The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
私にとっての“適塾にまつわる疑問”―その2
さて、もう一つ 私の思い込みで生じた 適塾にまつわる誤解について 話題提供したい。少々、しつこい印象だが おヒマなら ムダ話に お付き合い願いたい。
実は、私は 大阪大学が 適塾の伝統を受け継ぐ正当な機関であるというのは 大いに疑問があるかも知れない、と密かに 思い続けていたのだ。
というのは、従来から もし、阪大が適塾の伝統を受け継ぐべき機関であるならば、慶応大とは 姉妹校というような、両者に非常に深い関係があってしかるべきであるにも拘わらず、両者にはその意識がないのは どういうことだろうと思っていたのだ。私学と 国立の溝なのか。それぞれのプライドが許さないのか。まぁ 無理矢理 群れたがるのも 自尊心を欠いた印象で好ましいこととは言えないかも知れないのだが。
何となくそういう風に思っていたところ、十数年前 大阪城の近くのある場所で、偶然に見た碑文に、その碑文の在る所に西洋理学の研究集団が在ったが、彼らは 明治10年頃に こぞって京都に転出し、それが 現在の京都大学の母体の一つとなった、というような意味のことが書かれていたのを“発見”したのだ。私は 咄嗟に これは適塾の後継者達が 京都に ごっそり移転して行ってしまった証拠なのだと思い込んでしまったのだ。
このことをもって、私は、阪大が実は 適塾の後継者であることを“僭称”しており、適塾の伝統は実は京大が引き継いだのが歴史的事実なのだと思い込んでしまったのだ。だから、阪大と慶応大の姉妹校関係は 語られることはないのだ、とも納得してしまったのだ。
そして、こういうことを思い出す度に 親しい人には “実はバナシ”を紹介し、“私は そういう碑文を見たのだ。”と したり顔で 話していたものだった。その時 “碑文”という言葉は、決め台詞として非常に説得力があった。
では 何故 このことが京大側からも 言い出されず、“阪大の僭称”を黙認しているのか分からないことになる。どうしてなのか、やっぱり気になるので 先日の適塾見学後、私なりに 歩き回ってみた。
まずは、その“碑文” を もう一度捜し出して、再度確認するべきだ。ところが 何度か 以前に行き会った碑文の場所が、天満橋の南側のどこかだったが、なかなか見つからない。90年代以降 不景気が襲ってはいたが、大阪の街並みも かなり変化していて分かり難くなっていたのだ。
そこで 当の阪大の博物館・待兼山修学館に行ってみた。阪急の石橋の豊中キャンパスの入口にある博物館だ。昔は、このような施設は無く、医療技術短期大学の在った建物をリニューアルして使われていた。国立大学も独法化し 自立するにあたってPR拠点を必要としたのだろう。(京大にも同様の博物館が在る。)
ここには 阪大が関わって来た科学技術史が紹介されている。そして 探すべき“阪大の系譜”も パネル等にして展示されていた。残念ながら 館内は撮影禁止。
1階は受付と、コジャレた軽食堂・カフェ“坂”があり、阪大にまつわるメモリアル・グッヅなどのショップもある。ここで、昼食を摂ることにした。入場は無料だが 残念ながらというか 見学者には ありがたいことなのだが、あまり来訪者は ない。気軽に マイペースで過ごすことが可能なので ある意味 ゆったり時間潰しをするには穴場ではあるような気がする。
展示物で、私なりに驚いたのが 阪大が日本で初めて真空管電子計算機に取組んだということだったことである。当時の研究・製作物が展示されていて、沢山の真空管と配線に圧倒されてしまう。何とも1箇所の配線間違いがとんでもないことになるに違いないのだが、そのような作業を思うと気が遠くなる思いがする。これを主導した先生が 工学部時代に使用した 応用数学の教科書の著者だったとは 驚きであった。
屋上からは 北摂から六甲山系を一望でき、伊丹空港も視野に入る。屋上でも あまりにも人が居ないことに 今度は不安になるくらいであった。
その訪れた時は、たまたま 戦前の大阪観光のPRフィルムを無人で しかもエンドレスで映写していた。大大阪の昔日の栄光を見ることが出来た。ついでながら、地下鉄・御堂筋線が実は 梅田とナンバではなくて心斎橋をつなぐことが目的だったようなのを始めて知った。
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さて肝心の適塾についてどのように説明されているのか であるが、特に明治期にどうなったのかが興味の焦点になる。ここでのパネルにも適塾門下生の名前があったが、高知県に竜馬の名前は無かった。多分、研究調査者や文献・出典は同じなのだろうが。
適塾そのものは 将軍の奥医師となった洪庵の死と、その後の倒幕によって 形式は失われたようだが、展示パネルによれば 塾活動自体は明治期も残ったようだ。それとは別の動きなのか 軌を一にするのかどうか不明だが、洪庵の子息等を中心に 明治2年に大阪府仮病院,医学校が設立され、大阪府立高等医学校、府立医科大学へと変遷し、昭和6年国立移管となり大阪帝国大学医学部となった由である。
