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京都七条・豊国廟、方広寺、豊国神社参拝して秀吉とその後を偲ぶ

首相は未だに憲法改正を言い続けているが、大学入試改革すら上手くやれないのに、憲法改正ができるはずがない、という意見には、そりゃぁそうだの同感。その改革がやれなかった当局の文科省官僚は“モリカケ対応に振り回された”と言っているらしい。ならば身から出た錆ではないか!

性犯罪を犯しても、その犯人は安倍氏と関係が深ければ逮捕・起訴されない。大勢の官憲が犯人逮捕に向かっても、裁判所の許可した逮捕状は寸前で執行されなかったという。これに対し、さすがに裁判所は民事で犯罪の成立を認めて、“犯人”に賠償を命じた。日本の行政法務当局は法に従わず、忖度と恣意で動いている。日本は最早法治国家ではない。誰が法を歪めているのか。日本人は独裁者との距離によって、選別されているかのようだ。

やけにIR(統合型リゾート)に御熱心だと思えば、ナァーンだ袖の下目当てだったのか。しかも中国資本に利益供与?その挙句、一般国民はギャンブル依存症に悩まされるのならバカバカシイこと極まりない。さすがにこれには逮捕執行か。だが国会議員は不逮捕特権あり?安倍氏はこれもかばうのか?

官営・日本郵政のかんぽ生命。見せかけの民営化の下、法を犯して保険の不正販売で収益を上げようとしていた。この加害実態は底なしのようだ。
その挙句、高級官僚が守秘義務規定を犯して、先輩後輩の関係を尊重した。最高級の官僚にしてこの体たらく。日本の法とその精神は高級官僚にも尊重されていない。
ところが、この情報をもらした相手は保険の不正販売に対する調査報道したマスコミに“いい加減な暴力団のような報道機関だ”という“恫喝”を加えた張本人だったらしい。日本郵政は官製会社でありながら名だたるブラック企業ではないかと思っていたが、こうなるともう極めつけの反社勢力ではないか。

ところで、下火になりかけている桜問題は、実はそこに反社勢力と深いつながりがあるため、何とか隠しおおせたい強い意向が政権にある、ということのようだ。明らかにしたくない巨大な闇、首相コネクションの、この日本全体を覆う闇だ。この闇には様々な“有力”政治家、マスコミ関係者、高級官僚が関わっているという。だからこそ、総理関係者の招待者リストだけが何故か消去されていて、復元しないと強弁する。その上、第一次安倍政権で定めた反社勢力の定義*もわざわざ閣議決定で無きモノにした。都合の悪いモノはなんでも抹殺。自殺した人がいても平気で、私は敬虔なクリスチャン、良い人ョ。首相夫人は私人。そんな政権の閣議とは、そのようなことばかりを決定する場なのだろうか。公的仕組の私物化ではないか。

反社会勢力の定義:“暴力、威力と詐欺的手法を駆使して経済的利益を追及する集団または個人”
第一次安倍政権下で政府は平成19年(2007年)、犯罪対策閣僚会議の下に設置された暴力団資金源等総合対策ワーキングチームにおける検討を経て、「企業が反社会的勢力による被害を防止するための指針」を定めて定義した。

こんなに政府が腐敗していても政権の危機は無く、相変わらず支持率40%は維持されている。この国の世論は一体どうなっているのか。報道しないマスコミに、知ろうとしない国民。モハヤ狂った国としか思えない!
その狂った国、経済もすでに先進国とは言えない状態のようだ。日本の物価は、東南アジア諸国の半分だという。先進国では、平均所得は1200円/年の水準だという噂も聞いた。日本の平均所得は600万円/年。だから観光客が多いのだ。アベノミクスはどうなったのか?こういう状態で“輝かしい「令和の時代」”を連呼する首相に中身のない虚しさが漂う。“腐りきった没落時代”になるのではないか。

記録の廃棄、改竄は中央政府現政権の得意の戦術だが、既に基礎自治体の官僚にも広がっているようだ。
最近知人から聞いた話だが、神戸市役所が文書の電子データ化を推進しているが、混乱の極みに在って問題が起きた時に記録を要求しても、担当職員は“記録はない”と言って取り合わないという。本来、電子データ化すれば記録の保管は容易なはずだが、システムを合理的に上手く使用する意識が乏しく混乱しているようだ。神戸市職員OBによれば、2年で担当変更になるため記録が無ければ仕事にならないので、絶対にあるハズ、とのことだが不都合な記録は中央政府同様、無いと強弁しているらしい。

