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“よみがえる川崎美術館”を鑑賞して

米中間選挙の結果、トランプ・バッシングが起きている、という声がチラホラあるようだ。
白人労働者のある意味、不当な特権が剥奪された結果の不当な欲求不満がトランプ現象の原因ではなかったか。そうであれば、トランプ現象は米国民主主義の前進の結果の一過程だったと認識できる。つまり米国社会の人種差別平準化の中での社会意識変化なのだろう。

株式相場、どうやら厳冬期を過ぎたようだ。米インフレも既にピークを過ぎているらしい。ために止めどない円安も、一旦小休止の印象。
日本経済の底堅さを感じている。やはり、イギリス経済とは違い、その規模の巨大さが外人ファンドマネージャーをして一方的円安への売り浴びせを逡巡させた一因なのだろうか。
東芝が落ち着き、半導体事業への官民挙げての投資が始まる。日本経済も少しは垢抜けし、変わっていく兆候が見え始めて来ている印象だ。

「聞く力と決断と実行」の岸田内閣。“聞く力”も“決断”も“実行”も正にゴテゴテ。このままでは閣僚辞任のドミノ倒しの嵐?!それで長期政権となる訳があるまい。衆院解散でチャラにして、自己も辞任となるのカモ。
政治家と役人の堕落が目立つ。しかも2世議員が目立つ中、政治が家業になっている現実。どうしようもないしがらみが日本を委縮させ、革新ができない。日本社会のこれで明日の日本が期待できるのか?



さて、先週は神戸市立博物館で開催されている“よみがえる川崎美術館”を鑑賞したので報告したい。午前に審査の仕事があり、午後事務局に戻って報告書を提出する前に、博物館に立ち寄ったものだ。
川崎美術館とは、神戸の実業家・川崎正蔵が神戸市布引の自宅邸(現在のJR新神戸駅北西部付近)に明治23年(1890)9月6日開設した日本初の私立美術館のことだ。
川崎正蔵(1836年8月10日~1912年12月2日)は川崎造船所(現川崎重工業株式会社)や神戸新聞社、神戸川崎銀行などを創業した実業家。男爵、貴族院議員、従五位。幼名・磯治。隠居後は米寿まで生きることを願って「川崎米年蔵」を名乗った。
薩摩藩の商人の長男。独学で国学や英語を学び,巨大海商の山木屋に就職し,鹿児島と長崎で海運,貿易,造船に従事した。大坂での小売商を経て明治4(1871)年に上京し,大蔵省から琉球特産品の調査を依頼され,日本国郵便蒸汽船会社の副頭取として琉球航路の開設に成功したのをきっかけに実業家となった。
海運事業を営む間に自分の運命を左右するような海難事故に何度も遭遇した正蔵は、自らの苦い体験を通して江戸時代の大和型船に比べて船内スペースが広く、速度も速く、安定性のある西洋型船への信頼を深めると同時に、近代的造船業に強い関心を抱くようになり造船業に邁進した。
また美術品の収集でも知られ、1890年には神戸の自邸内に川崎美術館とその付属館である長春閣をつくった。

今回の展覧会開催の説明に次のようにある。 
“明治時代、西洋文化の流入が急速に進むなか、川崎正蔵は廃仏毀釈や海外流出から日本・東洋の美術品を守るために、それらの収集をはじめました。それらの優品を秘蔵せず、公開することを目的に美術館を開館したのです。
美術館は川崎正蔵の歿後も活動を続けましたが、昭和初期の金融恐慌をきっかけにコレクションは散逸。美術館の建物も災害などにより失われてしまいましたが、川崎正蔵が愛した作品は、今なお国内外で大切に守り伝えられています。
本展では、約100年ぶりに珠玉の作品が再び神戸に集います。今秋期間限定でよみがえる川崎美術館へと、ぜひ足をお運びください。”



川崎正蔵が美術品の蒐集家だったとはつゆ知らず。その影響で次代の川重・社長の松方幸次郎が、松方コレクションと呼ばれる膨大な西洋絵画(国立西洋美術館創設時の基礎的なコレクションとなった)、浮世絵(その多くが、現在東京国立博物館に収蔵されている)のコレクションを築き上げたことに繋がっているのだろう。

川崎正蔵と言えば、社章の由来を聞いたことがある。川崎グループの社章は下図のデザインが基本になっているが、正蔵が、回漕業を営んでいた1875(明治8)年から1876(明治9)年頃、すでに「川」の字を図案化した旗を作り、所有船に使っていた。この時、「川」の字を遠目には薩摩藩の“丸に十の字”の紋章に似たデザインにした、というものだ。



先ず、川崎正蔵の肖像画(グイード・モリナーリ「川崎正蔵翁像」)が展示されている。これは1900年、欧州の造船事業を見て回った時に現地の画家に描かせたものとの解説があった。
それから、1914年(大正 3年)の川崎正蔵三回忌に刊行された豪華図録『長春閣鑑賞』の展示となっていた。

これらの展示物を見る前に女性の係員から背負っているカバンを前掛けにせよとのお達し。さもなくばコインロッカーに預けろとのこと。コインロッカーに預けるのには恐らくカネがかかるし、帰りに取りに行くのがメンドウクサイ。そこで前掛けして見ることにしたが、重いカバンだったので、肖像画を見始めたところで、背筋が弱っているせいか急に腰に来た。さほど混んでも居ないのに、ツライお達しダ!そこで、最寄りの腰掛に倒れ込む。その後、要所要所で腰掛に坐って何とかかわした。

それ以降、運慶の技を受け継いだ康円の見事な写実的小品、重要文化財「広目天眷属像」。蕪村の明暗のしっかりした「闇夜漁舟図」、「雪景山水図」。北斎が“それまでの(自分の)絵は取るに足らん”と豪語したという、「渡船山水図」。だが、私には月並みな印象。

円山応挙の緻密な「呂洞賓図」、私には大きな絵と感じた「雪景山水図」等々鑑賞。
応挙はこれ以外に3組の襖絵が展示。これは川崎美術館1階の3室にあったものだという。応挙の絵はこれまで、掛け軸の絵くらいしか見たことがなかったので、酷く感激した。

明治 35 年(1902)の明治天皇の神戸行幸で御用立てられ、「名誉の屏風」と呼ばれた金地屏風。その内の3双、狩野孝信筆「牧馬図(ぼくばず)屏風」、伝狩野孝信筆「桐鳳凰図屏風」、狩野探幽筆「桐鳳凰図屏風」が展示。やっぱり、探幽は何となく私には華やかさが欠け落ちる印象を持った。

最後が、少々薄気味の悪い人間離れした、風変わりな振る舞いで知られる伝説の僧の肖像画。重要文化財 伝顔輝「寒山拾得図」。

これで、ヤット重い前掛けカバンから解放される。



この後、常設展示「神戸の歴史展示室」で、古代から現代にいたる地域・神戸の歩みをたどる展示でも見て帰ろうと迷い込んだのだが、残念ながら袋小路になっていて、博物館の西側に出られず。以前は西側の通りに出られたものだったが、元の入口のホールに戻らざるを得ず、ガッカリ。

荷物の前掛けと言い、何となく観覧者への配慮に欠ける印象に落胆した。チョット言い過ぎであろうか?

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