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源義経と平家

05.10.03
国民的英雄・義経について。ISOマネジメントとは まったく関係ない話かも知れませんが、どうにも気になるし、ブログに書いてみて大方の反応があれば幸いのような気がして 書いてみました。

NHK大河歴史ドラマ“義経”を毎週見ています。http://www3.nhk.or.jp/taiga/
ところが、晩酌で酔っているせいか 気がつくと眠ってしまっているのです。何故だろうと、考えてみたのですが、どうにもつまらない。というか 義経が バカに見えるのです。

鎌倉・征平家軍の現地総司令官は源範頼です。これは、平家攻めでは、終始変わらなかった。義経は 常に 搦め手軍の司令官。いわば、遊撃隊の隊長。これも平家が壇ノ浦に消えるまで変わらなかった。
にも 拘わらず、義経は常に目立っていた。常に エエカッコ していた。そんな印象です。ですから 他の東国の武士団から見た場合、どうにも鼻持ちならない存在だったのは理解できます。
それに、義経は 本当に戦術的天才?だったのだろうか。
百歩譲って 一の谷、屋島、壇ノ浦での勝利を評価した、としても どうにも理解できないのは、義経は 戦争目的を 正確に認識していなかったのではないか。本来、何が目的の“いくさ”だったのか、です。“平家の覇権消滅”が目的ならば 平家が私物化していた“三種の神器奪還と、その政治的利用”が 第一の戦争目的というか 勝利目標ではないのか。であれば、何故 一の谷での取り逃がしを 屋島、壇ノ浦でもやってしまったのか。二度も三度も 同じ失敗を犯して、挙句の果てに 宝剣を逸失してしまった。その罪は 重大であると思うのです。日本史上 極めて珍しい重大な罪を 犯している。これが天才であろうか、の疑問です。常に 前後の見境なく 無茶な突進ばかりしている。“いくさ”目付の梶原景時の義経評の“いのしし武者”の方が 正しい評価ではないでしょうか。
戦術的には天才だったが、戦略的政治的には 才能がなかった、などということが 実際にあり得るのか。もし熟慮断行の結果の突撃ならば、戦略的政治的状況も十分理解できるハズだと思うのです。どうにも単なる 突進ではないのか、それがが天才なのか、という気がしてしようがない、のです。
単なる搦め手遊撃隊の隊長が、総司令部の承諾なしに、入手した神器を勝手に後白河法皇に返却してしまったのは、明らかに越権行為です。
もしやして、単なるバカのエエカッコシィでしかないのではないか。これがどうして国民的英雄になるのか不思議・・・・。
あの有名な“八艘飛び”も 戦闘で負ケソーになって その場から、逃げ延びただけの話でしょう。賞賛される話でもない。
倶利伽羅峠の木曽義仲の方が 工夫があって、戦術的天才のような気がします。

それにしてもあっさり滅んだ平家とは一体何者?という疑問もあります。日宋貿易での収益で権力を握ったのならば、武士団と言うより 商人団と言うべきではないのか。
その 軍事組織は傭兵主力ではなかったのか。東国武士団との富士川での合戦の情けなさは 傭兵軍の敗走ような印象です。土地に根拠を持つのが普通の武士であったが、平家は土地に根拠がなかった印象です。屋島は 少数の義経軍に攻められてあっさり放棄。最後の根拠地は 彦島のみだった。瀬戸内の点と線、つまり寄港地の拠点と 海上通商の線のみ確保の印象です。
それに海上兵力自体も 金で雇った西国の水軍(海賊)の集合体ではないのか。本来、金でどうにでもなるから源氏の調略に熊野水軍はあっさり乗ったのではないのか。“ご恩奉公”などは この頃に、ようやく陸上の武士団に芽生えた思想のはず。まぁ 貨幣経済が そこまで発達していたか?の疑問もあるが、金でなければ物もありうる。
最近の 史学会では 出身が武士が貴族に転化した、つまり武装貴族のであるとの評価らしいのですが、本性は 商人に転化していたのではないのか。そうであれば、簡単に滅亡した理由は理解できるような気がします。平家は軍事力は宋銭で賄った商人集団だった。経済合理性で “いくさ”をすると 敗勢になれば 軍は直ぐに崩壊しますよね。

今後のこの方面の研究の進展期待。
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