The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
京都文化博物館の“みんなのミュシャ展”を鑑賞して
日本の個人情報保護は一体どうなっているのか。
神奈川県県庁の内部情報が廃棄処分された情報機器のハードディスから流出していたことが明らかになった。何と問題のハードディスクがネット・オークションで販売されていたのが原因だったという。問題のハードディスクを買った人がハードディスク内の情報を復元再生し、その内容に驚いて新聞社に連絡し、新聞社が県庁関係部署に当たって、ハードディスクの流失が明らかになったという。ハードディスクを買った人が良心的な人だったので、県庁の管理不十分と横領・窃盗の悪事が露見した次第だ。
少々気懸りだったのが、県知事の表情だった。何だかニヤケた表情で深刻な事態である自覚に根本的に欠けている印象だ。おまけに、“情報流出ではない”とまで言い切った。世界的最大級の情報流出にもかかわらず、悪びれる様子もない。
しかも、ハードディスクを流出させたのは県庁が直接に発注した業者ではなく、そのことも県庁は知らなかったようだ。いわば重要な問題も人任せで終わり。性善説でやっている。悪賢いのはそこに付け込んで来るものだ。
日本がスパイ天国と言われるのは、こうした点にもあるのではないか。だから、個人情報保護法を制定したはずなのに、その実態は、個人情報はどこかから漏れ出ており、それを売買する市場もあるようだ。以前、知らない業者から個人を特定して電話がかかってきたので、“どうして知ったのか”と聞くと“合法的に名簿を買った。調べてもらっても構わない。”とまで居直られて、全く呆れてしまった。
無闇に会員登録すると、そこから個人情報が漏れるものだと覚悟する必要がある。キャッシュレス化も個人情報の登録が必要になり、さらに個人の即時的でヴィヴィッドな消費活動をダダ漏れにしようとする政府・巨大資本の陰謀かも知れない。それぐらいの警戒心が必要なのではないか。
ところが役所は個人情報保護を盾に仕事をしないと聞く。例えば、災害被害者の詳細や、身元確認を自治体等に問い合わせても個人情報だと言って取り合わないという。そのため被害者の捜索や被害者の肉親や深い関係のある人との接触が困難となっていて、連絡が取れず場合によっては被害者当人の救出が困難となることもあるように聞いている。
最近は、“桜を見る会”スキャンダルではその参加者の詳細について、個人情報だと言って公表しない姿勢だ。もし、参加したかどうかは個人情報だというのならば、どうして参加者を含めたニュース映像があるのだろうか。すべて、覆面するべきではないのか。
とにかく最近の菅官房長官の定例記者会見は、少し以前の威厳が全く感じられず、バカバカしさの強弁ばかり目立つような気がする。日本の政治がこんな体たらくで続いて行ってよいのだろうか。これで素直に“明けまして、おめでとう”と言えるのだろうか。
個人情報保護法は行政府の権力者や役人の都合を守るためのものであってはならず、一方では本来の目的の個人情報の保護の方はザルになっていて、一般国民には何ら恩恵はない。いわば悪法と見てよいのではないか。
何だか、そういったことにも一般国民は興味が無さそうで、それに乗じて政権当局はのさばっているような気がする。とのかく、今の日本人は暢気が過ぎる印象だ。それで良いのだろうか。
週末にはアフガニスタン復興に尽力した中村医師の死亡が伝えられた。これまで日本のテレビ報道ではほんの少し登場されただけだったが、穏やかなしかし力強い語り口が印象的であった。“金も要らず、名も要らず、命も要らぬ”、真のSDGsを語る貴重で高潔な人物ではなかったか。愚かな思惑の交錯する渦中での悲しい現実ではないか。
さて先週末、“みんなのミュシャ展”が10月の開幕以来、来場者3万人を突破したと主催者が発表していた。私も先月、京都文化博物館で開催されているこの展覧会に出かけていたので、ここで報告したい。
