The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
2017年猛暑夏休暇のご挨拶
夏になれば猛暑との言葉を使うのはもう何年経つだろうか。とは思いつつも、結局毎年言い続けるのであろう。
先週、テレビでジュラシック・ワールドの映画をチラと見たが、先日読んだ中川毅著“人類と気候の10万年史”によると、恐竜の隆盛を極めた時代は“北極にも南極にも氷床は無かった”由。とすれば、夏はもっと暑かったのだろうか。だとすれば恐竜は現代ではあのように活発に動けるのだろうか、などとつまらぬアラさがしをしてしまう。
他所で聞いたところによれば、直近10数万年の気候は、氷河の存在する時代つまり氷河期であり、その中で温かいここ数年年は間氷期だという。従い、もっと寒冷化するはず、との“期待”を抱きながらも、イザそうなるとなれば食糧危機が心配になる。実に複雑な気分に陥る。
“とにかく猛暑の中で気息奄々、普段働かない頭脳も一層機能しなくなり、読書も不能、これでインプットもアウトプットも不可。これではブログへの投稿も困難。冬の寒さは暖かくすれば何とかやり過ごせるが、夏の暑さには全く耐えられない。というような訳で、このブログへの投稿も来週と来々週は夏休みとさせて頂きたい。”
とは2年前の投稿記事での文言。この状態今年も変わらず、やっぱり夏休みは必要との思いで一杯になる。
それに今年は、珍しく少々遠くへ家族で旅行も計画した。しかし、迷走する長寿という異様な台風に襲われ計画の前半は断念して、何とか後半だけは実行しようと考えている。しかし、人の思いにかかわらず大自然はその論理に従い勝手に挙動するので、どうなることやら予測がつかない。
まぁ、そんな感慨の中で今年もとにかく夏休みは頂きたい。投稿ネタも尽きているので、その間に何とかしたい。ということで、よろしくお願いしたい。
さて、報道の中心であるテレビもこの時期、定常番組を外してまるで夏休みを謳歌することを強制するかのように特別番組やオチャラケ番組、スポーツ番組を組む。
そういう報道の状態を狙ってか政治も停滞する、というか現政権は自らの不都合を隠すために、内閣改造を行い“人心一新”を図っている。それに迎合するかのように、内閣支持率は40%台へと浮揚したようだ。その狙いは当たったように見える。その政権の本質は全く変わってもいないにもかかわらず、そんなことで良いのか。
一部週刊誌で、安倍氏の公職選挙法に抵触する行為があったとの報道があった。その記事自体は読んではいないが、広告見出しによれば加計学園の職員を動員して選挙運動をさせたということのようだ。なるほど、腹心の友とはそういう関係を指すのだと大いに納得させるもののように思える。この記事に後続ありや、と思っていたら、他の全ての報道はこれを無視した。
それよりも、女優のスキャンダルの方が重要のようだ。一般国民が安倍氏のスキャンダルよりは、女優のスキャンダルの方が重要と思うから、そうなるのか、マスコミが政権を忖度して国民の意識を意図的にそらしているのか、果たしてどうなのだろう。こんな世相で、世の中良くなっていくのだろうか。そういう社会心理の隙間からあの下品な政権が出来上がったのではないのか。
さて、良い世の中とはどういう社会なのだろう。今一度、そういったことを根底から問い直すことは必要だろう。特に、憲法を思うがままに“改正”しようとする安倍政権に対し、どういう原則姿勢で立ち向かうのが“普遍的正義”に適うと言えるのだろうか。自らの生活の中での哲学を、今更ながらどう確立していくのか、そういう点で日本人ははなはだ無力だというのが現状ではないだろうか。その点で、はるかに欧米社会に後れを取っている点ではないだろうか。哲学と結びついた論理思考を避けてはいないだろうか。難しいことは考えたくない、良くわからないといって、個人の自由について深く考察したことがあるだろうか。その姿勢が、怪しい秘密保護法や組織犯罪処罰法の成立を安易に許したりしたことにつながっていないだろうか。
こういう日本人の心理は、実用中心主義の教育により醸成されたのではないだろうか。そういえば、このことを丸山茂徳氏も指摘していた。
否、そういった知的怠慢が日本の“リベラル”な政治勢力の未成熟と言う、不幸な政治状況を生んでいるのではないだろうか。“リベラル”な顔をした右派政治勢力の台頭を生んでいないだろうか。
