The Rest Room of ISO Management
ISO休戦
“従軍慰安婦”発言をめぐって
先週は、現政権の危うい政策を“アベノリスク”として語った。この危うい政策の内には、日本を右旋回というより“戦前へ復古回帰”させようとするものも含まれる。この右旋回を もっと右つまり、より鮮明にさせようとする意図を含みつつ、大阪市長がした発言が 国際的に波紋を呼んでいる。
大阪市長という公人の発言が、いかにも国際的に見て社会正義に反し、しかも戦争責任を否認したかのようなものであったことに対する、国際的驚愕を反映しているのではないか。週末の報道によると、“国連の「拷問禁止委員会」は、いわゆる従軍慰安婦の問題を巡る大阪市長の発言などを念頭に、日本の「地方のトップや、政治家が事実を否定し、元慰安婦を傷つけている」と指摘して、政府がこうした発言に反論するよう求めた。”とある。国際的に 非常に恥ずかしいことだと、思うべきだが 当の御本人は自分の主張を撤回する気配はない。
そのような振る舞いに対し、大阪市議会は問責決議をしようとしたが、腰の定まらない政治屋によって否決されてしまった。悲しいことに日本の政治は目先の些末な損得だけで動いている印象だ。
日本が引き起こした“戦争”を“悪しき”ことだったと痛感し、反省する姿勢とその結果の客観的証拠の挙証責任が、日本人にはつきまとっているということを忘れてはならない。にもかかわらず、その戦争遂行の仕組の一つとしての従軍慰安婦のあり方で“強制性はなかった”などと強弁して、肯定的に振る舞うのは、あたかも無反省にも“悪しき戦争”をも肯定しているかのように、諸外国の人々には見えるのだ。そこに“強制性”が有ろうが、無かろうが それは“悪しき戦争”の前には実に些末な問題なのだ。些末なことに目くじらを立てて、“反省するべき”大局を見失ってしまっている。
国際的な常識としての社会正義はどこにあるのか。それは近代市民社会が成立して以降に生まれた“自由、平等”と、それを背景として戦後特に強調されるようになってきた“寛容”、特に“人々の存在のあり方への多様性”を許容し、尊重するという意味での“寛容”にある。こうした徳目を基礎にしていない考え方は、排除されるべき独善でしかない。それを踏まえた、“基本的人権”は重要だ。“従軍慰安婦”は、その対場に立った女性の“基本的人権”を奪うという、近代市民社会以降の基礎的徳目に反しているのだ。
恐らく、諸外国の人々は こうした民主主義の基本を理解していない弁護士が 日本には居て、しかも選挙で選ばれて大都市の知事や市長にもなれる、ということに驚きを感じているのではないか。日本の大学では、哲学で“正義論”が語られることは少ない。だからこそ、最近マイケル・サンデルの白熱講義は新鮮に映り、もてはやされたのに違いない。そもそも、日本では何故か哲学自体が語られることはあまりない。法哲学に至っては皆目無いのではないか。従い、国際的な常識としての最大公約数としての社会正義すら理解していない日本人が大半なのではないか。かくいう私も その点ではお寒い限りではある。日本には、何故かそのような環境がないのだ。だから、オッサンの貧しい“正義論”が 街で幅を利かすのではないか。それが、今回はしなくも露呈した。
残念なことに、特に日本の右派の人々には、そのような価値観は乏しい。にもかかわらず、安倍首相は かつて“同じ価値観を有するもの同士”の“価値観外交”を展開すると称していた。自己中心の国際的に孤立した独善であり、諸外国とは齟齬をきたしているにもかかわらず、特に韓国とは“同じ価値観”だと とんでもない誤解をしたままでいる。
まさに“人権外交”を標榜する米国には、こうした日本の右派政権は鬱陶しく映っているであろう。心ある米国人には、相当な知日派で無い限り、このような日本を真の同盟国としては見ることはできないであろう。それより、目先の利益となる中国に興味が赴くのは当然のことであり、6者協議でも米中韓のジャパン・パッシングとなっている。オメデタイことに、現政権には、そうした自覚すらない。