したがって、阪大医学部が適塾の系譜を引き継いでいるというのは適切であり、私の“阪大の僭称”という決め付けは やっぱり 事実には反するようだ。まぁ 当然の結論ではあったのだ。
ならば あの碑文は一体何なのか。
慎重にネット上で調査してみた。するとやっぱりあの碑文はあるようだった。私が、“適塾の後継者達”と思った集団は一体何だったのか。
石碑は “大阪市営地下鉄の谷町四丁目駅から 北東に200m。大阪家庭裁判所の向い側, 大阪府庁新別館と 大阪府警本部の間の 南入口の植込みの中に埋もれるように,建っている。”とあった。続けて “発祥碑の隣に「舎蜜局址」という石碑も建っている。この場所には 1869(明治2)年に 理化学の教育機関として 舎蜜局(せいみきょく)が開設されたが, まもなく 洋学校と合併して「開成所」となり, さらに変遷を重ね 後に京都大学へと発展していった。”さらに“舎蜜局跡にできた「大阪司薬場」は 1887(明治20)年に「大阪衛生試験所」となり, 戦後一時空白期間があったが, 1949(昭和24)年に「国立衛生試験所大阪支所」となって中央区法円坂に移転。 1997(平成9)年 国立衛生試験所は「国立医薬品食品衛生研究所」に組織変更となり, 現在 大阪支所は 茨木市に移転している。”とあった。
*“舎蜜(せいみ)”とは chemistry(化学)の江戸期の漢語訳。
これだ!決定的である。そして その碑文を探しに もう一度出かけてみた。路上に緑地があるような場所を地図上で探してみて それを頼りに行ってみた。石碑が 繁茂する植え込みに隠れてしまっていた。だが、なるほど、その通りだった。この植え込みの繁茂は ずいぶんと予想外のものであり、また、私の 記憶していたつもりの場所より ずいぶん南側ではあったが 確かに かつて見た 碑文の記憶が よみがえる気分であった。
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どうやら 大阪には 適塾以外にも 理学研究集団はあったのだ。私の “大坂の洋学研究者集団と言えば 適塾しかない”、との思い込みが 誤解を生んでしまったのだった。大阪の歴史的文化的背景、フトコロの深さは 私の想像していたより遥かに 深く広いものであったのだと 改めて感じた次第であった。それは 現在の大阪を知る者にとって 想像を越えるものだったのだと あらためて思い直したのだ。日本に 東京以外に大大阪のあることの重要性を 思い起こすのだ。
とにかく、これで私の誤解を解く 彷徨はようやく終焉したのだった。忙しい仕事の傍らながら、アホな独り相撲でほっつき歩いていて これで良かったのだろうか との自己嫌悪感にさいなまれながら……。少々 下らない お話でした。
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実は、私は 大阪大学が 適塾の伝統を受け継ぐ正当な機関であるというのは 大いに疑問があるかも知れない、と密かに 思い続けていたのだ。
というのは、従来から もし、阪大が適塾の伝統を受け継ぐべき機関であるならば、慶応大とは 姉妹校というような、両者に非常に深い関係があってしかるべきであるにも拘わらず、両者にはその意識がないのは どういうことだろうと思っていたのだ。私学と 国立の溝なのか。それぞれのプライドが許さないのか。まぁ 無理矢理 群れたがるのも 自尊心を欠いた印象で好ましいこととは言えないかも知れないのだが。
何となくそういう風に思っていたところ、十数年前 大阪城の近くのある場所で、偶然に見た碑文に、その碑文の在る所に西洋理学の研究集団が在ったが、彼らは 明治10年頃に こぞって京都に転出し、それが 現在の京都大学の母体の一つとなった、というような意味のことが書かれていたのを“発見”したのだ。私は 咄嗟に これは適塾の後継者達が 京都に ごっそり移転して行ってしまった証拠なのだと思い込んでしまったのだ。
このことをもって、私は、阪大が実は 適塾の後継者であることを“僭称”しており、適塾の伝統は実は京大が引き継いだのが歴史的事実なのだと思い込んでしまったのだ。だから、阪大と慶応大の姉妹校関係は 語られることはないのだ、とも納得してしまったのだ。
そして、こういうことを思い出す度に 親しい人には “実はバナシ”を紹介し、“私は そういう碑文を見たのだ。”と したり顔で 話していたものだった。その時 “碑文”という言葉は、決め台詞として非常に説得力があった。
では 何故 このことが京大側からも 言い出されず、“阪大の僭称”を黙認しているのか分からないことになる。どうしてなのか、やっぱり気になるので 先日の適塾見学後、私なりに 歩き回ってみた。
まずは、その“碑文” を もう一度捜し出して、再度確認するべきだ。ところが 何度か 以前に行き会った碑文の場所が、天満橋の南側のどこかだったが、なかなか見つからない。90年代以降 不景気が襲ってはいたが、大阪の街並みも かなり変化していて分かり難くなっていたのだ。
そこで 当の阪大の博物館・待兼山修学館に行ってみた。阪急の石橋の豊中キャンパスの入口にある博物館だ。昔は、このような施設は無く、医療技術短期大学の在った建物をリニューアルして使われていた。国立大学も独法化し 自立するにあたってPR拠点を必要としたのだろう。(京大にも同様の博物館が在る。)
