The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
京都・大原、孤独のハイク
ウクライナ戦争は、ルガンスク(ルハンシク)州のセベロドネツク市がロシア軍の総攻撃を受けており、第二のマリウポリになりつつあることが焦点になってきている。ロシア軍はキーウ、ハリキウと次々撤退して、ウクライナ全土掌握には失敗したが、東部から南部クリミアに至る部分では軍事的掌握に成功しつつあり、ルガンスク、ドネツクの親露派支配地域を独立共和国として承認したロシアは、セベロドネツクを陥落させれば、一応プーチンの目的は達することになる。これを機に、プーチンは退陣すると思われているようだ。
それを受けての、ヘンリー・キッシンジャーによるロシアへのウクライナの領土割譲の容認発言であろう。 またバイデン大統領のウクライナ支援も熱が冷め始めている、との観測もあるようだ。
ウクライナ復興にはポーランドが入り込んでくるだろうとの観測もあるようだ。その観点で、ゼレンスキー政権、ウクライナ軍の命運はセベロドネツク陥落の是非で大きく転換する可能性がある。
ウクライナ軍がセベロドネツク死守に成功すればロシア軍は崩壊し、南部ヘルソンの維持も困難となり、ヘルソンから水の供給を受けているクリミアも手放さなければならなくなる。一気にロシア軍の全面撤退、或いは降伏となり、プーチン政権には悲劇的結果となる。セベロドネツク決戦はウクライナ戦争の天王山になるのではないか。
さらに踏み込んだ中村逸郎教授によれば、ロシア国内でも様々な反戦的動きがあるという。ロシア軍は既に近代的軍隊ではなく、野蛮な山賊軍となっており、兵士はウクライナ人を片っ端から拉致し身代金を要求して私益に走っているという。北朝鮮による拉致被害のレベルではないようだ。
最早ウクライナ戦争後、ロシア帝国は国際的孤立の中、その軍は既に兵力の三分の一を損耗し、経済や財政はガタガタ。このため再建・復興は無理と見切った地方は独立を指向すると見られ、モスクワ公国、タタール共和国、シベリア中央アジアの遊牧民国家、ラマ共和国、極東共和国等に分裂するだろうという。これは衝撃的憶測だ。
そうなれば、明らかに極東共和国は中国の餌食となる。この場合、日本はグズグズしていれば北方領土は中国の権益下に入ってしまうだろう。ソ連崩壊時も日本政府はグズグズしていて絶好の好機を逃したので、その可能性は大きいのではないか。のんびりした外務省の対応では、この度北欧に見られたような機敏な対応は恐らくムリ。
要は、ウクライナ戦争は“民主主義対専制主義”の戦いの最終戦争ハルマゲドンの始まりであり、最初の局地戦であるとも見れるのではあるまいか。ロシア帝国の崩壊となって対露戦争は終わっても、後には対中戦争が控えていると考えるべきなのであろう。
バイデン大統領は、国連安保理での日本の理事国入りを支持した。それはこれまでの米国の姿勢の180度転換を示すものであり、場合によっては国連改革の具体案を腹案として持っていることを示すものではないか。或いは、ロシア、中国の影響を受けない強力な国際機関の設立を狙っているのかも知れない。その前哨としてのQuadであり、IPEFであるのかも知れない。これも対中ハルマゲドンへの準備であり、その戦後処理の枠組みとも考えるべきなのかも知れない。
コロナ禍への日本政府の対応として、“外国人観光客の受け入れを6月10日から再開”とのこと。そして、“入国時の検査実績で陽性率が低い国については入国時検査を行わずに入国を認めることにする”という。国内のPCR検査をおろそかにし、国内の陽性率を無視し続ける政府が、こんな台詞を吐くとは呆れ返ってしまう。国内の陽性率は低くない。だから、公式発表の感染者数そのものが疑わしい数字になっている。これが先進国の公表する数字であろうか。
公表されている陽性者数とPCR検査者数で計算すると場合によっては、100%を超える都道府県もある。これは分子と分母のタイミングが同じでないために生じている、データ上の問題だと思える。そういうタイミングを揃えてデータを整備するなどは、AI時代簡単なはずだが、それができていない“先進国”なのだ。これが“科学立国”の実情だ。