あまつさえ、現政権は現行憲法を 同盟国であるはずの米国の“押しつけ憲法である”と称し、国民の自由を奪い、制限的な民主主義政体を作り上げるための“憲法改正案”を提示している。まさに明治憲法への限りない回帰である。これにより、“戦後レジームからの脱却”は実は“戦前レジームへの回帰”であることが分かるのだ。
その行為は、単純に反米的なのだ。終戦後、米国占領軍は日本の憲法学者に新憲法素案を作るよう命じたが、文語調の文言を口語調にしたような改革内容の乏しいのを見て、埒が明かないとばかりに、米国の若い法律家を集めて作らせたという。それは、明治憲法の抑圧性、非民主性が戦争の大きな要因であると見てのことでもあったのだ。これを全面的に打ち消そうというのだから、自民の改憲案は 反動的にならざるを得ない。
こうした歴史的事実を無視した論理矛盾で、米国をはじめ近隣諸外国の理解を得られるのであろうか。少なくとも米国は、露骨な内政干渉と取られるような発言はしない。そういう内心を読み取れずに、憲法改正を目指す御本人達は、こんな単純な論理矛盾すら理解できていないのではないか。右派政治家達のオバカも極まれりである。
内心を読み取れないオバカと言えば、安倍政権はどうやら陛下の御心をも読みとれていないのではないか。先日の“主権回復の日”における陛下の御表情が 異様に歪んでおられたのをテレビ・ニュースで見た。あのような陛下を拝見したのは全く初めてだった。にもかかわらず、御退出なさろうとする陛下に、万歳三唱する不届き者も居て、非常に戸惑われていた。御高齢にもかかわらず、明らかに意に沿わない式典に御出座しになって御心労はいかばかりか。
これは現政権による天皇の政治利用そのものだ。不忠も極まれり。まさしく天皇の意向に反して中国で戦線を拡大し、抜き差しならない状態に陥れて、日米開戦にまで突き進んだ、“戦前回帰”そのものなのだ。天皇は国民一人ひとりを差別して扱うのは禁忌とされるが、昭和天皇はA級戦犯を憎んでおられたらしい、という。それは、その誰一人として天皇の御内意を理解せず、優柔不断のまま戦争を始め、継続させたからなのだ。靖国神社がA級戦犯を合祀して以降、昭和天皇も今上陛下も御参拝にならないのは、その傍証だ。その事実を右派の人々は、何故か無視している。
閑話休題。
さて売春婦は、世界最古の職業だと言われる。それだけに、その職業へのイメージは世界各地で、また時代によって様々であり、習俗も色々ある。日本にも それにまつわる独特の“文化”が育った。有名な神社仏閣への参拝客相手の娯楽提供が、芸者の始まりだと言われる。神仏の下の享楽、“祭り”にもそのような要素が多分にあったのだろう。まさに“祭りごと=政治”であった古代において、荒ぶる王の中の女王・卑弥呼も巧みな籠絡の技を弄したのかも知れない。
京都祇園の芸子や舞妓は八坂神社への参拝客目当てが始まりだったという。衣食住が不十分で貧しい時代には、きれいなべべ着て楽しげなのには憧れがあった。特に祇園は芸を磨き上げ、高級で上品だったので、蔑みが影を潜め憧れが勝っていたのは否めない。最近でも その憧れが残っているのか、若い女の子が舞妓さんの装束を着て喜んで街を歩く奇妙な風景を見ることができる。
さて、ここからは戦前を知る私のもっとも信頼する人から聞いた話を紹介したい。戦争当時も貧しい朝鮮では 朝鮮人の周旋屋が娘を慰安婦に調達しに来たのを、その一家は“誇り”にしたのが現実であったという。慰安婦に徴用されるのは、その娘が“美人”の証であり、一家はそれを近隣に誇ったという。当人はきれいな着物を着て楽しめると言って喜び、貧しい親はわずかな金が貰えて赤飯たいて喜んだ、という。この話を事実として確認することは、私にはできない。しかし、この伝承にはかなりの信憑性があるように思う。
その娘たちは、実際に“仕事”を始めてみてようやく苦界の現実を知ることになったが、それでもその対価は得ることができた。ところが、日本が戦争に負けると、彼女らは“仕事”を失った上に、日本軍に身を売って協力した卑劣女として、他の韓国人たちから蔑まれ差別されて辛い人生を送らざるを得なかったというのが実態だった。だから、無責任な言い方をすれば“従軍慰安婦”問題は、本来は韓国社会の中での問題であり、今更 それを暴き立て騒ぐのは恥ずかしいことではないか、と見る立場もあるのかも知れない。