また現神戸市長は灘高・東大から自治省高級官僚出身の“とても賢い”人物らしい。市議会がはじまっても直下の職員には“いつも通り早く帰れ、後は(答弁の準備は)私がやっとく。”と言われる程とのこと。しかし最近、独裁的言動で部局長は“戦々恐々”だとの噂だった。だが、この5月から庁内システムにデスク・ネッツが導入され、これまで閉鎖的だった庁内コミュニケーションがいきなりオープンになり、これがさらに混乱に拍車をかけているらしい。歴史的背景のある事情と意義を知らぬ末端職員の意見を、現場を知らない独裁的市長が鵜呑みにして、政策決定する場面があるらしい。
全国ニュースで報じられたような事故を起こした職場には、その後も市長は全く訪れていないという。その現場の幹部職員は“市長はそんなにお忙しいのでしょうか。”と嘆いていたとのこと。これでは1.8万人の職員全員を十分に把握出来る訳があるまい。
新たなシステム導入で内部コミュニケーションがオープンになっても、外部コミュニケーションが閉鎖的のままなので、神戸市と関わりのある外部組織・企業は、混乱する市の意思決定に振り回されて、これまた混乱し迷惑するのだ。“賢い”市長の妙な自信が過信となって、最早庁内ガバナンスはあって無きがごとし。ガバナンスの無い組織は混乱の極みに至る。今後ますます神戸市政は混乱するのではないだろうか。
神戸市の教育体制も、これまた何だか変。これも全国ニュースで、何度も報道されている。このままでは、こんな市内に住んでいて大丈夫なのだろうかと市民もまた混乱するだろう。


さて先週は、そんな混乱する神戸市を出て、京都七条で午後から審査だった。そこで午前は、七条の東、三十三間堂や国立博物館のさらに東にある、豊国廟つまり豊臣秀吉の墓を参ることにした。
当日は大阪梅田に出て、地下鉄で淀屋橋に行き、京阪で七条へ向かう。最近は、京阪も快速特急“洛楽”を走らせ、枚方や樟葉、中書島を停まらずに天満橋からノンストップで京都七条に行けることになっているようだ。京阪は昔からカーブ式電車と揶揄されるように、カーブが多くその分遠回りになってしまうので、JRの新快速に対抗する必要があるのだろう。しかし、私はJRのダイヤ順守に疑問を持っているので、私鉄優先とするようにしている。しかし、このところ阪急もJR同様の傾向が見られる。

10時前京阪七条に着き、荷物をコインロッカーに預けて、七条通りは鴨川の東はそれとは分からぬほどの緩い登り坂。これを東へ向かい、左手に博物館、南の右手に三十三間堂の看板を見てさらに東進。やがて少し丁字路になっている東山七条へ出て、そこから少し北にある交差点をさらに東へ行くと上り坂は少しづつ急になってくる。京都女子大学があるので、女子学生が目立ち始める。略して通称、京女キョウジョ、これをキョウオンナと呼ぶお笑いw
それを過ぎると鳥居が見えて来る。京女と廟境内、バスの駐車場の境界が判然としない。鳥居下の階段を上がってその内側はさすがに廟側の敷地。廟の入口の東屋のような木造の建物を過ぎると、急坂の階段があり、ここで参拝の料金を入れるよう注意する看板がある。当然百円玉を投入、無人で参拝客もいないが良心に従う。
寄る年波に、最近足腰が弱くなっているので、この階段を一気に上るには不安がある。しかし、4~5年前は心肺がもっと弱っていたが、讃岐金毘羅さんには登ったことがあるので何とかやれるだろうと取り掛かる。頂点の墓所に行くまで途中に1箇所休憩可能な平地があるが、階段の途中でも合計7~8回は2~3分の休憩をして、息の回復を図った。その間全く、ひと気は無く、鬱蒼とした森林の中を一人行く。
それでも何とか、上り詰めて阿弥陀ヶ峰山頂の墓所に至る。だが、残念ながら振り返っても京都の町を一望することは出来ず、森の中にうずもれた感がある。今後のことを祈願。木立の向うを僅かに見える京都の町を見ながら、夫人“ねね”の高台寺を思い出す。豊臣家は東山一帯から伏見にかけてがお好みだったのだろうか。
後は下山。弱い足腰をかばいながら、上りより下りには気を付けるようにという整体師の言葉が気懸り。それでも途中休憩は登りの半分以下。あと一息で麓の所で、フト兼好の“高名の木登り”を思い出して、ここでこけて骨折でもするなら笑いもの、とばかりひと気のないのを幸いに念入りに一旦休憩。

元来た道をどんどん戻る。やっぱり下りは楽だ、気付くと11時。京女キャンパスの間の道を北上。最初の信号のある交差点を左折して西進。これをどんどん西進。以前、建設現場審査に来たことのある場所だと思い出す。そう言えば、その南が方広寺。左に曲がって行くと、左手に巨大な岩の連なる石垣塀が見えて来る。やっぱり方広寺、左手に坂道を登る。20mくらいの坂を上がると、右手に鐘楼がある。左手が本堂か、先ずはお賽銭。ここもひと気が無い。つまらないので、鐘楼の下へ行って、台に上って鐘楼の天井を眺める。何かが描かれているが良くわからない。
西側に回り込んで、何だか説明書きがある。エッツ?!これがあの歴史上有名な“国家安康”の梵鐘?改めて確認すると、その部分に白く枠線が描かれていて分かる。何気なく歴史的なモノが置かれている、これが京都の凄いところ!