さて、前述の通り政府がいよいよ外国人観光客への門戸開放に向けて動き出すとのこと。とにかく今後外国人を含め、再び京都のめぼしい観光地は観光客であふれかえる方向性は間違いない。その前に、今のうちに京都巡りをしておこうと考えている。
そこで、さしずめ思い起こしたのが大原だ。この地は、かつて学生時代に友人と来たキリだ。したがい、何十年ぶりということになる。残念ながら、男二人だった。だが何故か、ほとんど覚えていることがない。大原の農村風景と三千院の立派な御殿門くらいしか、不思議なくらい記憶にないのだ。
また大原は、最近はガーデニングで著名な“ベニシアさん”が移り住んだことでも知られている。NHK・TVで見られる里山生活へのあこがれも若干あった。(近況は残念ながら目を病んでおられるようだ。)
たまたま先週の審査報告書を事務局のある四条烏丸に持って行くことにしたので、その後、大原にお気楽の“孤独のハイク”をすることにした。どうも、私の使っている交通案内アプリでは“大原”バス停が出て来難い状態になっていて、ルート探査が難しかった。京都市街地からは大原への一般交通機関としては京都バスしかアクセスしていない。最初に出て来たのが、地下鉄で国際会館前まで出て、京都バスに乗り換えるコースだ。それで予定を組んで帰路を探査すると、同じ京都バスの別系統JR京都駅行きがあり、これで中心市街とのバスでの往復も可能と後で分かった、という分かり難さがあった。
ネットで観光案内を探って、大原バス停から先ず“音無の滝”へ行き、三千院前の茶店で昼食、それから“三千院”、“寂光院”を周って、“里の駅・大原”に寄って、地元の名産品を物色、“石垣のある町並み”を見て、戸寺バス停から帰路に就くというコースをたどることにした。
現地到着は早目がいいだろうと、行きは地下鉄で国際会館前に出て、京都バスに乗ることとした。
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実際に国際会館前のバス停に、目指すバスの20分前に行って見ると、お若くはない女性陣が既に大勢居られ、ジジイ一人は私だけ。男性客はカップルでお見えで、少々気が重くなる。
大原の里に入るまで狭隘な谷間を抜けるのだが、数年前の豪雨の跡なのか、倒木が多数放置されているところもあり、自然の厳しさを思い知らされる。
大原バス停に到着次第、孤独のハイカーとして急いで、第一の目的地“音無の滝”を目指すこととした。2度目とは言え全く記憶の外、初めてと同じ、まして“音無の滝”は行ったことのない場所なので、I’m stranger here!不安が募る。
三千院を過ぎ、来迎院を過ぎ、次第に傾斜が急になる山道をひたすら歩いて、ようやく至った“音無の滝”。実態は小さな砂防ダムと思える石垣からチョロチョロ流れる水が、その正体だった。どの観光案内図にも掲載されているので、どんなに絶景なのかと大いに期待して行って見たのだが、・・・。
これならば、来迎院を拝観したほうがはるかに良かったのかも知れない。
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ガッカリしながら下り道を、三千院前の茶店に向かって急いだ。こうなれば昼食だけが楽しみ。目指すは“鯖寿司定食”。大原は福井から京都への鯖街道のルート上に在る。だから“鯖寿司”は御当地名物のハズ!これは、ほぼ期待通り。
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昼食後、三千院拝観。三千院はWikipediaによれば、“天台宗の寺院。山号は魚山(ぎょざん)。本尊は薬師如来。青蓮院、妙法院とともに、天台宗山門派*の三門跡寺院の1つ”とある。
*比叡山延暦寺の天台座主3世円仁(えんにん)と,5世円珍(えんちん)との仏教解釈の相違から,その末流が対立。993年円仁派が比叡山の円珍派坊舎を焼き払ったため,円珍門流は山を下り園城寺(おんじょうじ)に入って独立。寺門派となり,円仁門流は延暦寺に拠って山門派と称した。
