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宮城谷昌光著“侠骨記”を読んで
気分転換には、いつも古代中国をテーマにした宮城谷昌光の小説は心地よいような気がする。時には勇気づけられるような気もするのだ。というような次第で、先週報告した福島の旅の友にはこの本を選んだ。
しかし、宮城谷氏のこうした小説はこれまでもいくつか読んだが、その直後にいい気分にはなるが、残念ながらその内容をいつまでも覚えていることができない。いつも そういった感覚を呼び覚ますために、新たに別の人物をテーマにしたのを探し廻って読むことを繰り返している。同氏の小説で最初に読んだのは“楽毅”だったと思う。楽毅は史記列伝にごくわずかに記載された古代の将軍だが、宮城谷氏は文庫本4冊分の大作に仕上げたと言う。同氏の驚くほどのイマジネーションに感嘆したものだった。それ以来、同氏の小説を読むようになった。
今回の“侠骨記”は、講談社の文庫本の標題にもなっている小説で、その中には“布衣の人”、“甘棠の人”、“買われた宰相”が収録されている短編集なので、旅の友にはふさわしいと思ったのだ。
“侠骨記”の舞台となった現在の中国山東省南部にあった魯の国は、後に孔子を生んだ程の周王朝以来の礼制を遵守するような上下秩序を重んじる由緒伝統のあるところだが、軍事的には弱小で斉等の隣国に常に脅かされていた。ちなみに、この国が何故“魯鈍”に表される“おろか”という意味のある魯と呼ぶようになったのかは、この小説でも説明されていない。孔子の出身地と知った時からの不思議な気持ちだが、未だに明らかに知ることはない。
主人公はこの魯の国の防衛を任された将軍・曹劌である。この曹劌が将軍に就任して以来、魯は戦に簡単に負けなくなった。それでも、やはり魯は名相管仲の治める斉の前に劣勢が続くようになり強迫を受けるようになったが、やがて斉から盟約の誘いが来た。曹劌はその斉との盟約の場に匕首を持って臨み、実際に斉の君主にそれを用い、領地の返還を約束させた。これを歴史上“柯の盟約”と呼ぶようだが、斉の管仲はこれを逆用して今まで得られなかった諸侯の斉への信を得る道具とし成功した、というエピソードの概要である。
文庫本解説(桜美林大学教授・山崎純一氏)では、曹劌は“史記”では刺客列伝の巻頭を飾っていると紹介している。だがこの小説では曹劌は人を殺傷してはいない。そんな浅薄な行動をとった人物ではない。
相手の弱点を読み、先の先を慎重に図り、管仲の思考まで読み切った上での曹劌の大胆でギリギリの行動。これを宮城谷氏は“侠骨の試練”と表現している。これによって初めて“侠骨記”の意味が知れるのである。
ところでこの“侠骨”とはどういう意味であろうか。手許の漢和辞典・藤堂明保編・学研漢和大字典によれば、“侠”について、その語源の解説から始め、“夾は両脇に子分をかかえ、両側から守られて大の字型にたつ親分を示す会意文字。俠は「人+音符・夾キョウ」の会意兼形声文字で、夾の後出文字。峽(=峡。山の間に挟まれた谷)-挾(両側からはさむ)-頰(両側から鼻をはさむほお)と同系のことば。また、協とも縁が近い。侠は俠の異体文字。”と書いている。また、“骨”は“人がら。品格。”とあり、“侠骨”は、“男気のある性格。”となるようだ。
あの大胆な行動が男気と言うものなのだろうか。
“侠”と言えば“任侠”や“侠客”という言葉を思い浮かべる。“侠客”の意味は容易に想像がつくが、“任侠”はどうか。あの漢和辞典によれば、“強い者をくじき弱いものを助ける気性が強いこと。”とある。何故そうなるのか、“任”を調べてみた。すると、“壬ジンは、腹(中央)のふくれた糸巻の軸、または、妊娠して腹のふくれた女性の姿を示す。妊娠の妊の原字。任は「人+音符・壬ジン」の会意兼形声文字で、腹の前に重荷をかかえこむこと。転じて、かかえこんだ責任や仕事の意となる。”とあった。つまり、“任侠”とは“「侠」をかかえこむこと”或いは、“そのような人”となるのであろう。
