The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
“有益な環境側面”という概念は成立するのか
私は 認証された環境マネジメント・システムを管理担当者として引き継いで2年経過した。最近、今まで あまり気合を入れて見ていなかった 環境マニュアルの ある表をじっくり見ていて、“組織の活動”の環境側面を “有害”と“有益”に分類しているのに、さてこれで良いのかと疑問を抱き 始めたのだった。
さて、環境側面とは 何か、とあらためて考え直してみた。これは、一見変な日本語だが environmental aspectの訳なのだ。aspect という言葉の意味は 英和辞書によると、“(物の)外観、ようす(appearance);形勢、状況、局面(phase)”とある。Longmanのトップ・ポケット英々辞書では “particular side of a plan or problem”とあり、実物体の側面というより、抽象的な ものごとの一面といった趣きが強いようだ。particular は “1.special;unusual,2.single and different from others,3.showing (too) much care over small matters” とのことだが、ここでは2の意味合いを含んだ1と考えてよいだろう。ものごとのある一部分ではあるが、そのものを特徴付ける一面を 指していると私は考えている。だから つまり ものごとの“側面”となるのだろう。
環境マネジメント・システムでは 組織(会社 等)の活動の環境に与える影響を評価し、その影響度の大きいものから管理対象とし、影響度を緩和・低減させる必要がある。その組織の活動(つまり生産も含めたビジネス活動等)の環境に与える影響のある部分を 環境側面と言っていると考えるべきなのだ。
つまり人間のする活動の環境に与える影響のある部分について環境側面と言うのだ。
さて、その人間の活動について その環境に与える影響ということを考える時、“有益”な側面というものが 本来的に在り得るのだろうか。
人間の生活での環境側面と言えば 何だろうか。素朴に考えれば、インプットで呼吸の吸気・酸素の消費、食料、アウトプットで 呼吸の呼気・二酸化炭素の排出、糞尿、屁、ゲップ等の排出である。そして 近代人になればなるほど、インプットに電気その他のエネルギーが余計に付加される。そして、アウトプットにインプットしたエネルギーの消費・変換結果の排出物(騒音,振動,余熱,二酸化炭素・・・・)があるのだ。
つまり 近代人でなくても、人間は存在するだけで 環境に影響を与える存在なのだ。
これらの環境影響の内、インパクトの大きなものは食料であろう。この食料をいかに確保するかで、人間の歴史、文明・文化は展開してきたと言って過言ではない。東洋では 稲作中心の耕作農業、西洋では牧畜中心の酪農、そのありようで人間の文明・文化のスタイルが多様になっているのだ。それは ヨーロッパとアジアの自然環境、気候・風土の差によると言われている。
話を戻そう。そもそも 環境負荷を掛けない人間の活動というものはあるのだろうか。環境負荷を軽減させる活動はありえても、その活動の本質が 負の環境負荷であるような活動は無いのではないか。現に “環境正荷”などという言葉 またはそれに相当する言葉は存在しない。例えば 省エネ活動は 負荷軽減の活動ではあるが、それはエネルギー消耗の活動が前提となっているから成立するのであって、単なる省エネでは 環境負荷をゼロにすることすら不可能であって、まして決して負の環境負荷活動にはならないのだ。本来的に 負の環境活動などは 現実には存在しないのだ。
こう考えると、“人間は存在するだけで 環境に影響を与える存在”であると思えて来るのだ。私は、人々が このことを もっと強く自覚するべきであると思っている。そして その“人間の存在により環境に与える影響”に “有益”なものがあるとは言えないと確認するべきであると思っているのだ。インプットで呼吸の吸気・酸素の消耗、食料の消費、アウトプットで 呼吸の呼気・二酸化炭素の排出、糞尿、屁、ゲップ等 そのどれに“有益”なものがあるのだろうか。
いや、人間にとって“有害”という二酸化炭素ガスは植物にとっては光合成ために“有益”な原料になる。自然とはそういうものだ。相互に複雑に関連しているのだ。単純に 有害・有益などと判定できるものではない。