しかし、そうした貧困や人々の意識は、日本の植民地支配によるものだという見方には理がある。被抑圧社会に、差別と選別の意識は人々の中に生まれ、それは中々消えるものではないからだ。
社会学者・上野千鶴子氏は、売買春について“カネを払えば女性の身体を自由にしていいのか。資本主義だって何でも商品にしていいわけではない。例えば債務奴隷は認められていないし、臓器の商品化も認められていない。侵襲性(身体を侵す可能性)の高い、しかも妊娠の可能性のある女性の身体の使用は、商品にしてはいけないものだ。”と言っている。これが、売春防止法の基礎になる考え方であろう。
従軍慰安婦をかつての日本政府は、“強制性”の有無にかかわらず、利用したのは間違いない。いわば、ある種の需要に対し、サプライチェーンの構成に積極的に企画開発して関わったのだ。一般的には、一部でも社会正義に反するプロセスを前提として成立するサプライチェーンはそれ全体が反社会的であるとするのが、現代の社会正義の常識である。ナイキもアップルも、自身は手を汚してはいなくても、その製品のサプライチェーンの一部に社会正義に反するプロセスがあるとの疑いを持たれ、非難されている。これが、CSRの基礎にある考え方なのだ。
こうしたことがどうしても理解できない者には、良心的弁護士の資格はない。社会正義や反社会性を理解できずに、法の条文だけを記憶し、法網をくぐることのみたくらんで利益をせしめる悪徳弁護士だ。大阪市長でもある橋下氏は、そういう悪い方の敏腕弁護士に見えてしまうのだが、いかがだろうか。
繰り返すが、従軍慰安婦のあり方をめぐって、“強制性の有無”という些末なことに目くじらを立てて、“反省するべき”大局を見失ってしまっているのが、日本の右派の現実ではないか。いわば、“論点を巧妙にずらして”、戦争責任を回避しようとしているようにしか見えない行為なのだ。その愚かな行為が、日本の国際的信用を貶め、著しく国益を損ねていることに考えが及ばないのは、思慮の足りない破廉恥としか言いようがない。
大阪市長という公人の発言が、いかにも国際的に見て社会正義に反し、しかも戦争責任を否認したかのようなものであったことに対する、国際的驚愕を反映しているのではないか。週末の報道によると、“国連の「拷問禁止委員会」は、いわゆる従軍慰安婦の問題を巡る大阪市長の発言などを念頭に、日本の「地方のトップや、政治家が事実を否定し、元慰安婦を傷つけている」と指摘して、政府がこうした発言に反論するよう求めた。”とある。国際的に 非常に恥ずかしいことだと、思うべきだが 当の御本人は自分の主張を撤回する気配はない。
そのような振る舞いに対し、大阪市議会は問責決議をしようとしたが、腰の定まらない政治屋によって否決されてしまった。悲しいことに日本の政治は目先の些末な損得だけで動いている印象だ。
日本が引き起こした“戦争”を“悪しき”ことだったと痛感し、反省する姿勢とその結果の客観的証拠の挙証責任が、日本人にはつきまとっているということを忘れてはならない。にもかかわらず、その戦争遂行の仕組の一つとしての従軍慰安婦のあり方で“強制性はなかった”などと強弁して、肯定的に振る舞うのは、あたかも無反省にも“悪しき戦争”をも肯定しているかのように、諸外国の人々には見えるのだ。そこに“強制性”が有ろうが、無かろうが それは“悪しき戦争”の前には実に些末な問題なのだ。些末なことに目くじらを立てて、“反省するべき”大局を見失ってしまっている。
国際的な常識としての社会正義はどこにあるのか。それは近代市民社会が成立して以降に生まれた“自由、平等”と、それを背景として戦後特に強調されるようになってきた“寛容”、特に“人々の存在のあり方への多様性”を許容し、尊重するという意味での“寛容”にある。こうした徳目を基礎にしていない考え方は、排除されるべき独善でしかない。それを踏まえた、“基本的人権”は重要だ。“従軍慰安婦”は、その対場に立った女性の“基本的人権”を奪うという、近代市民社会以降の基礎的徳目に反しているのだ。