またWikipediaでは次のようである。
“三千院は8世紀、最澄の時代に比叡山に建立された円融房に起源を持ち、後に比叡山東麓の坂本(現・大津市坂本)に移され、たび重なる移転の後、1871年(明治4年)に現在地に移ったものである。「三千院」あるいは「三千院門跡」という寺名は大原に移転して以降使われるようになったもので、それ以前は「円融院(円融房)」「円徳院」「梨本門跡」「梶井宮」「梶井門跡」などと呼ばれた。一方、境内にある往生極楽院(旧称・極楽院)は、平安時代末期の12世紀から大原の地にあった阿弥陀堂であり、1871年(明治4年)に梶井門跡の本坊がこの地に移転してきてからその境内に取り込まれたもので、三千院と往生極楽院は元来は別々の寺院である。
境内には往生極楽院のほか、宸殿、客殿などの建物がある。このうち、境内南側の庭園内にある往生極楽院内部には国宝の阿弥陀三尊像を安置している。”
三千院の入口・御殿門は寺院にしては雄壮な印象で、“その石組みは城廓の石積み技術などで名高い近江坂本の穴太衆(あのうしゅう)という石工が積んだもの”と寺院HPにある。
受付から建物内へと進むと、客殿からのお庭・聚碧園(しゅうへきえん)鑑賞となる。豊富な水の流れの中にある池が良い。フト、鰻かとおもいきや、蛇が泳いでいるのが見えて驚く。水面にはアメンボ、水中には鯉が泳いでいる。木の葉には蝶が休息していた。まるで、生きものの楽園と見まがうばかりの光景だった。
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さらに進むと宸殿に至り、ここが本堂かと思われる。聚碧園とは趣が全く異なって、大木と地表が一面苔に覆われた庭・有清園が広がる。その木立のかなたにかすかに見える往生極楽院がある。これは、天台浄土教の大成者である恵心僧都源信が父母の菩提のため、姉の安養尼とともに建立したという。中には阿弥陀三尊像が祀られていて、それはお堂に比べて大きく、堂内に納める工夫として、天井を舟底型に折り上げているのが特徴。
恐らく、前回来たときはこの辺りまでだったのではないかと思われるが、公開されている境内はまだ奥まで続く。
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金色不動堂は、護摩祈祷を行う祈願道場として平成元年に建立され、観音堂は平成10年に建立されたという。
川向うにいきなり、朽ち果てそうな苔むした大きな石仏があった。“この石仏は高さ2.25メートルの単弁の蓮華座上に結跏跌座する、定印阿弥陀如来(じょういんあみだにょらい)で、おそらく「欣求浄土」を願ったこの地の念仏行者たちによって作られたもので、往時の浄土信仰を物語る貴重な遺物。またこの場所は、昔、炭を焼き始めた老翁が住んでいた「売炭翁(ばいたんおきな)旧跡」と伝えられることから、この阿弥陀さまをここ大原では親しみをこめて、売炭翁石仏と呼ぶようになった”とある。
三千院のHPには“おさな地蔵”とあるが、幼くして亡くした子供の供養であろうか、いかにも心を込めて刻んだ小さな石仏もあった。アジサイは未だこれからだった。
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さぁ三千院を終わって、次は寂光院、大原バス停のさらに西側。大原の里、農村風景を楽しみながらの約30分のハイキングとなる。
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♪京都 大原三千院 恋に疲れた女が一人~
という有名な歌詞の歌謡曲がかつて流行ったが、舞台が大原であれば本当は、寂光院の方がふさわしい。それは平清盛の娘・建礼門院徳子*が、平家滅亡後悲しみに暮れて隠棲した場所であり、『平家物語』ゆかりの寺だからだ。
*平 徳子(たいら の とくし/のりこ、1155年〈久寿2年〉~1214年1月25日〈建保元年12月13日〉)は、第80代高倉天皇の皇后(中宮)。院号は建礼門院。(建礼門院右京太夫は徳子に仕えた歌人)平清盛の次女。1171年(承安1)高倉天皇の女御に、翌年には中宮になった。78年(治承2)には言仁親王(後の安徳天皇)を生み、1183年(寿永2)7月の平氏都落ちには安徳天皇とともに同行したが、85年(元暦2)3月の壇ノ浦の海戦で入水、助けられて帰京の後、しばらくして大原寂光院(同左京区大原草生町)に移って仏に仕えた。
