The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
ジブリ・アニメ“風立ちぬ”を見て
先週、大阪で開催されたセミナーを途中で抜け出して、その近くの映画館に映画“風立ちぬ”を見に行った。
宮崎駿監督が、テレビで“わかりにくい内容かも知れない”と言っていたので、どういう展開になるのか楽しみにして行ったのだが、全体のトーンというか特に後半は、堀辰雄の“風立ちぬ”である。小説中のポール・ヴァレリーの詩の一節とされる“風立ちぬ、いざ生きめやも”の“生きよ”から“生きねば”がこの映画のテーマとなっている。
肝心の零戦の開発は、メイン・ストーリーではなく、その前の96艦戦(96式艦上戦闘機;正確にはその原型となる試作機9試単座戦闘機)の開発が終わった時点で、恋人・菜穂子の命が尽きて 映画のメイン・ストーリーも ほぼそこで終わっている。だから、映画の本筋も、そこで終わっていると見て良いのかもしれない。
日本の最高傑作機・零戦は、この映画では最終シーンのみに雄姿を見せる。“征(ゆ)きて帰りし者なし。飛行機は、美しくも呪われた夢だ。”との台詞と共に飛び去って行く。映画PRのためには人気の高い零戦を前面に出すのは当然のことなのかも知れない。
96艦戦については、子供の頃 1/150の安価なプラモデル・シリーズに夢中になっていた時に初めてその存在を知った戦闘機で、その主翼が特徴的に優美で 当時から好きだった。その曲線こそは、映画にでて来た“鯖の骨”であろうか。96艦戦は、日本初の低翼単葉全金属戦闘機であった。また空中戦性能が抜群に優秀であり過ぎたため、海軍のパイロットが個別の格闘戦技能にこだわってしまい、その後の戦闘機の開発でいわゆる“軽戦”優先、“重戦”軽視に固執し、さらにそのDNAを引き継いだ零戦が重用され過ぎてしまった。大戦後期では世界の趨勢が“重戦”つまりパワフルなエンジンで高速で飛行し、重火器を使用して一撃離脱しつつ編隊のチーム・ワークで敵を殲滅するという戦術に変わって行ったので、日本、特に海軍の戦術運用が時代遅れになるという影響を与えた。このように96艦戦は開発当時の名機であり、零戦と親子関係にあり、これらの飛行機には 精強さと共にある優美さが神秘性を醸しているのだろう。
96艦戦は、陸軍にも影響を与え、その直後に登場する97式戦闘機や 後継の隼・一式戦闘機が格闘戦に優れた“軽戦”とされている。しかし、陸軍は その後次第に、四式戦闘機・疾風等に見られる“重戦”へと傾斜して行った。
戦前、戦闘機開発には有力な3つのグループがあった。中島飛行機と三菱内燃機、それから川崎造船所である。中島には小山悌、糸川英夫、川崎には土井武夫、そして三菱には堀越二郎。ほぼ彼らが陸海軍からの受注を目指して競っていた。ここで、中島の小山以外は皆、東大。しかも、土井と堀越は同期。さらには、木村秀政という周回飛行での長距離世界記録を作った航研長距離機を開発した人も彼等の同期に居た。糸川は戦後日本のロケットの父だが、堀越等の後輩にあたる。まさに開発途上の、産、官(軍)、学(航研)による研究・開発、人材育成の代表的成功例である。
これで航空工学というか、機体設計に関しては、日本は一挙に世界の最先端に躍り出たのだが、他分野の工学・技術がそれに見合わなかったのが、機体設計者を一様に悩ませた。その代表例が エンジン開発で、零戦は非力なエンジンのため徹底した軽量化が必要で、機体強度不足や防護不足となり、大戦後期には性能を向上させてきた敵に対しそれが決定的致命的弱点となり、第一線を退く。そして、ついには征きて帰りし者なき特攻機として多用されてしまう。
戦前の雰囲気が未だ色濃く残っていた幼い頃を知っている者として、この映画からは、その時代の雰囲気を噛みしめなおすような気分が持てる。例えば、ここに登場する人々には、子供たちも含めて皆 どこか凛としたものを持っている。現代日本人に一般的に見られる甘えのようなものはなく、自己責任の意識は高い。そのあたりのことを宮崎監督は 菜穂子の声優・瀧本美織さんに“昔の人は生き方が潔いのだよ。必死に生きようともがく感じではなく、与えられた時間を精いっぱい生きている、そんなイメージで演じて欲しい。”と指示したと、この映画のホーム・ページには紹介されている。
そう言えば、二郎の声・庵野秀明氏も耳障りではなく、確かに良かった。宮崎監督は、誠実な人の声と強調していたが、飾らない明晰な頭脳を持った人に特徴的な声である。堀越二郎は、常に論理的であり多弁ではなかった、という。
