かっこうのつれづれ

麗夢同盟橿原支部の日記。日々の雑事や思いを並べる極私的テキスト

古代から中世まで、色々と考古学的な話題に事欠かないこのごろです。

2013-02-16 23:49:13 | Weblog
 今日は月恒例のカラオケの日。例によって12時過ぎから夜の8時までたっぷり8時間、仲間と熱唱して来ました。先月は仕事の関係で出られなかったので随分久しぶりな気になってしまうのですが、そのせいなのかどうなのか、今日はいつにも増して声が出たような気がします。次は暖かくなっているはずの3月、花粉で喉がやられないように気をつけながら、1ヶ月を楽しみに待とうと思います。

 さて、このところ、考古学関係で面白そうな話がわんさか出てきてますね。すぐ近所の明日香村島庄遺跡では、蘇我馬子の邸宅と思われる住居跡で、ぐるりを囲む板塀を支えていたと見られる柱の跡が発見されたとのこと。柱を立てた一辺約1.3mの方形の穴が、2.1~2.4m間隔で並んでいるのが見つかったとのことで、その規模から、恐らく直径30~40cmの柱が突き刺さっていたんだろう、とのことでした。塀の長さはまだ分からないそうですが、その柱穴だけで天皇の宮殿に匹敵する規模とのことですから、さぞかし大きなものだったのでしょう。色々謎も多い蘇我氏ですが、こうして少しずつ姿が浮き彫りになってくるのがいかにも考古学らしくて楽しそうです。

 京都・宇治の平等院鳳凰堂では、昨年9月から大修理が進行中とのことで、屋根瓦を下ろす作業が進められていたそうですが、このほどそれが終わったとのことで、その際に、約5万2千枚の瓦をチェックした所、全体の3%、1560枚の瓦が平安時代後期につくられたものであることが分かったのだそうです。そのうち、文様などから判断して、8割以上が平等院の荘園があった大阪府八尾市で生産され、奈良の瓦も280枚あったとのことでした。八尾の瓦は奈良産よりも表面を綺麗に仕上げて丁寧に作られていたのだそうですが、こんな頃から大阪はサービス精神豊かな街だったのか? と感心してしまいました。
 それにしても、たった3%の事を仰々しく発表されるものかな、と思いつつニュースを読み進めておりましたら、屋根に残る平安期の瓦は数10枚程度と思っていた、という宇治市の関係者の話が載っていて、なるほど、と合点がいきました。

 もう一つ、これはまだこれからの話しですが、なんと、卑弥呼の墓かも知れない、と言われている我が国最古の前方後円墳である箸墓古墳に、考古学者の立ち入り調査を、宮内庁がこのほど認めたとのことです。これまで宮家の古墳やその関係ありそうな古墳は宮内庁が頑なに立ち入りを禁止して来ておりましたが、ここに来てようやくその態度に軟化の兆しが見られるみたいです。
 そもそも明治期の陵墓指定はかなりいい加減な所も多々認められ、今や明らかに誤りとしか言えないものもあるやに聞いていますが、それらをはっきりさせるには陵墓そのものを調査するのが一番確実な情報が得られると期待されるのに、その希望は宮内庁によって潰されてきてました。この度の箸墓古墳も発掘調査出来るわけではなく、陵墓の第1層に登って墳丘の形を具体的に見たり落ちている埴輪などの遺物を調査して年代を推定したりなど、これまでよりもはるかに多くの情報が得られるようになるそうです。これであっさり邪馬台国論争に決着がつくわけでもないですが、少しずつでも多くの情報が得られ、いまだベールに包まれた古代の姿が見えてくれば、これまた楽しいに違いありません。
 これからの調査研究に期待、ですね。

コメント
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