かつて、ヒトラーは国家社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterparteiナチス)を率いて、相当数のリベラルなドイツ市民の関心を惹いたことは知られたことだろうか。ヒトラーはドイツ人労働者の健康保持を重要視し、化学肥料を忌避する姿勢を示していたことは日本で知られているのだろうか。あの宮澤賢治が化学肥料の普及に努めてセールスマンをしていた同じ時期に、ナチスはそれに発ガンの可能性を見て忌避していたという事実は驚くべきことではないだろうか。極右は時として、“リベラル”な顔をすることを心に留めることが肝要なのだ。
だが、その主張する正義は、カントの指摘した普遍性に大いに欠ける。ドイツ人中心の正義であっても、人類の視点に立つと不正義となり、“人類の敵”として歴史的に排除されたのだ。ヘイト・スピーチには普遍的正義は全くない。だから忌避されるべきなのだ。逆にその自由を許容しないことこそが普遍的正義なのだ。寸毫も躊躇してはならない。
とにかく、疑う事は重要だ。今跋扈する“○○○○の会”に“リベラル”を期待して間違いないのか、よく見極めるべきだ。そういった政治勢力を率いる人が“リベラル”な考えを持っていた人なのか、良く見極めるべきなのだ。どう見ても、その指導者に“リベラル”な経歴は感じない。彼らに“リベラル”を期待して投票する人が居たのならば、それは大いなる幻想であり、決定的に政治的判断を誤っているのではないか。そしてその結果はある種の社会的犯罪と呼べるものになるのではないかと思う。“人類の敵”となるような政権を選択すれば、それは社会的歴史的愚挙となるのだ。
既存政党の四分五裂や政界再編の胎動が見られる。とにかく“リベラル”とは何か、良く考えなければならない。
実は最近、CSV(Creating Shared Value)にも興味があり、このお勉強もしたいと思っている。これは環境ISOの延長としての社会的責任から、それをさらに進化させた考え方として注目されていることを知ったからに他ならない。これこそは社会的正義の本質にかかわるものだ。そして、それは一方では品質ISOにも影響する考えではないかと思っている。
そう言えばファンド・マネジャも夏休みだから、マーケットも閑散が常、とはいかないようだ。今や端末を持ったまま休暇に入るマネジャも多いので、例年9月に崩れる相場が8月に前倒しで崩れる傾向があるようだ。厳に警戒するべきというマーケット・ウォッチャーも居た。日米ともに政権に行き詰まり感が出てきているので、注意するべきだ。
特に日本はアベノミクスの空虚な宴の後となるのは明白だ。後には巨大な財政赤字と毀損した中央銀行の資産が残った。この後始末、どうするのか大変な問題のはずだが、日本人の危機感は全くない。それで良いのか。政権選択で偽の“リベラル”を選択すれば、日本の状況はますます悪くなるばかりだ。その結末は予測がつかない程の地獄にならないか。
そういったことの“お勉強”のきっかけに、この夏休みを使いたいと思っている。果たして、お休みでそうした成果を得られるかどうかは保証の限りではない。しかし、それがないとできないつまり必要条件であるのは確実だ。
暑さで脳がやられてしまい、時間を無駄に使うことになるかも知れない。なるほど考えてみれば、わが人生は累々たる無駄時間の累積で出来上がっている。そうした非効率な過ごし方の末に今がある。何らかの歩留は覚悟しなければならないが、やらなければ何も得られない。
自分でも何を言っているのか分からなくなってきたが、気分は御理解賜りたい。今年は暑さで脳がやられてしまわないように、エアコンを積極的に使っていこうとも思っている。今年は温暖化やコストは考えないことにした。だから歩留は多少期待できるのではないか。
まぁ米大統領も2週間強の夏休みに入ったとの報道があった。その間は、国連決議に違反する北朝鮮への軍事的全面攻撃もお休みだろう。米軍当局はその間に綿密な作戦を構築するのかもしれない。他人任せで日本が犠牲にならないことを祈るばかりだ。平和を祈るだけで、平和になるのならばそれに越したことはないのだが。
