だと思われる。経済学の視点で人口は欠かせない要素だし、そもそも人口増加と言えば、食料問題が必須のはずだが その点には触れていない。
それに、“グリーン大国に化ける中国”という見通しは 少々中国を買いかぶりすぎていると思われる。多分、これは、大勢の日本人を焦らせるための台詞と思われ、それには効果的な表現である。エモット氏は 巧みに日本での発行部数を稼ぐことを考えているように見える。
さて、肝心の第1章と2章に 日本は どのように書かれているのか。
第1章の終わりに次のように言っている。
“代わりに日本が急ぐべきなのは、製造業を一層効率化し、その生産性を高めることはもちろんだが、それよりも、サービス業分野での生産性の問題を解決することだ。それが実現できれば、サービス業の賃金と利潤が上昇し、ひいてはこれが製品への需要を増大させえるので、製造業をも助けることになるのである。”
要は、日本では サービス産業が “GDPの約70%を占めているのに対して、製造業は約20%を占める”にすぎないにもかかわらず、サービス産業へ力点を置いておらず、生産性も悪いままだ、と言うのだ。だから、知識集約型産業の発展に重点を移すべきで、“真の知識国家への道は、より強力な福祉国家と、サービス業分野での規制緩和を合わせることである。それによって、ピーター・ドラッカーが描いた、近代的な知識経済の将来像が実現するかもしれないのだ。また、財源を自己調達できる税収を増やす絶好のチャンスとなり、より高い生活水準に必要な、高賃金を生み出すことも可能となる。この組み合わせこそが、今後、日本の重荷となる人口の高齢化に対処できる唯一の方策であり、事実、日本に残された、唯一の実行可能な進路なのである。”と、第2章の終わりでは言っているのだ。
エモット氏の言うサービス産業とは、小売、法務、宣伝、会計、ロジスティックス(物流システム)、デザイン、教育、ヘルスケア、他にメディアや娯楽であり、IT(情報技術)関連産業の恐らく ソフト開発産業のことのようである。
だが、これら サービス産業は 強い 製造業なしで成立するものなのだろうか。サービス産業の本質は 製造業のバックヤードであり、サポートする産業であるため 基本的には強い製造業が なければ根無し草になり、存在意義を失うのではないのか。
サービス業を 議論する場合 注意を要するのに 気付くべきだ。
確かに 世の中が進歩すれば、製造業に従事する人口は減少するのは当然である。それは、経済が成長すれば、競争により企業淘汰が進み、生き残った強い製造業は 生産性が高まっており、従業員数は 生産の量に対し相対的に低下している。さらに、この生産性が極限にまで高まって行けば、そこには従業員は ほとんど必要としなくなるのが理想的状態のはずなのである。
また、真に強い製造業の企業は間接部門比率が高くなっているはずであり、その間接部門の従業員を サービス産業従事者とカウントするのか 製造業従事者とカウントするのか 統計上の問題はある。例えば、巨大メーカーが 間接部門を分社化すると それまで製造業従事者としてカウントされていた人が、同じ仕事をしているにも拘わらず、分社化されたとたん、サービス業従事者と扱われることになっているのではないか。
それに、日本の サービス産業の 生産性を考える場合 具体的に何を問題にしているのだろうか。小売や輸送部門の話なのだろうか。それなら 多少 話は分かるような気もするのだが、その辺の腑分けも必要な気がするのだ。
一体、サービス業の生産性とは 何なのだろう。究極の サービスと言えば、サービスを受ける人間1人に対し、それ以上の数の人間の提供する心からのサービスのはずだ。この特上のサービスの生産性は 驚くほどの低生産性と言えるのではないか。いや、そのサービスの対価が 莫大なものであれば サービス提供者は儲けることが 可能だが、そうでなければ、サービス提供側は、人件費の安い人間を提供しなければならなくなる。こうなると、そのサービスも本質的に怪しいものとならざるを得ない。あの日航は キャビン・アテンダントをアジア系外国人にして 日本人乗客から顰蹙を買ったではないか。
一体、エモット氏は 日本のサービス業のあり方を どうするべきだと言うのだろうか。この辺については 何も語っていない。つまり、この本では 何も言っていないことと同じなのだ。このようなロジック展開は 素人のアホな議論なのだろうか。
日本経済の発展が止まっているのは、サービス業の生産性の問題ではない。日本は、明らかに 開発のフロンティアを失って、従来型の容易にイメージでき、参入も容易な分野にカイゼン的発想で事業展開しているために、ケインズの乗数効果が 発揮されずにいるためなのだ。IT産業も 従来産業の効率を上げるための補完的産業でしかなかった。だから ミニ・バブルで終わってしまい、庶民にとって好況の慈雨とはならなかった。グリーン産業も 既存の産業が取りこぼした隙間を丹念に拾い上げるのが その本質であり、ケインズの乗数効果は期待できるものとは 思えない。
これからの事業は どのようなものであっても“知識集約型”にならざるを得ないのは エモット氏に殊更に言われなくても 至極当然の話であり、誰もが認識し実行している。だから、それが日本の経済社会にとって本質的問題なのではない。
要するに、エモット氏は 独自の見方で何を言いたいのか 良く分からない まま 読了してしまったのである。
だが、エモット氏の経済学に関する次の指摘は 共感できるもので有った。
“(経済学にとって)経済危機の深刻さの程度と範囲を予測することは、現在の景気回復の力強さと本質を予測しにくいのと同様に、困難だったことである。困難だというのは、経済学が科学ではなく、その考えや調査結果を数字的方程式に集約できないからである。つまり、その根底は人間行動の考察にあるからだ。”
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