結局のところ、“与えられた仕事を責任を持って果たす人”のことであろうか。やはり仕事には先を読む作業が必要なのである。特に、相手のある仕事ではその特性、特に弱点を知るとこが重要であり、それを材料にしてどのようにシナリオを描き、実行するか、それが“侠骨”となるのであろうか。ヤクザ映画の世界とはいささか異なるのが本義のように思える。
しかしタネを明かせば、文庫本の解説に“侠骨”について、“「わが身を惜しまず、人の難儀を救いに駆けつけ、生死の境を渡っても、才能を自慢せず、ほどこした恩を誇るのを恥とする者」の気骨・人格をいう”としている。これで、ようやく言葉のイメージがつながったような気がするが、これは唐の詩人・王維の詩の解釈から来ているようだ。漢字の世界は長い歴史によっても形作られていて極めて奥が深い。
この文庫本解説によれば、“俊の名で第二話『布衣の人』の主人公として登場する虞舜にいたっては、刃傷や闘争とは全く無縁の、頑固だが温厚・実直そのものの仁人なのである。…任侠の徒の勇壮な侠骨よりも、宮城谷さんが心魅かれるのは、仁人の侠骨なのである。”とこの短編集を評している。
この第二話“布衣の人”の主人公は俊となっているが、実は儒家が聖人とする三皇五帝の舜帝その人の話である。俊は飢えから逃れるために、予言者のような旅人の言を信じて西北の肥沃の地を家族を連れて旅立つのである。しかし、身体障害者の父、意地悪の母、腹違いの怠惰な弟の家族は唯一の働き手の俊を迫害する。しかし俊はこれを恨むこともなく、わが身の不徳を責め、家族の迫害者が居なくなるとさびしがると言う仁人。
やがて、俊は旅先で住民から君主に奉られるが、その住民をその故郷に導き開墾し隆盛を得て、尭帝に認められる。
文庫本解説は、“読者はそこに漂う「他人の救済と自己の理想の貫徹の犠牲」に生きる沈着な仁人の「侠骨の香」を馥郁と聞(か)がされることであろう”とも言っている。
“甘棠(かんとう)の人”は、周王朝開闢の功労者・召公奭(せき)の話。小説では釣りで有名な古代人・太公望呂尚があたかも主人公のように描かれているが、本当は奭の颯爽とした姿と決断にテーマがあるようだ。
太公望は、ネットによれば“周に仕える以前は殷(小説では商)の紂王に仕えるも紂王は無道であるため、立ち去り諸侯を説いて遊説したが認められることがなく、最後は西方の周の文王のもとに身を寄せたと伝わる。周の軍師として文王の子武王を補佐し、殷の諸侯である方の進攻を防いだ。殷王紂を牧野の戦いで打ち破り、軍功によって営丘(現在の山東省淄博市臨淄区)を中心とする斉の地に封ぜられた”とある。
この紂王の悪行の結果としての“はしたなく過度な奢侈的生活を過ごす(要するに贅沢三昧な生活をする)ことを意味”する“酒池肉林”という言葉は有名である。また、人材を得ようとしていた周の文王が狩猟に出た時、落魄して渭水で釣りをしていた呂尚に出会ったのが太公望の周に仕えるきっかけであり、今も釣りを趣味にする人を太公望という起源である。
その太公望は暴政を極める紂王に対し、周・召・羌連合で対抗し滅ぼそうと夢想した。これが小説の背景である。殷は中原に在り、周は西方に在り、召はその周の西方に在る。羌はさらにその西または北に居る。召は奭の国、太公望は羌族出身である。
望が召公と会った時は奭は未だ公子であった。だがこの連合軍が形成されるには奭が召公になっても、望の夢想は周の利益にしかならないし、主上を伐つのは私欲の悪逆ではないかという奭の疑いが解けるまで時間がかかった。しかし、周の正式の使者となった望は針のない釣竿を持って、再三奭の下にやって来た。ある時何故かと奭は問い、望は女性を釣ると言った。それも二人だとシャァシャァと言う。昔からオカヅリというのがあるのが可笑しい。確か歌舞伎にもそれをテーマにした出し物があったはずだ。否、女人というのは姫姓の周と姞姓の召のことと奭は了解し、望の提案を受け入れた。しかしそこには召は周と天下を2分する条件が入っていた。だが周の文王が薨じて、召の要求は受け入れられようやく連合軍を形成し牧野にて殷を滅亡させる。