改めてミュシャについてWikipediaによれば、“アルフォンス・マリア・ミュシャ(Alfons Maria Mucha、1860年7月24日~1939年7月14日)は、チェコ出身のグラフィックデザイナー、イラストレーター、画家。「ミュシャ」という表記はフランス語の発音によるものであり、チェコ語の発音を邦訳すると「(アルフォンス・)ムハ」になる。 アール・ヌーヴォーを代表する画家で、多くのポスター、装飾パネル、カレンダー等を制作した。ミュシャの作品は星、宝石、花(植物)などの様々な概念を女性の姿を用いて表現するスタイルと、華麗な曲線を多用したデザインが特徴である。イラストレーションとデザインの代表作として『ジスモンダ』『黄道十二宮』『4芸術』などが、絵画の代表作として20枚から成る連作『スラヴ叙事詩』が挙げられる。”という。
この展覧会のHPには次のように紹介している。
“1860年、オーストリア帝国支配下にあった南モラヴィア地方(現在のチェコ共和国東部)の都市、イヴァンチッツェに生まれた。19歳になってウイーンへ行き、舞台装置などを制作する工房で働きます。
その後、チェコのミクロフで土地の名士達の肖像画を描いて生計を立てていましたが、ここで出会ったパトロンの援助によりミュンヘンの美術アカデミーで学びます。
1887年にはパリに出てアカデミー・ジュリアンに入学。
ウィーンからチェコ・ミクロフへ移り住み、土地の名士たちの肖像画を描いて生計を立て、ミュンヘンの美術アカデミーで本格的に学んでいきます。
1894年、女優サラ・ベルナールの主演舞台のためのポスター制作の機会を幸運にも得ることとなり、これによってミュシャの名声が瞬く間に高まります。
ミュシャ財団理事長で、ミュシャの孫にあたるジョン・ミュシャ氏は「祖父は当時のパリの日本趣味から影響を受けており、特に縦長の作品の形状にはそれが表れています」と語ります。
1906年、パリで出会ったマルシュカとプラハの聖ロフ教会で結婚し、共にアメリカへ渡ります。
遠くアメリカの地でスメタナ作曲「わが祖国」を聴き、自らの芸術のすべてをスラヴの歴史と文化に捧げようと決意。1910年に祖国に帰ります。世紀末のパリで一世を風靡し、1939年に没するまで彼が多くの人に影響を与えたことは言うまでもありません。
そして没後80年経った今もミュシャ様式に心惹かれる私たちは、彼の線の魔術にかかっているのかもしれません。”
日本への影響については次のように語られている。
“与謝野鉄幹が主宰した『明星』第8号(1900年)の表紙を飾ったのは一條成美によるミュシャを彷彿とさせる挿画だった。一條は『新声』に引き抜かれ『明星』の表紙は藤島武二が引き継ぐが、これを契機とするかのように明治30年代半ば、文芸誌や女性誌の表紙を時には全面的な引き写しを含め、ミュシャ、あるいはアール・ヌーヴォーを彷彿させる女性画と装飾からなるイラストレーションが飾ることになる。与謝野晶子の歌集『みだれ髪』の表紙デザインもこのミュシャ的装本の一つだが、重要なのはこれらの雑誌や書籍に用いられた言文一致体や、晶子が象徴する短歌は、近代の女性たちが、獲得したての近代的自我と自らの身体を「ことば」にした新しい表現だったということだ。つまり近代の女性たちの内面と身体の表象として選ばれたのがミュシャ様式の女性画であった。それは『明星』から70年余りを経た1970年代、少女マンガが内面と身体を発見し、ミュシャの系譜としての少女マンガの「絵」に再び導入するまでの、長い前史の始まりである。ミュシャは近代の女性たちの内面と身体を表現するアイコンとして、この国の文化史の中にある。”
ミュシャの作品ばかりではなく、展示の終盤ではミュシャの影響を受けた欧米の画家達や日本のイラストレーターたち・水野英子、山際涼子、花郁悠紀子、松苗あけみ、波津彬子、天野喜孝、出渕裕の作品展示もあった。
実は私はミュシャは知らなかった。しかしこれまで、藤島武二をはじめ多くの日本人の心を惹きつけてきたようだ。特に、日本の漫画というより劇画界に与えた影響は大きく、そのため若い人の来場者も多かったようだ。