とにかく、みんな休め、休みたい、休もう・・・・。少なくとも来週は休刊です。とにかくよろしくムニャ ムニャ・・・Zzz・・・。
先週、テレビでジュラシック・ワールドの映画をチラと見たが、先日読んだ中川毅著“人類と気候の10万年史”によると、恐竜の隆盛を極めた時代は“北極にも南極にも氷床は無かった”由。とすれば、夏はもっと暑かったのだろうか。だとすれば恐竜は現代ではあのように活発に動けるのだろうか、などとつまらぬアラさがしをしてしまう。
他所で聞いたところによれば、直近10数万年の気候は、氷河の存在する時代つまり氷河期であり、その中で温かいここ数年年は間氷期だという。従い、もっと寒冷化するはず、との“期待”を抱きながらも、イザそうなるとなれば食糧危機が心配になる。実に複雑な気分に陥る。
“とにかく猛暑の中で気息奄々、普段働かない頭脳も一層機能しなくなり、読書も不能、これでインプットもアウトプットも不可。これではブログへの投稿も困難。冬の寒さは暖かくすれば何とかやり過ごせるが、夏の暑さには全く耐えられない。というような訳で、このブログへの投稿も来週と来々週は夏休みとさせて頂きたい。”
とは2年前の投稿記事での文言。この状態今年も変わらず、やっぱり夏休みは必要との思いで一杯になる。
それに今年は、珍しく少々遠くへ家族で旅行も計画した。しかし、迷走する長寿という異様な台風に襲われ計画の前半は断念して、何とか後半だけは実行しようと考えている。しかし、人の思いにかかわらず大自然はその論理に従い勝手に挙動するので、どうなることやら予測がつかない。
まぁ、そんな感慨の中で今年もとにかく夏休みは頂きたい。投稿ネタも尽きているので、その間に何とかしたい。ということで、よろしくお願いしたい。
さて、報道の中心であるテレビもこの時期、定常番組を外してまるで夏休みを謳歌することを強制するかのように特別番組やオチャラケ番組、スポーツ番組を組む。
そういう報道の状態を狙ってか政治も停滞する、というか現政権は自らの不都合を隠すために、内閣改造を行い“人心一新”を図っている。それに迎合するかのように、内閣支持率は40%台へと浮揚したようだ。その狙いは当たったように見える。その政権の本質は全く変わってもいないにもかかわらず、そんなことで良いのか。
一部週刊誌で、安倍氏の公職選挙法に抵触する行為があったとの報道があった。その記事自体は読んではいないが、広告見出しによれば加計学園の職員を動員して選挙運動をさせたということのようだ。なるほど、腹心の友とはそういう関係を指すのだと大いに納得させるもののように思える。この記事に後続ありや、と思っていたら、他の全ての報道はこれを無視した。
それよりも、女優のスキャンダルの方が重要のようだ。一般国民が安倍氏のスキャンダルよりは、女優のスキャンダルの方が重要と思うから、そうなるのか、マスコミが政権を忖度して国民の意識を意図的にそらしているのか、果たしてどうなのだろう。こんな世相で、世の中良くなっていくのだろうか。そういう社会心理の隙間からあの下品な政権が出来上がったのではないのか。
さて、良い世の中とはどういう社会なのだろう。今一度、そういったことを根底から問い直すことは必要だろう。特に、憲法を思うがままに“改正”しようとする安倍政権に対し、どういう原則姿勢で立ち向かうのが“普遍的正義”に適うと言えるのだろうか。自らの生活の中での哲学を、今更ながらどう確立していくのか、そういう点で日本人ははなはだ無力だというのが現状ではないだろうか。その点で、はるかに欧米社会に後れを取っている点ではないだろうか。哲学と結びついた論理思考を避けてはいないだろうか。難しいことは考えたくない、良くわからないといって、個人の自由について深く考察したことがあるだろうか。その姿勢が、怪しい秘密保護法や組織犯罪処罰法の成立を安易に許したりしたことにつながっていないだろうか。
こういう日本人の心理は、実用中心主義の教育により醸成されたのではないだろうか。そういえば、このことを丸山茂徳氏も指摘していた。
否、そういった知的怠慢が日本の“リベラル”な政治勢力の未成熟と言う、不幸な政治状況を生んでいるのではないだろうか。“リベラル”な顔をした右派政治勢力の台頭を生んでいないだろうか。