この映画では、イタリアの飛行機設計家ジャンニ・カプローニが要所で登場し、まるでジブリ・ワールドそのもののような飛行機を多数登場させるが、それらは全て実際にカプローニが設計した飛行機であるというのは、大変な驚きであった。映画に、9枚主翼の飛行艇の発進場面があるが、それにはCa-60としての実際の写真があり、試験飛行での発進離水には失敗して終わったというのも歴史的事実らしい。
この映画では、あたかも堀越二郎はカプローニを少年の頃から尊敬していたかのようだが、堀越自身は その著書“零戦”の前書で、ヘリコプターの開発者イゴール・シコルスキーを尊敬する人物として その言葉を紹介しているがカプローニの名は無い。堀越の視野にはカプローニは大きくは入っていないのではないかと思われる。
要するに、カプローニはジブリ・ワールドにふさわしいイメージを補強するために、宮崎監督の趣味的創作で登場させたものと思われる。一方、監督は日経新聞のインタビューで、作家・堀田善衛が引用した旧約聖書の言葉を紹介している。つまり“凡(すべ)て汝(なんじ)の手に堪(たふ)ることは力をつくしてこれを為せ”に感動し、架空のカップローニをして主人公の二郎に度々“力を尽くしているかね?”という言葉をかけさせて、ストーリー上の縦糸“生きよ”の補強としている。
吉村昭の小説“零式戦闘機”では、当時最新鋭の試作機が 工場から飛行場に牛車で運ばれているところから始まったと覚えているが、この映画にも そのシーンがある。吉村も宮崎監督も それによって当時の日本の“おかしさ”、アンバランスな社会を描きたかったと言っている。国民の貧困をよそに、兵器開発に国富をついやした昭和前半の途上国の“おかしさ”である。
避暑地のホテル(多分軽井沢)で、なぜかゾルゲ風のスパイ・カストルプが 登場するのだが、ストーリー中でのその存在意義というか、必然性が理解し難い。映画では、彼との接触により二郎は警察(恐らく特高)に追われることになるが、会社は二郎を全力を挙げて守る。そんな中で、二郎と菜穂子の関係は深まる。
しかし、この避暑地での静養などということは、当時のサラリーマン(月給取り)にとっては考えられないことだろう。特に、戦前は、否現在も そうだが、周囲の人々に、或いは現場の労働者や、前線の兵士に申し訳ないという発想が先立ち、いかなる事情があったとしても、まとまった休暇を得るということはなかった、まして避暑地のホテルへ滞在はありえないのが現実であったろう。だが、それでは、この映画は成立しない。二郎と菜穂子の結ばれる場面設定がなくなるからだ。良く見れば、そんな不自然さが 多少あるが、それはジブリ・ワールドの雰囲気に隠れてしまっている。
映画では、世の趨勢を知り尽くしているカストルプは戦争への不吉な予感の言葉を残して避暑地を去って行く。
そして、やはり その行きつく先が悲劇であったのは、誰もが知る歴史の事実である。アニメなので、震災も戦災もおぞましい場面に生なリアルさがなく ある種の恐怖感を呼び起こすだけの画像で、不快感はなく、上手く処理している。
そして、この映画の題名にあるように、常に“風”がきっかけとなって物語は展開する。飛行機もまた風に乗って飛び立つ。その飛行機は、主人公・二郎にとっては“美しい夢”であった。ファースト・シーンは、二郎の実家の屋根から鳥のような飛行機であたりを飛び回るところからスタートする。子供の頃、誰もが一度は夢に見る空飛ぶ情景ではないか。
宮崎監督は、“自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである。夢は狂気をはらむ、その毒もかくしてはならない。美しすぎるものへの憬れは、人生の罠でもある。美に傾く代償は少くない。二郎はズタズタにひきさかれ、挫折し、設計者人生をたちきられる。それにもかかわらず、二郎は独創性と才能においてもっとも抜きんでていた人間である。それを描こうというのである。”と言っている。しかし、その夢の狂気、毒はやはり生な形では見せなかったのには品の良さを感じる。
映画に登場する人々は不況や震災の中を、生き延び、さらには夢を追い努力して実現させたが、それが敗戦の悲劇として終わる。しかし、二郎が少年時代に見た明るい夢の草原で、亡くなった菜穂子の声“あなた・・・生きて・・・”が聞こえてきて、この映画は終わる。
しかし、現在の日本も 不況や震災の中を、何とか生き延び努力しようとしてはいるが、夢は無く、さらなる悲劇で終わろうとしているのだろうか。映画を見終わって、何故かは知らぬが、脱力感というか無力感に襲われるが、同時にホッとしたような不思議な気分になる。