そもそも“有益”とは 何にとって有益なのか。人間にとって有益であっても 自然のバランスを崩すような活動はいくらでもある。翻って、自然にとって“有益”といった概念は成立するのだろうか。前述のように 抽象的な自然そのもの、自然全体にとって、単純に 有害・有益などと判定できるものはあり得ず、また自然自身には価値観などはないから “有益”といった概念は成立しないと言ってもよい。“有害”も同様だ。
まして 環境側面の内で その“有益”なものを 探し出してどうしようというのか。
“有益”な 環境側面を知って さらに図に乗って 環境に“正荷”を与えようと言うつもりなのだろうか。それは結局 どう転んでも環境負荷を増大させることになるだけではないのか。それで 良いのか。それこそノー天気な 環境保全活動と言えないだろうか。
したがって、人間活動の環境側面に “有害・有益”の仕訳をすることは 全く意味のない無益なことではないのか。
そもそも何故、今、環境が “問題”として私達の前に登場しているのか。それは あまり言われないことであるが、地球上に生存する種としての人間が 過剰になったからなのだ。人間の過剰生存が 地球上に生態系のアンバランスを作り出しており、これが 地球上の最大の問題なのだ。地球上に過剰存在の人間が 他の生物の命を食料として消費しながら 相互には戦争もせず平和的に “人間の命の尊重”を謳歌するという態度が 自然界にとっては 許されない状況になって来ているのだ。環境問題が語られる一方で、この重大な真実が あまり話題にならないことに 私は奇異に感じるのだ。
この“過剰存在の人間”が、イケシャァシャーと“生物多様性の尊重”などと言い始めているから 非常に滑稽な風景になってきている。真実を見ようとしない態度、理解して考えない態度は傲慢で不遜ではないか。
その傲慢で不遜な 人間の態度こそが 環境問題の最大の原因ではないのか。
私は 環境問題を考える時、常に “人間は存在するだけで 環境に影響を与える存在”であって、それが地球上に過剰に存在する限りにおいて “有害な存在”であることを自覚するべきだと思っている。そういう繊細な意識が 無ければ いかなる環境保全活動も マヌケな自慰行為でしかないように思っているし、そうでなければ 必ず自己中心の思い上がりで 傲慢となる。それが行き過ぎると、滑稽なものとなってしまうのではないかと 思っている。
ゴア氏の活動にそういった欺瞞と傲慢な要素を感じ、滑稽さすら覚えるのは 私だけだろうか。
“熱心な環境活動家”が “(日本)政府の環境政策に不満を抱く”のは 勝手だが、“子供の世代に悪影響を残すべきではない”などと “上から目線”でのたまうのは 止めた方が良いように思う。そこまで、問題だと本気で思っておられるならば、自己の存在を消滅させるという実践でもって少しでも問題を解消する努力をしていただきたい、とまで思うのだ。少しでも過剰な人口を減少・緩和させることこそは 本質的に“有益”なことだからである。そこまででなくても 原始生活に戻ることを率先実践していただきたいものだ。せめてアーミッシュのような・・・。そういう覚悟がなくて、現代文明の恩恵を享受しながら “上から目線”でのたまうことは 止めて欲しいものだ。少々、言い過ぎであろうか。
但し、私自身は この問題をどうするべきか 結論を持ち合わせていない。だから、人間文明の限界を感じつつも、地球上の人口爆発を懸念しながら、“熱心な”環境活動はやっていない。普通の人と同じように オロオロと無様に逃げているのだ。だが せめて “有益な環境側面”といったような 欺瞞に満ちた言葉は使わないようにしたいとは 思っている。“地球に優しい”等の言葉も それに類する。いつぞやも指摘したように カッコよく“日本は「理路整然と間違う」”などというシャレた?意味不明の台詞も吐くつもりはない。一見小さなことだが、その意識の差は大きいと密かに思っているのだ。
環境活動には “人間は罪深い存在”というような、“原罪”に近い意識が底流に 無ければならないと思っているが いかがであろうか。それは 親鸞の“南無阿弥陀仏”にも通じる考え方であると思う。徹底した自己肯定の中では いかなる環境活動も偽物となるのである。謙虚な生き方の中にしか 真面目な環境活動は存在しないのではないかと思うのだ。実は、環境活動は 一刀両断のカッコいい派手なパフォーマンスとは 全く無縁で、無様で泥臭い矛盾の中であえぎながらヨロヨロ進めて行くべきものかも知れない。
環境問題は ファッションではなく、人間の“存在そのもの”に関る 本質的問題なのである。無様さこそ 私の本領とするところである。