かつて、ヒトラーは国家社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterparteiナチス)を率いて、相当数のリベラルなドイツ市民の関心を惹いたことは知られたことだろうか。ヒトラーはドイツ人労働者の健康保持を重要視し、化学肥料を忌避する姿勢を示していたことは日本で知られているのだろうか。あの宮澤賢治が化学肥料の普及に努めてセールスマンをしていた同じ時期に、ナチスはそれに発ガンの可能性を見て忌避していたという事実は驚くべきことではないだろうか。極右は時として、“リベラル”な顔をすることを心に留めることが肝要なのだ。
だが、その主張する正義は、カントの指摘した普遍性に大いに欠ける。ドイツ人中心の正義であっても、人類の視点に立つと不正義となり、“人類の敵”として歴史的に排除されたのだ。ヘイト・スピーチには普遍的正義は全くない。だから忌避されるべきなのだ。逆にその自由を許容しないことこそが普遍的正義なのだ。寸毫も躊躇してはならない。
とにかく、疑う事は重要だ。今跋扈する“○○○○の会”に“リベラル”を期待して間違いないのか、よく見極めるべきだ。そういった政治勢力を率いる人が“リベラル”な考えを持っていた人なのか、良く見極めるべきなのだ。どう見ても、その指導者に“リベラル”な経歴は感じない。彼らに“リベラル”を期待して投票する人が居たのならば、それは大いなる幻想であり、決定的に政治的判断を誤っているのではないか。そしてその結果はある種の社会的犯罪と呼べるものになるのではないかと思う。“人類の敵”となるような政権を選択すれば、それは社会的歴史的愚挙となるのだ。
既存政党の四分五裂や政界再編の胎動が見られる。とにかく“リベラル”とは何か、良く考えなければならない。
実は最近、CSV(Creating Shared Value)にも興味があり、このお勉強もしたいと思っている。これは環境ISOの延長としての社会的責任から、それをさらに進化させた考え方として注目されていることを知ったからに他ならない。これこそは社会的正義の本質にかかわるものだ。そして、それは一方では品質ISOにも影響する考えではないかと思っている。
そう言えばファンド・マネジャも夏休みだから、マーケットも閑散が常、とはいかないようだ。今や端末を持ったまま休暇に入るマネジャも多いので、例年9月に崩れる相場が8月に前倒しで崩れる傾向があるようだ。厳に警戒するべきというマーケット・ウォッチャーも居た。日米ともに政権に行き詰まり感が出てきているので、注意するべきだ。
特に日本はアベノミクスの空虚な宴の後となるのは明白だ。後には巨大な財政赤字と毀損した中央銀行の資産が残った。この後始末、どうするのか大変な問題のはずだが、日本人の危機感は全くない。それで良いのか。政権選択で偽の“リベラル”を選択すれば、日本の状況はますます悪くなるばかりだ。その結末は予測がつかない程の地獄にならないか。
そういったことの“お勉強”のきっかけに、この夏休みを使いたいと思っている。果たして、お休みでそうした成果を得られるかどうかは保証の限りではない。しかし、それがないとできないつまり必要条件であるのは確実だ。
暑さで脳がやられてしまい、時間を無駄に使うことになるかも知れない。なるほど考えてみれば、わが人生は累々たる無駄時間の累積で出来上がっている。そうした非効率な過ごし方の末に今がある。何らかの歩留は覚悟しなければならないが、やらなければ何も得られない。
自分でも何を言っているのか分からなくなってきたが、気分は御理解賜りたい。今年は暑さで脳がやられてしまわないように、エアコンを積極的に使っていこうとも思っている。今年は温暖化やコストは考えないことにした。だから歩留は多少期待できるのではないか。
まぁ米大統領も2週間強の夏休みに入ったとの報道があった。その間は、国連決議に違反する北朝鮮への軍事的全面攻撃もお休みだろう。米軍当局はその間に綿密な作戦を構築するのかもしれない。他人任せで日本が犠牲にならないことを祈るばかりだ。平和を祈るだけで、平和になるのならばそれに越したことはないのだが。
とにかく、みんな休め、休みたい、休もう・・・・。少なくとも来週は休刊です。とにかくよろしくムニャ ムニャ・・・Zzz・・・。
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