恐らく、諸外国の人々は こうした民主主義の基本を理解していない弁護士が 日本には居て、しかも選挙で選ばれて大都市の知事や市長にもなれる、ということに驚きを感じているのではないか。日本の大学では、哲学で“正義論”が語られることは少ない。だからこそ、最近マイケル・サンデルの白熱講義は新鮮に映り、もてはやされたのに違いない。そもそも、日本では何故か哲学自体が語られることはあまりない。法哲学に至っては皆目無いのではないか。従い、国際的な常識としての最大公約数としての社会正義すら理解していない日本人が大半なのではないか。かくいう私も その点ではお寒い限りではある。日本には、何故かそのような環境がないのだ。だから、オッサンの貧しい“正義論”が 街で幅を利かすのではないか。それが、今回はしなくも露呈した。
残念なことに、特に日本の右派の人々には、そのような価値観は乏しい。にもかかわらず、安倍首相は かつて“同じ価値観を有するもの同士”の“価値観外交”を展開すると称していた。自己中心の国際的に孤立した独善であり、諸外国とは齟齬をきたしているにもかかわらず、特に韓国とは“同じ価値観”だと とんでもない誤解をしたままでいる。
まさに“人権外交”を標榜する米国には、こうした日本の右派政権は鬱陶しく映っているであろう。心ある米国人には、相当な知日派で無い限り、このような日本を真の同盟国としては見ることはできないであろう。それより、目先の利益となる中国に興味が赴くのは当然のことであり、6者協議でも米中韓のジャパン・パッシングとなっている。オメデタイことに、現政権には、そうした自覚すらない。
あまつさえ、現政権は現行憲法を 同盟国であるはずの米国の“押しつけ憲法である”と称し、国民の自由を奪い、制限的な民主主義政体を作り上げるための“憲法改正案”を提示している。まさに明治憲法への限りない回帰である。これにより、“戦後レジームからの脱却”は実は“戦前レジームへの回帰”であることが分かるのだ。
その行為は、単純に反米的なのだ。終戦後、米国占領軍は日本の憲法学者に新憲法素案を作るよう命じたが、文語調の文言を口語調にしたような改革内容の乏しいのを見て、埒が明かないとばかりに、米国の若い法律家を集めて作らせたという。それは、明治憲法の抑圧性、非民主性が戦争の大きな要因であると見てのことでもあったのだ。これを全面的に打ち消そうというのだから、自民の改憲案は 反動的にならざるを得ない。
こうした歴史的事実を無視した論理矛盾で、米国をはじめ近隣諸外国の理解を得られるのであろうか。少なくとも米国は、露骨な内政干渉と取られるような発言はしない。そういう内心を読み取れずに、憲法改正を目指す御本人達は、こんな単純な論理矛盾すら理解できていないのではないか。右派政治家達のオバカも極まれりである。
内心を読み取れないオバカと言えば、安倍政権はどうやら陛下の御心をも読みとれていないのではないか。先日の“主権回復の日”における陛下の御表情が 異様に歪んでおられたのをテレビ・ニュースで見た。あのような陛下を拝見したのは全く初めてだった。にもかかわらず、御退出なさろうとする陛下に、万歳三唱する不届き者も居て、非常に戸惑われていた。御高齢にもかかわらず、明らかに意に沿わない式典に御出座しになって御心労はいかばかりか。
これは現政権による天皇の政治利用そのものだ。不忠も極まれり。まさしく天皇の意向に反して中国で戦線を拡大し、抜き差しならない状態に陥れて、日米開戦にまで突き進んだ、“戦前回帰”そのものなのだ。天皇は国民一人ひとりを差別して扱うのは禁忌とされるが、昭和天皇はA級戦犯を憎んでおられたらしい、という。それは、その誰一人として天皇の御内意を理解せず、優柔不断のまま戦争を始め、継続させたからなのだ。靖国神社がA級戦犯を合祀して以降、昭和天皇も今上陛下も御参拝にならないのは、その傍証だ。その事実を右派の人々は、何故か無視している。
閑話休題。