ところがその後、周王室に内紛が生じ、内乱となった。一方、召の西方でも反乱が起きた。周王朝成立時の武王発への恩義を感じていた奭は、発の妃・王姜の要請に応じて召を捨て東方へ出師する。この決断が“侠骨”である。東方の乱は鎮撫され、周室より奭は新たに封地を賜る。そして、奭は望と共に周王誦の親政を支えた。
甘棠とは、ヒメカイドウという樹木の名のようだ。(ヤマナシ、あるいは小リンゴの類の木という向きもあるが、これらが同じなのか違うのかすら私には分からない)小説によると奭は争訟があるとこの甘棠の木の下で裁き、その“公平さに庶民は喜ばぬ者はなかった”という。“のちに棠陰というと、すぐれた裁判のことを指す”ようになったという。
“買われた宰相”は、七十余歳にして西の果ての秦における大夫となり、九十余歳にして宰相となったという百里奚(ひゃくりけい)の話。
百里奚は若き日、天下への出世を目指して全国を放浪。斉で貴公子の蹇叔(けんしゅく)と知遇を得て生涯の友となり、蹇叔も百里奚とともに旅に出る。これはこの二人の物語だが、齢を重ねても一向に仕官できない。中には、先の見通しのきく蹇叔に妨害されたこともあったが、それはその仕官先がその直後に亡びてしまうような道であった。ついに百里奚は蹇叔の言を入れずに虞に仕官し、蹇叔と袂を分かつが、これも虞が亡びて奴隷に身を落とすこことなる。そんな彼を秦の繆公が見出し、5匹分の羊の毛皮で買われたため五羖大夫と呼ばれるようになった。やがて百里奚は蹇叔の登用を穆公に薦め、繆公は蹇叔を招聘し上大夫とした。二人は共に秦の隆盛の基礎を築いたという話である。
百里奚は徹底した寛恕による治政を行い、周辺諸国も慰撫した。これにより周辺の諸国が秦に服属し、百里奚は文字通り千里(1国=百里、10国=千里)を拓き、秦を大いに勃興させた、という。文庫本解説は“青春の日より七十余歳の老齢までつづいた艱難の生活の中における二人の心の葛藤、彼らが直面した春秋の混迷の世相”の中の二人に“侠骨”を見るべきであろうと評している。
この話は、文庫本解説によれば“史記・秦本紀に見えるが、司馬遷の史筆は簡潔にすぎる。”という。これを例によって宮城谷氏は“春秋左氏伝・隠公十一年の記述から引き出し”て物語に仕立て上げたのだという。同氏のイマジネーション力と古代中国史への該博には改めて感嘆させられる。
それにしても古代における七十を超える老齢とはいかなるものであろうか。人生の不思議さをこうした逸話にも認めることができる。
古代中国の様々な争い、その中で英雄たちはそれぞれに情報を集め、知恵をギリギリに絞り、先の先を読み、論理を積み上げて高い可能性を見出し、それに賭けた。現代日本でここまで政策や戦略の可能性を追い込み、シナリオを構成し、命を懸けて実行する政治家がどれだけ居るであろうか。そのような事を考える時、世界は古代中国よりも当然はるかに複雑になっている。果たして日本の政治家はそれに付いて行けているのだろうか。世界情勢複雑怪奇と言って責任を投げ出す政治家がまた現われることはあるまいか。
プーチンが東ウクライナ紛争で、核兵器の使用を考慮したとの言葉に驚き、騒ぐようでは幼稚で都合の良い思い込みしかしていない証拠ではないだろうか。或いは 中国の提唱するアジア・インフラ投資銀行の発足に、欧州諸国の参加が読み切れずオタオタし、オバマ大統領がキューバ首脳と会談したと聞いたら途端に、日本の外相はキューバを訪問するという、これが先を読んだ外交と言えるのだろうか。