ミュシャは女優サラ・ベルナールのポスター画で有名になったようだが、ポスターの中央にモデルの顔を置くのは当然としてモデルの周囲に円を描いて、視線が円の中央に行くようにしたという。これは当時の心理学の最先端を応用したという。その円環モチーフから女性にまとわる衣の裾とともに“Q”という字を形成することから、この構図は後に“Q方式”と呼ばれ、後世のグラフィック・アーティストに大きな影響を与えた、という。ミュシャは植物学にも造詣が深く、その円環に使われる植物も正確なデザイン描写になっているとの説明であった。
こうした肖像は当然のことながら、“目”が命、そう思って改めて見直すと、様々な表情が見て取れて面白かった。ハイティーンと思える女性の凛とした視線の目、アンニュイな女性の目、実に様々であるが、その目がすべてを語っていると感じる。目を失敗すると絵全体が台無しになってしまう。
また、ミュシャの作品は見ての通り、線が重要である。フランスでは絵画は光を描く印象派が主流であった影響が残る時代に、日本の浮世絵に近い線描のイラストで新境地を開いた、と言えるのだろう。またそれだからこそ、日本人に強く共感を与えるのかも知れない。
だが、私は余りこうしたイラストの世界に強く共感を覚える方ではない。何故、そうなのか私自身も分からない。残念ながら、そうか、そんな世界もあるのだ、との感想しか出てこないのだ。もしかして、彼の真骨頂は“スラヴ叙事詩”にあるのかもしれない。これを見ずしてミュシャを語るのは間違っているのかも知れない。この展覧会では、その一部の複製だけが展示されており、そう思った次第だ。
午前中に京都文化博物館で鑑賞したので、例によって近くの紫洸(京料理)で昼食とした。ここは12時からの開店で、入店のタイミングが難しい。事実、正午過ぎ行ってみると既に5~6人の来店者が居た。日替わりと思えるランチ定食を頼んで京都を楽しんだ。午後からは、審査員研修会だった。
神奈川県県庁の内部情報が廃棄処分された情報機器のハードディスから流出していたことが明らかになった。何と問題のハードディスクがネット・オークションで販売されていたのが原因だったという。問題のハードディスクを買った人がハードディスク内の情報を復元再生し、その内容に驚いて新聞社に連絡し、新聞社が県庁関係部署に当たって、ハードディスクの流失が明らかになったという。ハードディスクを買った人が良心的な人だったので、県庁の管理不十分と横領・窃盗の悪事が露見した次第だ。
少々気懸りだったのが、県知事の表情だった。何だかニヤケた表情で深刻な事態である自覚に根本的に欠けている印象だ。おまけに、“情報流出ではない”とまで言い切った。世界的最大級の情報流出にもかかわらず、悪びれる様子もない。
しかも、ハードディスクを流出させたのは県庁が直接に発注した業者ではなく、そのことも県庁は知らなかったようだ。いわば重要な問題も人任せで終わり。性善説でやっている。悪賢いのはそこに付け込んで来るものだ。
日本がスパイ天国と言われるのは、こうした点にもあるのではないか。だから、個人情報保護法を制定したはずなのに、その実態は、個人情報はどこかから漏れ出ており、それを売買する市場もあるようだ。以前、知らない業者から個人を特定して電話がかかってきたので、“どうして知ったのか”と聞くと“合法的に名簿を買った。調べてもらっても構わない。”とまで居直られて、全く呆れてしまった。
無闇に会員登録すると、そこから個人情報が漏れるものだと覚悟する必要がある。キャッシュレス化も個人情報の登録が必要になり、さらに個人の即時的でヴィヴィッドな消費活動をダダ漏れにしようとする政府・巨大資本の陰謀かも知れない。それぐらいの警戒心が必要なのではないか。