(『平家物語』(覚一本)は建久2年(1191年)2月に没したとするが、この時期はまだ人々に平氏への関心が高く、徳子の死も何らかの記録に残ったはずで可能性は薄い。そのため『皇代暦』『女院小伝』『女院記』などの記述から、建保元年(1213年)に生涯を閉じたとする説が一般的となっている。←現地・寂光院の説明でも36歳で亡くなったと言っていたが・・・。)
寂光院はWikipediaによれば、“天台宗の尼寺。山号は清香山。寺号は玉泉寺。本尊は地蔵菩薩。開基(創立者)は聖徳太子で、その父・用明天皇の供養のためと伝わる。”
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かつて一緒に行った友人が平家物語のラスト“大原御幸”について語っていたことを思い出す。“エロ・ジジィが悲しんでいる美人未亡人に下心持って通ってきた。わざわざこんな所に来るのかねぇ。”というような言葉を繰り返していた記憶がある。その友人も、もうこの世では逢えない、という一抹の寂しさが私にはある。確かにあの大河ドラマでは、後白河法皇は平家を大いに嫌っていた。その嫌っていた平清盛の二女・徳子にわざわざ会いに出向くというのは、非常に不自然だ。“美人未亡人に下心を持ったエロ・ジジィ”と勘繰られても仕方あるまい。
(だが、“大原御幸”の史実は“明確な一次史料は存在していないため、実際にあった出来事かどうかには諸説がある”という。)
寂光院のHPには次のようにある。“本堂は、平成12(2000)年の火災で焼失した。小松前住職の「すべて元の通りに」の言葉通りに、焼け残った木組みや部材を入念に調査し、材木を吟味して、5年の歳月を経て平成17(2005)年6月2日に落慶した。
池水に汀の桜散り敷きて 波の花こそ盛なりけれ (『平家物語』大原御幸)
文治2(1186)年4月下旬、後白河法皇が忍びの御幸で建礼門院の閑居を訪ねたおりの一首。
本堂前には桜(汀の桜)と松(姫小松)があり、往時をしのぶことができる。姫小松は樹高15メートル余りで樹齢数百年になるものであったが、平成12(2000)年の火災で枯れて”しまった、とある。
そうだ、すっかり忘れていたが、寂光院の本堂、及び本尊は近年火災で焼損していたのだ。その痛手から既に復興していたのだ。原因は放火。心無いこと、情けない。
焼損した本尊(重要文化財)は鎌倉時代に制作されたが、境内奥の収蔵庫に保存されているという。現在は財団法人美術院によって修復された地蔵菩薩像が立派に本堂に安置されている。
この本尊の胎内には、5~11㎝の地蔵菩薩の小像3,417体や教典5巻、香袋など、本尊本体と一括で重文指定されている貴重な品々が17個の桐箱に入れて、像内に納められていたといい、現在は宝物殿に展示されていた。
大原は紫蘇の栽培が盛んで紫蘇畑があちこちにあった。この紫蘇と建礼門院と柴漬けには次のような話があると初めて知った。
隠棲している建礼門院を慰めるべく、地元大原の人達は、この地に古くから保存食として作られてきた紫の紫蘇(しそ)の葉の漬け物を献上した。この紫色は高貴な色なので、紫葉(むらさきは)漬けと名付けと名付けて愛でたという。また、大原は昔から、柴や薪を頭に乗せて売り歩く「大原女」(おはらめ)で有名で、柴の産地でもあることから、柴漬けとも書き表したということ。
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寂光院から府道108号線を南下。右手に交番が見えた交差点で左手に下って、“里の駅 大原”にてアイスコーヒーで渇いた喉を潤し、足も休めて休憩。既に午後だったためか、思うような産物が見当たらず、残念ながら何も買わず。