アタフタばかりで、世界の信頼は得られるのであろうか。integrityとはそんな軽々しいものではあるまい。
しかし、宮城谷氏のこうした小説はこれまでもいくつか読んだが、その直後にいい気分にはなるが、残念ながらその内容をいつまでも覚えていることができない。いつも そういった感覚を呼び覚ますために、新たに別の人物をテーマにしたのを探し廻って読むことを繰り返している。同氏の小説で最初に読んだのは“楽毅”だったと思う。楽毅は史記列伝にごくわずかに記載された古代の将軍だが、宮城谷氏は文庫本4冊分の大作に仕上げたと言う。同氏の驚くほどのイマジネーションに感嘆したものだった。それ以来、同氏の小説を読むようになった。
今回の“侠骨記”は、講談社の文庫本の標題にもなっている小説で、その中には“布衣の人”、“甘棠の人”、“買われた宰相”が収録されている短編集なので、旅の友にはふさわしいと思ったのだ。
“侠骨記”の舞台となった現在の中国山東省南部にあった魯の国は、後に孔子を生んだ程の周王朝以来の礼制を遵守するような上下秩序を重んじる由緒伝統のあるところだが、軍事的には弱小で斉等の隣国に常に脅かされていた。ちなみに、この国が何故“魯鈍”に表される“おろか”という意味のある魯と呼ぶようになったのかは、この小説でも説明されていない。孔子の出身地と知った時からの不思議な気持ちだが、未だに明らかに知ることはない。
主人公はこの魯の国の防衛を任された将軍・曹劌である。この曹劌が将軍に就任して以来、魯は戦に簡単に負けなくなった。それでも、やはり魯は名相管仲の治める斉の前に劣勢が続くようになり強迫を受けるようになったが、やがて斉から盟約の誘いが来た。曹劌はその斉との盟約の場に匕首を持って臨み、実際に斉の君主にそれを用い、領地の返還を約束させた。これを歴史上“柯の盟約”と呼ぶようだが、斉の管仲はこれを逆用して今まで得られなかった諸侯の斉への信を得る道具とし成功した、というエピソードの概要である。
文庫本解説(桜美林大学教授・山崎純一氏)では、曹劌は“史記”では刺客列伝の巻頭を飾っていると紹介している。だがこの小説では曹劌は人を殺傷してはいない。そんな浅薄な行動をとった人物ではない。
相手の弱点を読み、先の先を慎重に図り、管仲の思考まで読み切った上での曹劌の大胆でギリギリの行動。これを宮城谷氏は“侠骨の試練”と表現している。これによって初めて“侠骨記”の意味が知れるのである。
ところでこの“侠骨”とはどういう意味であろうか。手許の漢和辞典・藤堂明保編・学研漢和大字典によれば、“侠”について、その語源の解説から始め、“夾は両脇に子分をかかえ、両側から守られて大の字型にたつ親分を示す会意文字。俠は「人+音符・夾キョウ」の会意兼形声文字で、夾の後出文字。峽(=峡。山の間に挟まれた谷)-挾(両側からはさむ)-頰(両側から鼻をはさむほお)と同系のことば。また、協とも縁が近い。侠は俠の異体文字。”と書いている。また、“骨”は“人がら。品格。”とあり、“侠骨”は、“男気のある性格。”となるようだ。
あの大胆な行動が男気と言うものなのだろうか。
“侠”と言えば“任侠”や“侠客”という言葉を思い浮かべる。“侠客”の意味は容易に想像がつくが、“任侠”はどうか。あの漢和辞典によれば、“強い者をくじき弱いものを助ける気性が強いこと。”とある。何故そうなるのか、“任”を調べてみた。すると、“壬ジンは、腹(中央)のふくれた糸巻の軸、または、妊娠して腹のふくれた女性の姿を示す。妊娠の妊の原字。任は「人+音符・壬ジン」の会意兼形声文字で、腹の前に重荷をかかえこむこと。転じて、かかえこんだ責任や仕事の意となる。”とあった。つまり、“任侠”とは“「侠」をかかえこむこと”或いは、“そのような人”となるのであろう。