Wikipediaによれば、方広寺は“天台宗の寺院。豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺として木食応其(もくじきおうご; 1536年~1608年、真言宗の僧で、出家前は六角氏に仕える武将)によって創建された。”その後、慶長伏見地震で倒壊した大仏を秀吉の子・秀頼が再建し、梵鐘も作られたが、その銘文“国家安康・君臣豊楽”の句が“徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、家康及び徳川家を呪うもの”と徳川方が言いがかりを付け、大坂の陣のきっかけとなった。

鐘楼の脇を抜けると、そこは豊国神社の境内。改めてここも参拝し、今後を祈願。親から聞いた話で、私の七五三は大阪の豊国神社ということだった。それ以来、豊国神社は初めてではないか。
ここの唐門は、wikipediaによれば、“元は南禅寺塔頭金地院にあったもので、豊国神社再建にあたって金地院から移築された。以心崇伝が寛永4年(1627年)に江戸幕府から二条城の唐門を譲り受けたもので、その前は伏見城にあったとも伝える。”

境内南側に神社宝物館がある。しかし、“ここより先立ち入り禁止”の看板!エッツ?“宝物館以外は”とあったので、敷石の通りに進んで行くと、少々薄汚れた鉄筋コンクリートと思われる建物が見える。中は不気味なまでに暗い。しかし様々な屏風絵や甲冑、秀吉木像の展示があった。秀吉の歯を入れた容器の展示もあった。本物ならば遺伝子解析もできるはずだ。どうしたのだろう。

宝物館を出ると、12時前。方広寺大仏殿跡の公園も行きたい。急ぎ足で大和大路を北上し、東へ脇道を行きスマホのマップで現在位置を確認しながら、民家の中公園に向かう。
公園は豊国神社社殿の裏、東側にあるが、スマホマップが無ければ、土地勘のない場所なので簡単なアプローチは無理!何も表示が無ければ、縦横50m前後の民家の建ち並ぶ中の普通の公園だ。中央付近に大仏の台座部分との表示がある。一時期は“京都の大仏”として絵図にも多く描かれ、江戸でも有名で参拝者も多かったらしいが、今や方広寺含めてひっそりしている。

豊国神社は江戸時代は朽ち果てる一方で放置されたが、維新後は将軍にならず天皇の臣下として過ごした秀吉を改めて尊重する気風が出て来たという。wikipediaによれば、次のようである。
“慶応4年(1868年)閏4月、明治天皇が大阪に行幸したとき、秀吉を「皇威を海外に宣べ、数百年たってもなお寒心させる、国家に大勲功ある今古に超越するもの」であると賞賛し、豊国神社の再興を布告する沙汰書が下された。同年5月には鳥羽・伏見の戦いの戦没者も合祀するよう命じられた。1873年(明治6年)、別格官幣社に列格した。1875年(明治8年)には東山の地に社殿が建立され、萩原兼従の子孫である萩原員光が宮司に任命された。1880年(明治13年)、方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成し、遷座が行われた。旧福岡藩主の黒田長成侯爵・蜂須賀茂韶侯爵らが中心となり境内の整備が行われ、1897年(明治30年)には神社境外地の阿弥陀ヶ峰山頂に伊東忠太の設計になる巨大な石造五輪塔が建てられ、翌年、豊太閤三百年祭が大々的に挙行された。この工事の際、土中から素焼きの壷に入った秀吉の遺骸とおぼしきものが発見された。遺骸は丁重に再埋葬されたというから、秀吉はいまなお阿弥陀ヶ峰山頂から京都の街を見守っていることになる。”

豊国神社前にもどり、左に耳塚*を見ながら西進して途中で昼食休憩。親子丼を食べて、疲れを癒し、七条駅に戻ってコインロッカーから荷物を取り出し、午後の審査に戻る。

*耳塚は、豊臣秀吉の文禄・慶長の役で、朝鮮人を虐殺し、戦功として被害者達の鼻や耳をそぎ落とし、塩漬けにして持帰りこの地に埋め、供養が行われたという。


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