そこから、グーグル・マップに“古い石垣と町並み”と書かれた一画の集落へ向かう。だがいざ行って見ると、ここは観光客が集まるような場所として整備されているわけではなく、そのまま普通の生活の場だと判明。そっと通過して、撮れそうな写真だけを撮って退散。そのままバス通りの国道367号線へ。戸寺バス停から京都市街地へ帰路を取った。
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それを受けての、ヘンリー・キッシンジャーによるロシアへのウクライナの領土割譲の容認発言であろう。 またバイデン大統領のウクライナ支援も熱が冷め始めている、との観測もあるようだ。
ウクライナ復興にはポーランドが入り込んでくるだろうとの観測もあるようだ。その観点で、ゼレンスキー政権、ウクライナ軍の命運はセベロドネツク陥落の是非で大きく転換する可能性がある。
ウクライナ軍がセベロドネツク死守に成功すればロシア軍は崩壊し、南部ヘルソンの維持も困難となり、ヘルソンから水の供給を受けているクリミアも手放さなければならなくなる。一気にロシア軍の全面撤退、或いは降伏となり、プーチン政権には悲劇的結果となる。セベロドネツク決戦はウクライナ戦争の天王山になるのではないか。
さらに踏み込んだ中村逸郎教授によれば、ロシア国内でも様々な反戦的動きがあるという。ロシア軍は既に近代的軍隊ではなく、野蛮な山賊軍となっており、兵士はウクライナ人を片っ端から拉致し身代金を要求して私益に走っているという。北朝鮮による拉致被害のレベルではないようだ。
最早ウクライナ戦争後、ロシア帝国は国際的孤立の中、その軍は既に兵力の三分の一を損耗し、経済や財政はガタガタ。このため再建・復興は無理と見切った地方は独立を指向すると見られ、モスクワ公国、タタール共和国、シベリア中央アジアの遊牧民国家、ラマ共和国、極東共和国等に分裂するだろうという。これは衝撃的憶測だ。
そうなれば、明らかに極東共和国は中国の餌食となる。この場合、日本はグズグズしていれば北方領土は中国の権益下に入ってしまうだろう。ソ連崩壊時も日本政府はグズグズしていて絶好の好機を逃したので、その可能性は大きいのではないか。のんびりした外務省の対応では、この度北欧に見られたような機敏な対応は恐らくムリ。
要は、ウクライナ戦争は“民主主義対専制主義”の戦いの最終戦争ハルマゲドンの始まりであり、最初の局地戦であるとも見れるのではあるまいか。ロシア帝国の崩壊となって対露戦争は終わっても、後には対中戦争が控えていると考えるべきなのであろう。
バイデン大統領は、国連安保理での日本の理事国入りを支持した。それはこれまでの米国の姿勢の180度転換を示すものであり、場合によっては国連改革の具体案を腹案として持っていることを示すものではないか。或いは、ロシア、中国の影響を受けない強力な国際機関の設立を狙っているのかも知れない。その前哨としてのQuadであり、IPEFであるのかも知れない。これも対中ハルマゲドンへの準備であり、その戦後処理の枠組みとも考えるべきなのかも知れない。
コロナ禍への日本政府の対応として、“外国人観光客の受け入れを6月10日から再開”とのこと。そして、“入国時の検査実績で陽性率が低い国については入国時検査を行わずに入国を認めることにする”という。国内のPCR検査をおろそかにし、国内の陽性率を無視し続ける政府が、こんな台詞を吐くとは呆れ返ってしまう。国内の陽性率は低くない。だから、公式発表の感染者数そのものが疑わしい数字になっている。これが先進国の公表する数字であろうか。
公表されている陽性者数とPCR検査者数で計算すると場合によっては、100%を超える都道府県もある。これは分子と分母のタイミングが同じでないために生じている、データ上の問題だと思える。そういうタイミングを揃えてデータを整備するなどは、AI時代簡単なはずだが、それができていない“先進国”なのだ。これが“科学立国”の実情だ。
さて、前述の通り政府がいよいよ外国人観光客への門戸開放に向けて動き出すとのこと。とにかく今後外国人を含め、再び京都のめぼしい観光地は観光客であふれかえる方向性は間違いない。その前に、今のうちに京都巡りをしておこうと考えている。