結局のところ、“与えられた仕事を責任を持って果たす人”のことであろうか。やはり仕事には先を読む作業が必要なのである。特に、相手のある仕事ではその特性、特に弱点を知るとこが重要であり、それを材料にしてどのようにシナリオを描き、実行するか、それが“侠骨”となるのであろうか。ヤクザ映画の世界とはいささか異なるのが本義のように思える。
しかしタネを明かせば、文庫本の解説に“侠骨”について、“「わが身を惜しまず、人の難儀を救いに駆けつけ、生死の境を渡っても、才能を自慢せず、ほどこした恩を誇るのを恥とする者」の気骨・人格をいう”としている。これで、ようやく言葉のイメージがつながったような気がするが、これは唐の詩人・王維の詩の解釈から来ているようだ。漢字の世界は長い歴史によっても形作られていて極めて奥が深い。
この文庫本解説によれば、“俊の名で第二話『布衣の人』の主人公として登場する虞舜にいたっては、刃傷や闘争とは全く無縁の、頑固だが温厚・実直そのものの仁人なのである。…任侠の徒の勇壮な侠骨よりも、宮城谷さんが心魅かれるのは、仁人の侠骨なのである。”とこの短編集を評している。
この第二話“布衣の人”の主人公は俊となっているが、実は儒家が聖人とする三皇五帝の舜帝その人の話である。俊は飢えから逃れるために、予言者のような旅人の言を信じて西北の肥沃の地を家族を連れて旅立つのである。しかし、身体障害者の父、意地悪の母、腹違いの怠惰な弟の家族は唯一の働き手の俊を迫害する。しかし俊はこれを恨むこともなく、わが身の不徳を責め、家族の迫害者が居なくなるとさびしがると言う仁人。
やがて、俊は旅先で住民から君主に奉られるが、その住民をその故郷に導き開墾し隆盛を得て、尭帝に認められる。
文庫本解説は、“読者はそこに漂う「他人の救済と自己の理想の貫徹の犠牲」に生きる沈着な仁人の「侠骨の香」を馥郁と聞(か)がされることであろう”とも言っている。
“甘棠(かんとう)の人”は、周王朝開闢の功労者・召公奭(せき)の話。小説では釣りで有名な古代人・太公望呂尚があたかも主人公のように描かれているが、本当は奭の颯爽とした姿と決断にテーマがあるようだ。
太公望は、ネットによれば“周に仕える以前は殷(小説では商)の紂王に仕えるも紂王は無道であるため、立ち去り諸侯を説いて遊説したが認められることがなく、最後は西方の周の文王のもとに身を寄せたと伝わる。周の軍師として文王の子武王を補佐し、殷の諸侯である方の進攻を防いだ。殷王紂を牧野の戦いで打ち破り、軍功によって営丘(現在の山東省淄博市臨淄区)を中心とする斉の地に封ぜられた”とある。
この紂王の悪行の結果としての“はしたなく過度な奢侈的生活を過ごす(要するに贅沢三昧な生活をする)ことを意味”する“酒池肉林”という言葉は有名である。また、人材を得ようとしていた周の文王が狩猟に出た時、落魄して渭水で釣りをしていた呂尚に出会ったのが太公望の周に仕えるきっかけであり、今も釣りを趣味にする人を太公望という起源である。
その太公望は暴政を極める紂王に対し、周・召・羌連合で対抗し滅ぼそうと夢想した。これが小説の背景である。殷は中原に在り、周は西方に在り、召はその周の西方に在る。羌はさらにその西または北に居る。召は奭の国、太公望は羌族出身である。
望が召公と会った時は奭は未だ公子であった。だがこの連合軍が形成されるには奭が召公になっても、望の夢想は周の利益にしかならないし、主上を伐つのは私欲の悪逆ではないかという奭の疑いが解けるまで時間がかかった。しかし、周の正式の使者となった望は針のない釣竿を持って、再三奭の下にやって来た。ある時何故かと奭は問い、望は女性を釣ると言った。それも二人だとシャァシャァと言う。昔からオカヅリというのがあるのが可笑しい。確か歌舞伎にもそれをテーマにした出し物があったはずだ。否、女人というのは姫姓の周と姞姓の召のことと奭は了解し、望の提案を受け入れた。しかしそこには召は周と天下を2分する条件が入っていた。だが周の文王が薨じて、召の要求は受け入れられようやく連合軍を形成し牧野にて殷を滅亡させる。