ところが役所は個人情報保護を盾に仕事をしないと聞く。例えば、災害被害者の詳細や、身元確認を自治体等に問い合わせても個人情報だと言って取り合わないという。そのため被害者の捜索や被害者の肉親や深い関係のある人との接触が困難となっていて、連絡が取れず場合によっては被害者当人の救出が困難となることもあるように聞いている。
最近は、“桜を見る会”スキャンダルではその参加者の詳細について、個人情報だと言って公表しない姿勢だ。もし、参加したかどうかは個人情報だというのならば、どうして参加者を含めたニュース映像があるのだろうか。すべて、覆面するべきではないのか。
とにかく最近の菅官房長官の定例記者会見は、少し以前の威厳が全く感じられず、バカバカしさの強弁ばかり目立つような気がする。日本の政治がこんな体たらくで続いて行ってよいのだろうか。これで素直に“明けまして、おめでとう”と言えるのだろうか。
個人情報保護法は行政府の権力者や役人の都合を守るためのものであってはならず、一方では本来の目的の個人情報の保護の方はザルになっていて、一般国民には何ら恩恵はない。いわば悪法と見てよいのではないか。
何だか、そういったことにも一般国民は興味が無さそうで、それに乗じて政権当局はのさばっているような気がする。とのかく、今の日本人は暢気が過ぎる印象だ。それで良いのだろうか。
週末にはアフガニスタン復興に尽力した中村医師の死亡が伝えられた。これまで日本のテレビ報道ではほんの少し登場されただけだったが、穏やかなしかし力強い語り口が印象的であった。“金も要らず、名も要らず、命も要らぬ”、真のSDGsを語る貴重で高潔な人物ではなかったか。愚かな思惑の交錯する渦中での悲しい現実ではないか。
さて先週末、“みんなのミュシャ展”が10月の開幕以来、来場者3万人を突破したと主催者が発表していた。私も先月、京都文化博物館で開催されているこの展覧会に出かけていたので、ここで報告したい。
改めてミュシャについてWikipediaによれば、“アルフォンス・マリア・ミュシャ(Alfons Maria Mucha、1860年7月24日~1939年7月14日)は、チェコ出身のグラフィックデザイナー、イラストレーター、画家。「ミュシャ」という表記はフランス語の発音によるものであり、チェコ語の発音を邦訳すると「(アルフォンス・)ムハ」になる。 アール・ヌーヴォーを代表する画家で、多くのポスター、装飾パネル、カレンダー等を制作した。ミュシャの作品は星、宝石、花(植物)などの様々な概念を女性の姿を用いて表現するスタイルと、華麗な曲線を多用したデザインが特徴である。イラストレーションとデザインの代表作として『ジスモンダ』『黄道十二宮』『4芸術』などが、絵画の代表作として20枚から成る連作『スラヴ叙事詩』が挙げられる。”という。
この展覧会のHPには次のように紹介している。
“1860年、オーストリア帝国支配下にあった南モラヴィア地方(現在のチェコ共和国東部)の都市、イヴァンチッツェに生まれた。19歳になってウイーンへ行き、舞台装置などを制作する工房で働きます。
その後、チェコのミクロフで土地の名士達の肖像画を描いて生計を立てていましたが、ここで出会ったパトロンの援助によりミュンヘンの美術アカデミーで学びます。
1887年にはパリに出てアカデミー・ジュリアンに入学。
ウィーンからチェコ・ミクロフへ移り住み、土地の名士たちの肖像画を描いて生計を立て、ミュンヘンの美術アカデミーで本格的に学んでいきます。
1894年、女優サラ・ベルナールの主演舞台のためのポスター制作の機会を幸運にも得ることとなり、これによってミュシャの名声が瞬く間に高まります。
ミュシャ財団理事長で、ミュシャの孫にあたるジョン・ミュシャ氏は「祖父は当時のパリの日本趣味から影響を受けており、特に縦長の作品の形状にはそれが表れています」と語ります。
1906年、パリで出会ったマルシュカとプラハの聖ロフ教会で結婚し、共にアメリカへ渡ります。
遠くアメリカの地でスメタナ作曲「わが祖国」を聴き、自らの芸術のすべてをスラヴの歴史と文化に捧げようと決意。1910年に祖国に帰ります。世紀末のパリで一世を風靡し、1939年に没するまで彼が多くの人に影響を与えたことは言うまでもありません。