そこで、さしずめ思い起こしたのが大原だ。この地は、かつて学生時代に友人と来たキリだ。したがい、何十年ぶりということになる。残念ながら、男二人だった。だが何故か、ほとんど覚えていることがない。大原の農村風景と三千院の立派な御殿門くらいしか、不思議なくらい記憶にないのだ。
また大原は、最近はガーデニングで著名な“ベニシアさん”が移り住んだことでも知られている。NHK・TVで見られる里山生活へのあこがれも若干あった。(近況は残念ながら目を病んでおられるようだ。)
たまたま先週の審査報告書を事務局のある四条烏丸に持って行くことにしたので、その後、大原にお気楽の“孤独のハイク”をすることにした。どうも、私の使っている交通案内アプリでは“大原”バス停が出て来難い状態になっていて、ルート探査が難しかった。京都市街地からは大原への一般交通機関としては京都バスしかアクセスしていない。最初に出て来たのが、地下鉄で国際会館前まで出て、京都バスに乗り換えるコースだ。それで予定を組んで帰路を探査すると、同じ京都バスの別系統JR京都駅行きがあり、これで中心市街とのバスでの往復も可能と後で分かった、という分かり難さがあった。
ネットで観光案内を探って、大原バス停から先ず“音無の滝”へ行き、三千院前の茶店で昼食、それから“三千院”、“寂光院”を周って、“里の駅・大原”に寄って、地元の名産品を物色、“石垣のある町並み”を見て、戸寺バス停から帰路に就くというコースをたどることにした。
現地到着は早目がいいだろうと、行きは地下鉄で国際会館前に出て、京都バスに乗ることとした。
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実際に国際会館前のバス停に、目指すバスの20分前に行って見ると、お若くはない女性陣が既に大勢居られ、ジジイ一人は私だけ。男性客はカップルでお見えで、少々気が重くなる。
大原の里に入るまで狭隘な谷間を抜けるのだが、数年前の豪雨の跡なのか、倒木が多数放置されているところもあり、自然の厳しさを思い知らされる。
大原バス停に到着次第、孤独のハイカーとして急いで、第一の目的地“音無の滝”を目指すこととした。2度目とは言え全く記憶の外、初めてと同じ、まして“音無の滝”は行ったことのない場所なので、I’m stranger here!不安が募る。
三千院を過ぎ、来迎院を過ぎ、次第に傾斜が急になる山道をひたすら歩いて、ようやく至った“音無の滝”。実態は小さな砂防ダムと思える石垣からチョロチョロ流れる水が、その正体だった。どの観光案内図にも掲載されているので、どんなに絶景なのかと大いに期待して行って見たのだが、・・・。
これならば、来迎院を拝観したほうがはるかに良かったのかも知れない。
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ガッカリしながら下り道を、三千院前の茶店に向かって急いだ。こうなれば昼食だけが楽しみ。目指すは“鯖寿司定食”。大原は福井から京都への鯖街道のルート上に在る。だから“鯖寿司”は御当地名物のハズ!これは、ほぼ期待通り。
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昼食後、三千院拝観。三千院はWikipediaによれば、“天台宗の寺院。山号は魚山(ぎょざん)。本尊は薬師如来。青蓮院、妙法院とともに、天台宗山門派*の三門跡寺院の1つ”とある。
*比叡山延暦寺の天台座主3世円仁(えんにん)と,5世円珍(えんちん)との仏教解釈の相違から,その末流が対立。993年円仁派が比叡山の円珍派坊舎を焼き払ったため,円珍門流は山を下り園城寺(おんじょうじ)に入って独立。寺門派となり,円仁門流は延暦寺に拠って山門派と称した。
またWikipediaでは次のようである。