この映画の感想として、ネット上で誰かが、“淡々と話しが進みます。監督のメッセージが何だったのか、わたしは判りませんでした。ただ観終わった後、心がふんわりしました。観てよかったかなと思いました。”と言っているが、全く同感である。
それは、どこか堀辰雄の小説“風立ちぬ”を読み終わった時の気分に共通するものを感じる。それが、何なのかは はっきりとは 分からない。“生き尽くす”こと、それが、人生というものだからかも知れない。
しかし、映画の主人公・二郎は小説の主人公より、もっと深い痛手を負っている。小説は戦前で完結しており、その主人公は敗戦という悲惨を知らずに済んでいる。だから、最後に“小屋の明かり”という生きる手懸りを見つけて終わる。しかし、二郎は破壊されつくした敗戦を体験した。恋人を失った上に、戦後は米国によって設計者人生も断たれた。
“歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。”という言葉がある。今、下り坂の日本は、戦前と同じく不況と震災を経て、二度目のドラマを演じようとしている。国民は“決められない”政治に業を煮やしている。この中で今の日本の政治家は 何故か意図的に戦前回帰を目指している。彼らは歴史をどう理解しているのだろうか。政権中枢の政治家が歴史的事実を誤認するような低レベルの認識ではお寒い。果たして、その二の舞はどのようにして、又どのような喜劇となるのであろうか。悲惨な喜劇もあるのだろうか。
宮崎監督の“わかりにくい”と言っていたのは、確かに、こういう意味だったのだろうか。
なので映画を見終わって感じた気分を もう一度 言葉によって、すなわち理性によって揺り動かして、噛みしめ直してみる作業が 必要だと思った。そうしないと、感じたことが 意識の表面に明確なメッセージとして浮かび上がらず、そのまま潜在意識の底なし沼の中へ、果てしなく沈降してしまい、せっかくの映画の作品価値を減じかねないと思った。そういう意味で、未だ結論が得られることがないにしても、このように文字化して もう一度感じ直すことは、私には有意義な作業だったと思っている。それにしても、このところ私の脳内は この“風立ちぬ”で一杯・・・・。
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宮崎駿監督が、テレビで“わかりにくい内容かも知れない”と言っていたので、どういう展開になるのか楽しみにして行ったのだが、全体のトーンというか特に後半は、堀辰雄の“風立ちぬ”である。小説中のポール・ヴァレリーの詩の一節とされる“風立ちぬ、いざ生きめやも”の“生きよ”から“生きねば”がこの映画のテーマとなっている。
肝心の零戦の開発は、メイン・ストーリーではなく、その前の96艦戦(96式艦上戦闘機;正確にはその原型となる試作機9試単座戦闘機)の開発が終わった時点で、恋人・菜穂子の命が尽きて 映画のメイン・ストーリーも ほぼそこで終わっている。だから、映画の本筋も、そこで終わっていると見て良いのかもしれない。
日本の最高傑作機・零戦は、この映画では最終シーンのみに雄姿を見せる。“征(ゆ)きて帰りし者なし。飛行機は、美しくも呪われた夢だ。”との台詞と共に飛び去って行く。映画PRのためには人気の高い零戦を前面に出すのは当然のことなのかも知れない。
96艦戦については、子供の頃 1/150の安価なプラモデル・シリーズに夢中になっていた時に初めてその存在を知った戦闘機で、その主翼が特徴的に優美で 当時から好きだった。その曲線こそは、映画にでて来た“鯖の骨”であろうか。96艦戦は、日本初の低翼単葉全金属戦闘機であった。また空中戦性能が抜群に優秀であり過ぎたため、海軍のパイロットが個別の格闘戦技能にこだわってしまい、その後の戦闘機の開発でいわゆる“軽戦”優先、“重戦”軽視に固執し、さらにそのDNAを引き継いだ零戦が重用され過ぎてしまった。大戦後期では世界の趨勢が“重戦”つまりパワフルなエンジンで高速で飛行し、重火器を使用して一撃離脱しつつ編隊のチーム・ワークで敵を殲滅するという戦術に変わって行ったので、日本、特に海軍の戦術運用が時代遅れになるという影響を与えた。このように96艦戦は開発当時の名機であり、零戦と親子関係にあり、これらの飛行機には 精強さと共にある優美さが神秘性を醸しているのだろう。