さて、環境側面とは 何か、とあらためて考え直してみた。これは、一見変な日本語だが environmental aspectの訳なのだ。aspect という言葉の意味は 英和辞書によると、“(物の)外観、ようす(appearance);形勢、状況、局面(phase)”とある。Longmanのトップ・ポケット英々辞書では “particular side of a plan or problem”とあり、実物体の側面というより、抽象的な ものごとの一面といった趣きが強いようだ。particular は “1.special;unusual,2.single and different from others,3.showing (too) much care over small matters” とのことだが、ここでは2の意味合いを含んだ1と考えてよいだろう。ものごとのある一部分ではあるが、そのものを特徴付ける一面を 指していると私は考えている。だから つまり ものごとの“側面”となるのだろう。
環境マネジメント・システムでは 組織(会社 等)の活動の環境に与える影響を評価し、その影響度の大きいものから管理対象とし、影響度を緩和・低減させる必要がある。その組織の活動(つまり生産も含めたビジネス活動等)の環境に与える影響のある部分を 環境側面と言っていると考えるべきなのだ。
つまり人間のする活動の環境に与える影響のある部分について環境側面と言うのだ。
さて、その人間の活動について その環境に与える影響ということを考える時、“有益”な側面というものが 本来的に在り得るのだろうか。
人間の生活での環境側面と言えば 何だろうか。素朴に考えれば、インプットで呼吸の吸気・酸素の消費、食料、アウトプットで 呼吸の呼気・二酸化炭素の排出、糞尿、屁、ゲップ等の排出である。そして 近代人になればなるほど、インプットに電気その他のエネルギーが余計に付加される。そして、アウトプットにインプットしたエネルギーの消費・変換結果の排出物(騒音,振動,余熱,二酸化炭素・・・・)があるのだ。
つまり 近代人でなくても、人間は存在するだけで 環境に影響を与える存在なのだ。
これらの環境影響の内、インパクトの大きなものは食料であろう。この食料をいかに確保するかで、人間の歴史、文明・文化は展開してきたと言って過言ではない。東洋では 稲作中心の耕作農業、西洋では牧畜中心の酪農、そのありようで人間の文明・文化のスタイルが多様になっているのだ。それは ヨーロッパとアジアの自然環境、気候・風土の差によると言われている。
話を戻そう。そもそも 環境負荷を掛けない人間の活動というものはあるのだろうか。環境負荷を軽減させる活動はありえても、その活動の本質が 負の環境負荷であるような活動は無いのではないか。現に “環境正荷”などという言葉 またはそれに相当する言葉は存在しない。例えば 省エネ活動は 負荷軽減の活動ではあるが、それはエネルギー消耗の活動が前提となっているから成立するのであって、単なる省エネでは 環境負荷をゼロにすることすら不可能であって、まして決して負の環境負荷活動にはならないのだ。本来的に 負の環境活動などは 現実には存在しないのだ。
こう考えると、“人間は存在するだけで 環境に影響を与える存在”であると思えて来るのだ。私は、人々が このことを もっと強く自覚するべきであると思っている。そして その“人間の存在により環境に与える影響”に “有益”なものがあるとは言えないと確認するべきであると思っているのだ。インプットで呼吸の吸気・酸素の消耗、食料の消費、アウトプットで 呼吸の呼気・二酸化炭素の排出、糞尿、屁、ゲップ等 そのどれに“有益”なものがあるのだろうか。
いや、人間にとって“有害”という二酸化炭素ガスは植物にとっては光合成ために“有益”な原料になる。自然とはそういうものだ。相互に複雑に関連しているのだ。単純に 有害・有益などと判定できるものではない。
そもそも“有益”とは 何にとって有益なのか。人間にとって有益であっても 自然のバランスを崩すような活動はいくらでもある。翻って、自然にとって“有益”といった概念は成立するのだろうか。前述のように 抽象的な自然そのもの、自然全体にとって、単純に 有害・有益などと判定できるものはあり得ず、また自然自身には価値観などはないから “有益”といった概念は成立しないと言ってもよい。“有害”も同様だ。
まして 環境側面の内で その“有益”なものを 探し出してどうしようというのか。
“有益”な 環境側面を知って さらに図に乗って 環境に“正荷”を与えようと言うつもりなのだろうか。それは結局 どう転んでも環境負荷を増大させることになるだけではないのか。それで 良いのか。それこそノー天気な 環境保全活動と言えないだろうか。
