The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
現代日本における近代市民社会の法意識について
先日、テレビ番組で “死刑存置” の是非を話題にしている中で、現在人気絶頂のH弁護士が “刑事裁判は何のためにあるか”と死刑廃止論者に興奮気味に 問いかけて、“被害者のためにある” と 絶叫していました。私は 必ずしも 死刑廃止論に与するものではありませんが、この発言には驚き 恐れ入ってしまいました。このような応報的考え方は素朴で理解し易いものではありますが、近代市民社会以降の考え方ではありません。前近代の応報的社会では 法はその存在意義を失います。従って 法曹資格者が応報的発想をするのはとんでもないことです。
H弁護士ご当人は 一般市民の感覚で裁判は行なわれるべきだと主張しています。それは正確には“市民”ではなくて“庶民”的感覚でしょう。近代市民社会の “法の原則”というか “法”というものについての基本的な精神が 無い人は正確には“市民”とは言えないのではないでしょうか。“こういう人”が 法曹資格を持ち、しかもマスコミは “こういう人”を ちやほやするというのは どういうことでしょうか。番組中では 大勢のコメンテーターが居ましたが、彼の発言に異議を差し挟む人は その死刑廃止論者1人だけでした。
日本社会に 近代市民社会の法の考え方が 浸透していないことの証左ではないでしょうか。
もし日本の法曹資格者が ほとんどこのような 近代市民社会の精神を持たない人々であるとすれば大問題ではないでしょうか。最近 全国に ロー・スクールが創設され、多くの法曹資格者を作ろうとしていますが、このような人々ばかり粗製濫造しようとしているのでしょうか。いわゆる訴訟テクニックだけに長け、その根底では前近代的思考しかできない人々ばかり育成して行こうとしているのでしょうか。それで 良いのでしょうか。
このような人々ばかりになれば、訴訟テクニックと 素朴感情論だけによる裁判が ほとんどになるでしょう。そうなれは 訴訟のための訴訟が横行する米国のような社会、いや さらに論理的一貫性のない感情論に基づく社会になるのではないでしょうか。その行きつく先は 確固たる成文法よりも 一時的な判例が重用される人治社会となるでしょう。そこには 当然 “法の原則”は反映し難く、一貫性の無い 奇妙な解釈論ばかり横行するようになるのではないでしょうか。
一方では 間もなく裁判員制度が スタートしようとしています。ところが、このように近代市民社会法の考え方が 浸透していない日本社会で、普通の人々が “法の精神” を 十分に理解している状況ではないような気がします。これまで “法の精神”に無縁だった人々に 適切な判決を下す能力があるのでしょうか。
特に 最近の日本人には退行現象が 兼著なような気がします。理性的に他人のシチュエーションを理解する能力が 欠如してきている印象です。いや、上述のように 知的レベルが高いはずの人々の知的退行現象さえも認められます。
こんな状態で 複雑な事件に まともな判決を下し、適切に裁判員制度を運営できるのでしょうか。
いや、日本人が “法の精神”に馴染んでいないから 裁判員制度などは上手く運営できないと言うよりも、逆に そういうメンタリティを育てなければ 日本人の真の国際競争力は生まれないのだとも 思うのです。感情論によってではなく、ある確固とした原則を基準として一貫性のある、完整性(integrity)のある思考力や判断力を磨くことが 基本だと思うのです。その原則は 事実を基礎に論理的であることは当然として、場合によっては歴史的にも 科学的にも 十分に鍛えられた論理でなければなりません。
同様のことは ISOマネジメントでも言えるのではないでしょうか。自分たちでルールを決めてそれを遵守するのは、ISOマネジメントの基本だからです。その前提には ルールの背景を理解した上で、主体的に思考し、自分たちへのリスクを基準に判断する能力が必要です。規格要求事項を 実施するに当たり、元来あるはずの自分たちの行動原則と突き合わせて 矛盾が無いのか、矛盾があれば 特にリスクを見極めてどの程度どのように解消させるのか よく考える必要があると思うのです。
H弁護士ご当人は 一般市民の感覚で裁判は行なわれるべきだと主張しています。それは正確には“市民”ではなくて“庶民”的感覚でしょう。近代市民社会の “法の原則”というか “法”というものについての基本的な精神が 無い人は正確には“市民”とは言えないのではないでしょうか。“こういう人”が 法曹資格を持ち、しかもマスコミは “こういう人”を ちやほやするというのは どういうことでしょうか。番組中では 大勢のコメンテーターが居ましたが、彼の発言に異議を差し挟む人は その死刑廃止論者1人だけでした。
日本社会に 近代市民社会の法の考え方が 浸透していないことの証左ではないでしょうか。
もし日本の法曹資格者が ほとんどこのような 近代市民社会の精神を持たない人々であるとすれば大問題ではないでしょうか。最近 全国に ロー・スクールが創設され、多くの法曹資格者を作ろうとしていますが、このような人々ばかり粗製濫造しようとしているのでしょうか。いわゆる訴訟テクニックだけに長け、その根底では前近代的思考しかできない人々ばかり育成して行こうとしているのでしょうか。それで 良いのでしょうか。
このような人々ばかりになれば、訴訟テクニックと 素朴感情論だけによる裁判が ほとんどになるでしょう。そうなれは 訴訟のための訴訟が横行する米国のような社会、いや さらに論理的一貫性のない感情論に基づく社会になるのではないでしょうか。その行きつく先は 確固たる成文法よりも 一時的な判例が重用される人治社会となるでしょう。そこには 当然 “法の原則”は反映し難く、一貫性の無い 奇妙な解釈論ばかり横行するようになるのではないでしょうか。
一方では 間もなく裁判員制度が スタートしようとしています。ところが、このように近代市民社会法の考え方が 浸透していない日本社会で、普通の人々が “法の精神” を 十分に理解している状況ではないような気がします。これまで “法の精神”に無縁だった人々に 適切な判決を下す能力があるのでしょうか。
特に 最近の日本人には退行現象が 兼著なような気がします。理性的に他人のシチュエーションを理解する能力が 欠如してきている印象です。いや、上述のように 知的レベルが高いはずの人々の知的退行現象さえも認められます。
こんな状態で 複雑な事件に まともな判決を下し、適切に裁判員制度を運営できるのでしょうか。
いや、日本人が “法の精神”に馴染んでいないから 裁判員制度などは上手く運営できないと言うよりも、逆に そういうメンタリティを育てなければ 日本人の真の国際競争力は生まれないのだとも 思うのです。感情論によってではなく、ある確固とした原則を基準として一貫性のある、完整性(integrity)のある思考力や判断力を磨くことが 基本だと思うのです。その原則は 事実を基礎に論理的であることは当然として、場合によっては歴史的にも 科学的にも 十分に鍛えられた論理でなければなりません。
同様のことは ISOマネジメントでも言えるのではないでしょうか。自分たちでルールを決めてそれを遵守するのは、ISOマネジメントの基本だからです。その前提には ルールの背景を理解した上で、主体的に思考し、自分たちへのリスクを基準に判断する能力が必要です。規格要求事項を 実施するに当たり、元来あるはずの自分たちの行動原則と突き合わせて 矛盾が無いのか、矛盾があれば 特にリスクを見極めてどの程度どのように解消させるのか よく考える必要があると思うのです。
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