“三千院は8世紀、最澄の時代に比叡山に建立された円融房に起源を持ち、後に比叡山東麓の坂本(現・大津市坂本)に移され、たび重なる移転の後、1871年(明治4年)に現在地に移ったものである。「三千院」あるいは「三千院門跡」という寺名は大原に移転して以降使われるようになったもので、それ以前は「円融院(円融房)」「円徳院」「梨本門跡」「梶井宮」「梶井門跡」などと呼ばれた。一方、境内にある往生極楽院(旧称・極楽院)は、平安時代末期の12世紀から大原の地にあった阿弥陀堂であり、1871年(明治4年)に梶井門跡の本坊がこの地に移転してきてからその境内に取り込まれたもので、三千院と往生極楽院は元来は別々の寺院である。
境内には往生極楽院のほか、宸殿、客殿などの建物がある。このうち、境内南側の庭園内にある往生極楽院内部には国宝の阿弥陀三尊像を安置している。”
三千院の入口・御殿門は寺院にしては雄壮な印象で、“その石組みは城廓の石積み技術などで名高い近江坂本の穴太衆(あのうしゅう)という石工が積んだもの”と寺院HPにある。
受付から建物内へと進むと、客殿からのお庭・聚碧園(しゅうへきえん)鑑賞となる。豊富な水の流れの中にある池が良い。フト、鰻かとおもいきや、蛇が泳いでいるのが見えて驚く。水面にはアメンボ、水中には鯉が泳いでいる。木の葉には蝶が休息していた。まるで、生きものの楽園と見まがうばかりの光景だった。
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さらに進むと宸殿に至り、ここが本堂かと思われる。聚碧園とは趣が全く異なって、大木と地表が一面苔に覆われた庭・有清園が広がる。その木立のかなたにかすかに見える往生極楽院がある。これは、天台浄土教の大成者である恵心僧都源信が父母の菩提のため、姉の安養尼とともに建立したという。中には阿弥陀三尊像が祀られていて、それはお堂に比べて大きく、堂内に納める工夫として、天井を舟底型に折り上げているのが特徴。
恐らく、前回来たときはこの辺りまでだったのではないかと思われるが、公開されている境内はまだ奥まで続く。
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金色不動堂は、護摩祈祷を行う祈願道場として平成元年に建立され、観音堂は平成10年に建立されたという。
川向うにいきなり、朽ち果てそうな苔むした大きな石仏があった。“この石仏は高さ2.25メートルの単弁の蓮華座上に結跏跌座する、定印阿弥陀如来(じょういんあみだにょらい)で、おそらく「欣求浄土」を願ったこの地の念仏行者たちによって作られたもので、往時の浄土信仰を物語る貴重な遺物。またこの場所は、昔、炭を焼き始めた老翁が住んでいた「売炭翁(ばいたんおきな)旧跡」と伝えられることから、この阿弥陀さまをここ大原では親しみをこめて、売炭翁石仏と呼ぶようになった”とある。
三千院のHPには“おさな地蔵”とあるが、幼くして亡くした子供の供養であろうか、いかにも心を込めて刻んだ小さな石仏もあった。アジサイは未だこれからだった。
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さぁ三千院を終わって、次は寂光院、大原バス停のさらに西側。大原の里、農村風景を楽しみながらの約30分のハイキングとなる。
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♪京都 大原三千院 恋に疲れた女が一人~
という有名な歌詞の歌謡曲がかつて流行ったが、舞台が大原であれば本当は、寂光院の方がふさわしい。それは平清盛の娘・建礼門院徳子*が、平家滅亡後悲しみに暮れて隠棲した場所であり、『平家物語』ゆかりの寺だからだ。
*平 徳子(たいら の とくし/のりこ、1155年〈久寿2年〉~1214年1月25日〈建保元年12月13日〉)は、第80代高倉天皇の皇后(中宮)。院号は建礼門院。(建礼門院右京太夫は徳子に仕えた歌人)平清盛の次女。1171年(承安1)高倉天皇の女御に、翌年には中宮になった。78年(治承2)には言仁親王(後の安徳天皇)を生み、1183年(寿永2)7月の平氏都落ちには安徳天皇とともに同行したが、85年(元暦2)3月の壇ノ浦の海戦で入水、助けられて帰京の後、しばらくして大原寂光院(同左京区大原草生町)に移って仏に仕えた。