そして没後80年経った今もミュシャ様式に心惹かれる私たちは、彼の線の魔術にかかっているのかもしれません。”
日本への影響については次のように語られている。
“与謝野鉄幹が主宰した『明星』第8号(1900年)の表紙を飾ったのは一條成美によるミュシャを彷彿とさせる挿画だった。一條は『新声』に引き抜かれ『明星』の表紙は藤島武二が引き継ぐが、これを契機とするかのように明治30年代半ば、文芸誌や女性誌の表紙を時には全面的な引き写しを含め、ミュシャ、あるいはアール・ヌーヴォーを彷彿させる女性画と装飾からなるイラストレーションが飾ることになる。与謝野晶子の歌集『みだれ髪』の表紙デザインもこのミュシャ的装本の一つだが、重要なのはこれらの雑誌や書籍に用いられた言文一致体や、晶子が象徴する短歌は、近代の女性たちが、獲得したての近代的自我と自らの身体を「ことば」にした新しい表現だったということだ。つまり近代の女性たちの内面と身体の表象として選ばれたのがミュシャ様式の女性画であった。それは『明星』から70年余りを経た1970年代、少女マンガが内面と身体を発見し、ミュシャの系譜としての少女マンガの「絵」に再び導入するまでの、長い前史の始まりである。ミュシャは近代の女性たちの内面と身体を表現するアイコンとして、この国の文化史の中にある。”
ミュシャの作品ばかりではなく、展示の終盤ではミュシャの影響を受けた欧米の画家達や日本のイラストレーターたち・水野英子、山際涼子、花郁悠紀子、松苗あけみ、波津彬子、天野喜孝、出渕裕の作品展示もあった。
実は私はミュシャは知らなかった。しかしこれまで、藤島武二をはじめ多くの日本人の心を惹きつけてきたようだ。特に、日本の漫画というより劇画界に与えた影響は大きく、そのため若い人の来場者も多かったようだ。
ミュシャは女優サラ・ベルナールのポスター画で有名になったようだが、ポスターの中央にモデルの顔を置くのは当然としてモデルの周囲に円を描いて、視線が円の中央に行くようにしたという。これは当時の心理学の最先端を応用したという。その円環モチーフから女性にまとわる衣の裾とともに“Q”という字を形成することから、この構図は後に“Q方式”と呼ばれ、後世のグラフィック・アーティストに大きな影響を与えた、という。ミュシャは植物学にも造詣が深く、その円環に使われる植物も正確なデザイン描写になっているとの説明であった。
こうした肖像は当然のことながら、“目”が命、そう思って改めて見直すと、様々な表情が見て取れて面白かった。ハイティーンと思える女性の凛とした視線の目、アンニュイな女性の目、実に様々であるが、その目がすべてを語っていると感じる。目を失敗すると絵全体が台無しになってしまう。
また、ミュシャの作品は見ての通り、線が重要である。フランスでは絵画は光を描く印象派が主流であった影響が残る時代に、日本の浮世絵に近い線描のイラストで新境地を開いた、と言えるのだろう。またそれだからこそ、日本人に強く共感を与えるのかも知れない。
だが、私は余りこうしたイラストの世界に強く共感を覚える方ではない。何故、そうなのか私自身も分からない。残念ながら、そうか、そんな世界もあるのだ、との感想しか出てこないのだ。もしかして、彼の真骨頂は“スラヴ叙事詩”にあるのかもしれない。これを見ずしてミュシャを語るのは間違っているのかも知れない。この展覧会では、その一部の複製だけが展示されており、そう思った次第だ。
午前中に京都文化博物館で鑑賞したので、例によって近くの紫洸(京料理)で昼食とした。ここは12時からの開店で、入店のタイミングが難しい。事実、正午過ぎ行ってみると既に5~6人の来店者が居た。日替わりと思えるランチ定食を頼んで京都を楽しんだ。午後からは、審査員研修会だった。
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