96艦戦は、陸軍にも影響を与え、その直後に登場する97式戦闘機や 後継の隼・一式戦闘機が格闘戦に優れた“軽戦”とされている。しかし、陸軍は その後次第に、四式戦闘機・疾風等に見られる“重戦”へと傾斜して行った。
戦前、戦闘機開発には有力な3つのグループがあった。中島飛行機と三菱内燃機、それから川崎造船所である。中島には小山悌、糸川英夫、川崎には土井武夫、そして三菱には堀越二郎。ほぼ彼らが陸海軍からの受注を目指して競っていた。ここで、中島の小山以外は皆、東大。しかも、土井と堀越は同期。さらには、木村秀政という周回飛行での長距離世界記録を作った航研長距離機を開発した人も彼等の同期に居た。糸川は戦後日本のロケットの父だが、堀越等の後輩にあたる。まさに開発途上の、産、官(軍)、学(航研)による研究・開発、人材育成の代表的成功例である。
これで航空工学というか、機体設計に関しては、日本は一挙に世界の最先端に躍り出たのだが、他分野の工学・技術がそれに見合わなかったのが、機体設計者を一様に悩ませた。その代表例が エンジン開発で、零戦は非力なエンジンのため徹底した軽量化が必要で、機体強度不足や防護不足となり、大戦後期には性能を向上させてきた敵に対しそれが決定的致命的弱点となり、第一線を退く。そして、ついには征きて帰りし者なき特攻機として多用されてしまう。
戦前の雰囲気が未だ色濃く残っていた幼い頃を知っている者として、この映画からは、その時代の雰囲気を噛みしめなおすような気分が持てる。例えば、ここに登場する人々には、子供たちも含めて皆 どこか凛としたものを持っている。現代日本人に一般的に見られる甘えのようなものはなく、自己責任の意識は高い。そのあたりのことを宮崎監督は 菜穂子の声優・瀧本美織さんに“昔の人は生き方が潔いのだよ。必死に生きようともがく感じではなく、与えられた時間を精いっぱい生きている、そんなイメージで演じて欲しい。”と指示したと、この映画のホーム・ページには紹介されている。
そう言えば、二郎の声・庵野秀明氏も耳障りではなく、確かに良かった。宮崎監督は、誠実な人の声と強調していたが、飾らない明晰な頭脳を持った人に特徴的な声である。堀越二郎は、常に論理的であり多弁ではなかった、という。
この映画では、イタリアの飛行機設計家ジャンニ・カプローニが要所で登場し、まるでジブリ・ワールドそのもののような飛行機を多数登場させるが、それらは全て実際にカプローニが設計した飛行機であるというのは、大変な驚きであった。映画に、9枚主翼の飛行艇の発進場面があるが、それにはCa-60としての実際の写真があり、試験飛行での発進離水には失敗して終わったというのも歴史的事実らしい。
この映画では、あたかも堀越二郎はカプローニを少年の頃から尊敬していたかのようだが、堀越自身は その著書“零戦”の前書で、ヘリコプターの開発者イゴール・シコルスキーを尊敬する人物として その言葉を紹介しているがカプローニの名は無い。堀越の視野にはカプローニは大きくは入っていないのではないかと思われる。
要するに、カプローニはジブリ・ワールドにふさわしいイメージを補強するために、宮崎監督の趣味的創作で登場させたものと思われる。一方、監督は日経新聞のインタビューで、作家・堀田善衛が引用した旧約聖書の言葉を紹介している。つまり“凡(すべ)て汝(なんじ)の手に堪(たふ)ることは力をつくしてこれを為せ”に感動し、架空のカップローニをして主人公の二郎に度々“力を尽くしているかね?”という言葉をかけさせて、ストーリー上の縦糸“生きよ”の補強としている。
吉村昭の小説“零式戦闘機”では、当時最新鋭の試作機が 工場から飛行場に牛車で運ばれているところから始まったと覚えているが、この映画にも そのシーンがある。吉村も宮崎監督も それによって当時の日本の“おかしさ”、アンバランスな社会を描きたかったと言っている。国民の貧困をよそに、兵器開発に国富をついやした昭和前半の途上国の“おかしさ”である。
避暑地のホテル(多分軽井沢)で、なぜかゾルゲ風のスパイ・カストルプが 登場するのだが、ストーリー中でのその存在意義というか、必然性が理解し難い。映画では、彼との接触により二郎は警察(恐らく特高)に追われることになるが、会社は二郎を全力を挙げて守る。そんな中で、二郎と菜穂子の関係は深まる。
しかし、この避暑地での静養などということは、当時のサラリーマン(月給取り)にとっては考えられないことだろう。特に、戦前は、否現在も そうだが、周囲の人々に、或いは現場の労働者や、前線の兵士に申し訳ないという発想が先立ち、いかなる事情があったとしても、まとまった休暇を得るということはなかった、まして避暑地のホテルへ滞在はありえないのが現実であったろう。だが、それでは、この映画は成立しない。二郎と菜穂子の結ばれる場面設定がなくなるからだ。良く見れば、そんな不自然さが 多少あるが、それはジブリ・ワールドの雰囲気に隠れてしまっている。