したがって、人間活動の環境側面に “有害・有益”の仕訳をすることは 全く意味のない無益なことではないのか。
そもそも何故、今、環境が “問題”として私達の前に登場しているのか。それは あまり言われないことであるが、地球上に生存する種としての人間が 過剰になったからなのだ。人間の過剰生存が 地球上に生態系のアンバランスを作り出しており、これが 地球上の最大の問題なのだ。地球上に過剰存在の人間が 他の生物の命を食料として消費しながら 相互には戦争もせず平和的に “人間の命の尊重”を謳歌するという態度が 自然界にとっては 許されない状況になって来ているのだ。環境問題が語られる一方で、この重大な真実が あまり話題にならないことに 私は奇異に感じるのだ。
この“過剰存在の人間”が、イケシャァシャーと“生物多様性の尊重”などと言い始めているから 非常に滑稽な風景になってきている。真実を見ようとしない態度、理解して考えない態度は傲慢で不遜ではないか。
その傲慢で不遜な 人間の態度こそが 環境問題の最大の原因ではないのか。
私は 環境問題を考える時、常に “人間は存在するだけで 環境に影響を与える存在”であって、それが地球上に過剰に存在する限りにおいて “有害な存在”であることを自覚するべきだと思っている。そういう繊細な意識が 無ければ いかなる環境保全活動も マヌケな自慰行為でしかないように思っているし、そうでなければ 必ず自己中心の思い上がりで 傲慢となる。それが行き過ぎると、滑稽なものとなってしまうのではないかと 思っている。
ゴア氏の活動にそういった欺瞞と傲慢な要素を感じ、滑稽さすら覚えるのは 私だけだろうか。
“熱心な環境活動家”が “(日本)政府の環境政策に不満を抱く”のは 勝手だが、“子供の世代に悪影響を残すべきではない”などと “上から目線”でのたまうのは 止めた方が良いように思う。そこまで、問題だと本気で思っておられるならば、自己の存在を消滅させるという実践でもって少しでも問題を解消する努力をしていただきたい、とまで思うのだ。少しでも過剰な人口を減少・緩和させることこそは 本質的に“有益”なことだからである。そこまででなくても 原始生活に戻ることを率先実践していただきたいものだ。せめてアーミッシュのような・・・。そういう覚悟がなくて、現代文明の恩恵を享受しながら “上から目線”でのたまうことは 止めて欲しいものだ。少々、言い過ぎであろうか。
但し、私自身は この問題をどうするべきか 結論を持ち合わせていない。だから、人間文明の限界を感じつつも、地球上の人口爆発を懸念しながら、“熱心な”環境活動はやっていない。普通の人と同じように オロオロと無様に逃げているのだ。だが せめて “有益な環境側面”といったような 欺瞞に満ちた言葉は使わないようにしたいとは 思っている。“地球に優しい”等の言葉も それに類する。いつぞやも指摘したように カッコよく“日本は「理路整然と間違う」”などというシャレた?意味不明の台詞も吐くつもりはない。一見小さなことだが、その意識の差は大きいと密かに思っているのだ。
環境活動には “人間は罪深い存在”というような、“原罪”に近い意識が底流に 無ければならないと思っているが いかがであろうか。それは 親鸞の“南無阿弥陀仏”にも通じる考え方であると思う。徹底した自己肯定の中では いかなる環境活動も偽物となるのである。謙虚な生き方の中にしか 真面目な環境活動は存在しないのではないかと思うのだ。実は、環境活動は 一刀両断のカッコいい派手なパフォーマンスとは 全く無縁で、無様で泥臭い矛盾の中であえぎながらヨロヨロ進めて行くべきものかも知れない。
環境問題は ファッションではなく、人間の“存在そのもの”に関る 本質的問題なのである。無様さこそ 私の本領とするところである。
コメント ( 2 ) | Trackback ( )
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暇な時有益な側面と検索してたどり着きました。私は有益なことはないというあなた様の見解と違い、側面には有益も有害もないという見解です。ただし有益な影響はあると考えています。ともあれ審査において有益な側面云々というのは規格不適合で断固排除しなければならないと考えております。考えているだけでなくいろいろな認証機関に指導(文句?)を行っているつもりですが、幹部はわかったといっても末端の審査員が理解しないのでトラブルに困っています。
気が向いたら遊びに来てください。
お目に 止めていただき、光栄に存じます。パンチの効いたUSO800講座に 時に拝見して敬服いたしておりました。今後とも よろしくお願い申し上げます。