さて売春婦は、世界最古の職業だと言われる。それだけに、その職業へのイメージは世界各地で、また時代によって様々であり、習俗も色々ある。日本にも それにまつわる独特の“文化”が育った。有名な神社仏閣への参拝客相手の娯楽提供が、芸者の始まりだと言われる。神仏の下の享楽、“祭り”にもそのような要素が多分にあったのだろう。まさに“祭りごと=政治”であった古代において、荒ぶる王の中の女王・卑弥呼も巧みな籠絡の技を弄したのかも知れない。
京都祇園の芸子や舞妓は八坂神社への参拝客目当てが始まりだったという。衣食住が不十分で貧しい時代には、きれいなべべ着て楽しげなのには憧れがあった。特に祇園は芸を磨き上げ、高級で上品だったので、蔑みが影を潜め憧れが勝っていたのは否めない。最近でも その憧れが残っているのか、若い女の子が舞妓さんの装束を着て喜んで街を歩く奇妙な風景を見ることができる。
さて、ここからは戦前を知る私のもっとも信頼する人から聞いた話を紹介したい。戦争当時も貧しい朝鮮では 朝鮮人の周旋屋が娘を慰安婦に調達しに来たのを、その一家は“誇り”にしたのが現実であったという。慰安婦に徴用されるのは、その娘が“美人”の証であり、一家はそれを近隣に誇ったという。当人はきれいな着物を着て楽しめると言って喜び、貧しい親はわずかな金が貰えて赤飯たいて喜んだ、という。この話を事実として確認することは、私にはできない。しかし、この伝承にはかなりの信憑性があるように思う。
その娘たちは、実際に“仕事”を始めてみてようやく苦界の現実を知ることになったが、それでもその対価は得ることができた。ところが、日本が戦争に負けると、彼女らは“仕事”を失った上に、日本軍に身を売って協力した卑劣女として、他の韓国人たちから蔑まれ差別されて辛い人生を送らざるを得なかったというのが実態だった。だから、無責任な言い方をすれば“従軍慰安婦”問題は、本来は韓国社会の中での問題であり、今更 それを暴き立て騒ぐのは恥ずかしいことではないか、と見る立場もあるのかも知れない。
しかし、そうした貧困や人々の意識は、日本の植民地支配によるものだという見方には理がある。被抑圧社会に、差別と選別の意識は人々の中に生まれ、それは中々消えるものではないからだ。
社会学者・上野千鶴子氏は、売買春について“カネを払えば女性の身体を自由にしていいのか。資本主義だって何でも商品にしていいわけではない。例えば債務奴隷は認められていないし、臓器の商品化も認められていない。侵襲性(身体を侵す可能性)の高い、しかも妊娠の可能性のある女性の身体の使用は、商品にしてはいけないものだ。”と言っている。これが、売春防止法の基礎になる考え方であろう。
従軍慰安婦をかつての日本政府は、“強制性”の有無にかかわらず、利用したのは間違いない。いわば、ある種の需要に対し、サプライチェーンの構成に積極的に企画開発して関わったのだ。一般的には、一部でも社会正義に反するプロセスを前提として成立するサプライチェーンはそれ全体が反社会的であるとするのが、現代の社会正義の常識である。ナイキもアップルも、自身は手を汚してはいなくても、その製品のサプライチェーンの一部に社会正義に反するプロセスがあるとの疑いを持たれ、非難されている。これが、CSRの基礎にある考え方なのだ。
こうしたことがどうしても理解できない者には、良心的弁護士の資格はない。社会正義や反社会性を理解できずに、法の条文だけを記憶し、法網をくぐることのみたくらんで利益をせしめる悪徳弁護士だ。大阪市長でもある橋下氏は、そういう悪い方の敏腕弁護士に見えてしまうのだが、いかがだろうか。
繰り返すが、従軍慰安婦のあり方をめぐって、“強制性の有無”という些末なことに目くじらを立てて、“反省するべき”大局を見失ってしまっているのが、日本の右派の現実ではないか。いわば、“論点を巧妙にずらして”、戦争責任を回避しようとしているようにしか見えない行為なのだ。その愚かな行為が、日本の国際的信用を貶め、著しく国益を損ねていることに考えが及ばないのは、思慮の足りない破廉恥としか言いようがない。
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