映画では、世の趨勢を知り尽くしているカストルプは戦争への不吉な予感の言葉を残して避暑地を去って行く。
そして、やはり その行きつく先が悲劇であったのは、誰もが知る歴史の事実である。アニメなので、震災も戦災もおぞましい場面に生なリアルさがなく ある種の恐怖感を呼び起こすだけの画像で、不快感はなく、上手く処理している。
そして、この映画の題名にあるように、常に“風”がきっかけとなって物語は展開する。飛行機もまた風に乗って飛び立つ。その飛行機は、主人公・二郎にとっては“美しい夢”であった。ファースト・シーンは、二郎の実家の屋根から鳥のような飛行機であたりを飛び回るところからスタートする。子供の頃、誰もが一度は夢に見る空飛ぶ情景ではないか。
宮崎監督は、“自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである。夢は狂気をはらむ、その毒もかくしてはならない。美しすぎるものへの憬れは、人生の罠でもある。美に傾く代償は少くない。二郎はズタズタにひきさかれ、挫折し、設計者人生をたちきられる。それにもかかわらず、二郎は独創性と才能においてもっとも抜きんでていた人間である。それを描こうというのである。”と言っている。しかし、その夢の狂気、毒はやはり生な形では見せなかったのには品の良さを感じる。
映画に登場する人々は不況や震災の中を、生き延び、さらには夢を追い努力して実現させたが、それが敗戦の悲劇として終わる。しかし、二郎が少年時代に見た明るい夢の草原で、亡くなった菜穂子の声“あなた・・・生きて・・・”が聞こえてきて、この映画は終わる。
しかし、現在の日本も 不況や震災の中を、何とか生き延び努力しようとしてはいるが、夢は無く、さらなる悲劇で終わろうとしているのだろうか。映画を見終わって、何故かは知らぬが、脱力感というか無力感に襲われるが、同時にホッとしたような不思議な気分になる。
この映画の感想として、ネット上で誰かが、“淡々と話しが進みます。監督のメッセージが何だったのか、わたしは判りませんでした。ただ観終わった後、心がふんわりしました。観てよかったかなと思いました。”と言っているが、全く同感である。
それは、どこか堀辰雄の小説“風立ちぬ”を読み終わった時の気分に共通するものを感じる。それが、何なのかは はっきりとは 分からない。“生き尽くす”こと、それが、人生というものだからかも知れない。
しかし、映画の主人公・二郎は小説の主人公より、もっと深い痛手を負っている。小説は戦前で完結しており、その主人公は敗戦という悲惨を知らずに済んでいる。だから、最後に“小屋の明かり”という生きる手懸りを見つけて終わる。しかし、二郎は破壊されつくした敗戦を体験した。恋人を失った上に、戦後は米国によって設計者人生も断たれた。
“歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。”という言葉がある。今、下り坂の日本は、戦前と同じく不況と震災を経て、二度目のドラマを演じようとしている。国民は“決められない”政治に業を煮やしている。この中で今の日本の政治家は 何故か意図的に戦前回帰を目指している。彼らは歴史をどう理解しているのだろうか。政権中枢の政治家が歴史的事実を誤認するような低レベルの認識ではお寒い。果たして、その二の舞はどのようにして、又どのような喜劇となるのであろうか。悲惨な喜劇もあるのだろうか。
宮崎監督の“わかりにくい”と言っていたのは、確かに、こういう意味だったのだろうか。
なので映画を見終わって感じた気分を もう一度 言葉によって、すなわち理性によって揺り動かして、噛みしめ直してみる作業が 必要だと思った。そうしないと、感じたことが 意識の表面に明確なメッセージとして浮かび上がらず、そのまま潜在意識の底なし沼の中へ、果てしなく沈降してしまい、せっかくの映画の作品価値を減じかねないと思った。そういう意味で、未だ結論が得られることがないにしても、このように文字化して もう一度感じ直すことは、私には有意義な作業だったと思っている。それにしても、このところ私の脳内は この“風立ちぬ”で一杯・・・・。
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