ところがその後、周王室に内紛が生じ、内乱となった。一方、召の西方でも反乱が起きた。周王朝成立時の武王発への恩義を感じていた奭は、発の妃・王姜の要請に応じて召を捨て東方へ出師する。この決断が“侠骨”である。東方の乱は鎮撫され、周室より奭は新たに封地を賜る。そして、奭は望と共に周王誦の親政を支えた。
甘棠とは、ヒメカイドウという樹木の名のようだ。(ヤマナシ、あるいは小リンゴの類の木という向きもあるが、これらが同じなのか違うのかすら私には分からない)小説によると奭は争訟があるとこの甘棠の木の下で裁き、その“公平さに庶民は喜ばぬ者はなかった”という。“のちに棠陰というと、すぐれた裁判のことを指す”ようになったという。
“買われた宰相”は、七十余歳にして西の果ての秦における大夫となり、九十余歳にして宰相となったという百里奚(ひゃくりけい)の話。
百里奚は若き日、天下への出世を目指して全国を放浪。斉で貴公子の蹇叔(けんしゅく)と知遇を得て生涯の友となり、蹇叔も百里奚とともに旅に出る。これはこの二人の物語だが、齢を重ねても一向に仕官できない。中には、先の見通しのきく蹇叔に妨害されたこともあったが、それはその仕官先がその直後に亡びてしまうような道であった。ついに百里奚は蹇叔の言を入れずに虞に仕官し、蹇叔と袂を分かつが、これも虞が亡びて奴隷に身を落とすこことなる。そんな彼を秦の繆公が見出し、5匹分の羊の毛皮で買われたため五羖大夫と呼ばれるようになった。やがて百里奚は蹇叔の登用を穆公に薦め、繆公は蹇叔を招聘し上大夫とした。二人は共に秦の隆盛の基礎を築いたという話である。
百里奚は徹底した寛恕による治政を行い、周辺諸国も慰撫した。これにより周辺の諸国が秦に服属し、百里奚は文字通り千里(1国=百里、10国=千里)を拓き、秦を大いに勃興させた、という。文庫本解説は“青春の日より七十余歳の老齢までつづいた艱難の生活の中における二人の心の葛藤、彼らが直面した春秋の混迷の世相”の中の二人に“侠骨”を見るべきであろうと評している。
この話は、文庫本解説によれば“史記・秦本紀に見えるが、司馬遷の史筆は簡潔にすぎる。”という。これを例によって宮城谷氏は“春秋左氏伝・隠公十一年の記述から引き出し”て物語に仕立て上げたのだという。同氏のイマジネーション力と古代中国史への該博には改めて感嘆させられる。
それにしても古代における七十を超える老齢とはいかなるものであろうか。人生の不思議さをこうした逸話にも認めることができる。
古代中国の様々な争い、その中で英雄たちはそれぞれに情報を集め、知恵をギリギリに絞り、先の先を読み、論理を積み上げて高い可能性を見出し、それに賭けた。現代日本でここまで政策や戦略の可能性を追い込み、シナリオを構成し、命を懸けて実行する政治家がどれだけ居るであろうか。そのような事を考える時、世界は古代中国よりも当然はるかに複雑になっている。果たして日本の政治家はそれに付いて行けているのだろうか。世界情勢複雑怪奇と言って責任を投げ出す政治家がまた現われることはあるまいか。
プーチンが東ウクライナ紛争で、核兵器の使用を考慮したとの言葉に驚き、騒ぐようでは幼稚で都合の良い思い込みしかしていない証拠ではないだろうか。或いは 中国の提唱するアジア・インフラ投資銀行の発足に、欧州諸国の参加が読み切れずオタオタし、オバマ大統領がキューバ首脳と会談したと聞いたら途端に、日本の外相はキューバを訪問するという、これが先を読んだ外交と言えるのだろうか。
アタフタばかりで、世界の信頼は得られるのであろうか。integrityとはそんな軽々しいものではあるまい。
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