ここには 阪大が関わって来た科学技術史が紹介されている。そして 探すべき“阪大の系譜”も パネル等にして展示されていた。残念ながら 館内は撮影禁止。
1階は受付と、コジャレた軽食堂・カフェ“坂”があり、阪大にまつわるメモリアル・グッヅなどのショップもある。ここで、昼食を摂ることにした。入場は無料だが 残念ながらというか 見学者には ありがたいことなのだが、あまり来訪者は ない。気軽に マイペースで過ごすことが可能なので ある意味 ゆったり時間潰しをするには穴場ではあるような気がする。
展示物で、私なりに驚いたのが 阪大が日本で初めて真空管電子計算機に取組んだということだったことである。当時の研究・製作物が展示されていて、沢山の真空管と配線に圧倒されてしまう。何とも1箇所の配線間違いがとんでもないことになるに違いないのだが、そのような作業を思うと気が遠くなる思いがする。これを主導した先生が 工学部時代に使用した 応用数学の教科書の著者だったとは 驚きであった。
屋上からは 北摂から六甲山系を一望でき、伊丹空港も視野に入る。屋上でも あまりにも人が居ないことに 今度は不安になるくらいであった。
その訪れた時は、たまたま 戦前の大阪観光のPRフィルムを無人で しかもエンドレスで映写していた。大大阪の昔日の栄光を見ることが出来た。ついでながら、地下鉄・御堂筋線が実は 梅田とナンバではなくて心斎橋をつなぐことが目的だったようなのを始めて知った。
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さて肝心の適塾についてどのように説明されているのか であるが、特に明治期にどうなったのかが興味の焦点になる。ここでのパネルにも適塾門下生の名前があったが、高知県に竜馬の名前は無かった。多分、研究調査者や文献・出典は同じなのだろうが。
適塾そのものは 将軍の奥医師となった洪庵の死と、その後の倒幕によって 形式は失われたようだが、展示パネルによれば 塾活動自体は明治期も残ったようだ。それとは別の動きなのか 軌を一にするのかどうか不明だが、洪庵の子息等を中心に 明治2年に大阪府仮病院,医学校が設立され、大阪府立高等医学校、府立医科大学へと変遷し、昭和6年国立移管となり大阪帝国大学医学部となった由である。
したがって、阪大医学部が適塾の系譜を引き継いでいるというのは適切であり、私の“阪大の僭称”という決め付けは やっぱり 事実には反するようだ。まぁ 当然の結論ではあったのだ。
ならば あの碑文は一体何なのか。
慎重にネット上で調査してみた。するとやっぱりあの碑文はあるようだった。私が、“適塾の後継者達”と思った集団は一体何だったのか。
石碑は “大阪市営地下鉄の谷町四丁目駅から 北東に200m。大阪家庭裁判所の向い側, 大阪府庁新別館と 大阪府警本部の間の 南入口の植込みの中に埋もれるように,建っている。”とあった。続けて “発祥碑の隣に「舎蜜局址」という石碑も建っている。この場所には 1869(明治2)年に 理化学の教育機関として 舎蜜局(せいみきょく)が開設されたが, まもなく 洋学校と合併して「開成所」となり, さらに変遷を重ね 後に京都大学へと発展していった。”さらに“舎蜜局跡にできた「大阪司薬場」は 1887(明治20)年に「大阪衛生試験所」となり, 戦後一時空白期間があったが, 1949(昭和24)年に「国立衛生試験所大阪支所」となって中央区法円坂に移転。 1997(平成9)年 国立衛生試験所は「国立医薬品食品衛生研究所」に組織変更となり, 現在 大阪支所は 茨木市に移転している。”とあった。
*“舎蜜(せいみ)”とは chemistry(化学)の江戸期の漢語訳。
これだ!決定的である。そして その碑文を探しに もう一度出かけてみた。路上に緑地があるような場所を地図上で探してみて それを頼りに行ってみた。石碑が 繁茂する植え込みに隠れてしまっていた。だが、なるほど、その通りだった。この植え込みの繁茂は ずいぶんと予想外のものであり、また、私の 記憶していたつもりの場所より ずいぶん南側ではあったが 確かに かつて見た 碑文の記憶が よみがえる気分であった。
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どうやら 大阪には 適塾以外にも 理学研究集団はあったのだ。私の “大坂の洋学研究者集団と言えば 適塾しかない”、との思い込みが 誤解を生んでしまったのだった。大阪の歴史的文化的背景、フトコロの深さは 私の想像していたより遥かに 深く広いものであったのだと 改めて感じた次第であった。それは 現在の大阪を知る者にとって 想像を越えるものだったのだと あらためて思い直したのだ。日本に 東京以外に大大阪のあることの重要性を 思い起こすのだ。
とにかく、これで私の誤解を解く 彷徨はようやく終焉したのだった。忙しい仕事の傍らながら、アホな独り相撲でほっつき歩いていて これで良かったのだろうか との自己嫌悪感にさいなまれながら……。少々 下らない お話でした。
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