(『平家物語』(覚一本)は建久2年(1191年)2月に没したとするが、この時期はまだ人々に平氏への関心が高く、徳子の死も何らかの記録に残ったはずで可能性は薄い。そのため『皇代暦』『女院小伝』『女院記』などの記述から、建保元年(1213年)に生涯を閉じたとする説が一般的となっている。←現地・寂光院の説明でも36歳で亡くなったと言っていたが・・・。)
寂光院はWikipediaによれば、“天台宗の尼寺。山号は清香山。寺号は玉泉寺。本尊は地蔵菩薩。開基(創立者)は聖徳太子で、その父・用明天皇の供養のためと伝わる。”
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かつて一緒に行った友人が平家物語のラスト“大原御幸”について語っていたことを思い出す。“エロ・ジジィが悲しんでいる美人未亡人に下心持って通ってきた。わざわざこんな所に来るのかねぇ。”というような言葉を繰り返していた記憶がある。その友人も、もうこの世では逢えない、という一抹の寂しさが私にはある。確かにあの大河ドラマでは、後白河法皇は平家を大いに嫌っていた。その嫌っていた平清盛の二女・徳子にわざわざ会いに出向くというのは、非常に不自然だ。“美人未亡人に下心を持ったエロ・ジジィ”と勘繰られても仕方あるまい。
(だが、“大原御幸”の史実は“明確な一次史料は存在していないため、実際にあった出来事かどうかには諸説がある”という。)
寂光院のHPには次のようにある。“本堂は、平成12(2000)年の火災で焼失した。小松前住職の「すべて元の通りに」の言葉通りに、焼け残った木組みや部材を入念に調査し、材木を吟味して、5年の歳月を経て平成17(2005)年6月2日に落慶した。
池水に汀の桜散り敷きて 波の花こそ盛なりけれ (『平家物語』大原御幸)
文治2(1186)年4月下旬、後白河法皇が忍びの御幸で建礼門院の閑居を訪ねたおりの一首。
本堂前には桜(汀の桜)と松(姫小松)があり、往時をしのぶことができる。姫小松は樹高15メートル余りで樹齢数百年になるものであったが、平成12(2000)年の火災で枯れて”しまった、とある。
そうだ、すっかり忘れていたが、寂光院の本堂、及び本尊は近年火災で焼損していたのだ。その痛手から既に復興していたのだ。原因は放火。心無いこと、情けない。
焼損した本尊(重要文化財)は鎌倉時代に制作されたが、境内奥の収蔵庫に保存されているという。現在は財団法人美術院によって修復された地蔵菩薩像が立派に本堂に安置されている。
この本尊の胎内には、5~11㎝の地蔵菩薩の小像3,417体や教典5巻、香袋など、本尊本体と一括で重文指定されている貴重な品々が17個の桐箱に入れて、像内に納められていたといい、現在は宝物殿に展示されていた。
大原は紫蘇の栽培が盛んで紫蘇畑があちこちにあった。この紫蘇と建礼門院と柴漬けには次のような話があると初めて知った。
隠棲している建礼門院を慰めるべく、地元大原の人達は、この地に古くから保存食として作られてきた紫の紫蘇(しそ)の葉の漬け物を献上した。この紫色は高貴な色なので、紫葉(むらさきは)漬けと名付けと名付けて愛でたという。また、大原は昔から、柴や薪を頭に乗せて売り歩く「大原女」(おはらめ)で有名で、柴の産地でもあることから、柴漬けとも書き表したということ。
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寂光院から府道108号線を南下。右手に交番が見えた交差点で左手に下って、“里の駅 大原”にてアイスコーヒーで渇いた喉を潤し、足も休めて休憩。既に午後だったためか、思うような産物が見当たらず、残念ながら何も買わず。
そこから、グーグル・マップに“古い石垣と町並み”と書かれた一画の集落へ向かう。だがいざ行って見ると、ここは観光客が集まるような場所として整備されているわけではなく、そのまま普通の生活の場だと判明。そっと通過して、撮れそうな写真だけを撮って退散。そのままバス通りの国道367号線へ。戸寺バス停から京都市街地へ帰路を取った。
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