かっこうのつれづれ

麗夢同盟橿原支部の日記。日々の雑事や思いを並べる極私的テキスト

元建築士が嘘つきでないのなら、結局悪いのは制度その物ではないでしょうか?

2005-12-14 21:51:05 | Weblog
 昨日の日記を読み返してみたら、単なる愚痴のオンパレードでちょっと反省しました。忙しいのは忙しいとして、その中でいかに自分の時間を作るかは、コミケ対応などでそれなりにやって来たつもりです。それでも時間が不足するのは、一つには前ほど肉体的・精神的に無理がきかなくなってきていることと、色々と暇つぶしが増えてしまったことがあるんじゃないかと思いました。これでゲームになんて手を出そうものなら、それこそ時間が全然足りなくなってコミケの新刊も作る気しなくなるでしょうね。程々に体力を損なわないよう、余暇を生み出していく算段が必要なようです。
 
 さて、今日は移動中の車のラジオ放送で、今もっとも注目を浴びる元一級建築士の国会証人喚問を聞き、昼休みのニュースで映像も見ました。まあどこまでその言を信じて良いかという話は別にありますけど、生活のためというその言葉には、結構真実味があったように感じました。責任転嫁もあったかも知れませんが、民間検査機関のザルぶりを告発した言葉や、偽装についてプロが見たらすぐばれるはずだと思ったという言葉にも、かなりの真実が込められていたように思われます。ここからはあくまでもその言葉が真実だとしてのお話になるのですが、やはりこの元一級建築士は、犠牲者の一人になるのではないか、と私には感じられました。生活を脅かされてなお胸を張って公正明大に生きていく自信のある人は、この世の中にどれだけいるでしょう。武士はくわねど、などという言葉は、食えない事の不安やつらさを知らない空威張りとしか思えません。それならそう言う圧力があった時点で圧力元を告発するなりすればよかったかもしれませんが、日本の商慣習や色々な事件で明らかな我が国の官僚機構の鈍感さ、無神経ぶりからすれば、そうすることでこの建築士が救われた可能性は低いんじゃないかと思います。結局、この人は破滅が先にあることを知りながら、その道を外れることも許されないまま歩かされてしまったのでしょう。
 テレビのニュースでは、この国会答弁を見ている欠陥マンションを購入した被害者の様子も放映されましたが、そのあたりを全く斟酌せず、たとえ明日からの仕事が無くなろうとも不正はすべきではない、という言葉には、ちょっとそれは違うでしょうと言いたくなりました。言いたくなる気持ち、その怒りはごもっともなんですが、そんなスーパーマンのようなヒロイズムを一般の人に求めても無理があると思うのです。建築士は一般人ではない、資格という責任を負った職業だとも言えるのですが、この資格は、そう言う責任を負えるだけの権威を担保するような制度だったのでしょうか? 力のある者ほど高い倫理観を持たねばならないと思のですが、この建築士にそうした倫理観を求められるほどの権力があったとは、到底思えないのです。権力も収入も無いのに責任ばかり重いと言うのはおかしいと思います。建築士資格を得るときに、死を賭して職務に精励すべし、という誓約でもあり、覚悟の上でその資格を得たというのならいざ知らず、外部から圧力を受けてそれに制度として対抗できないような資格など、通常の神経の人間からすれば、明らかに欠陥がある制度と思えるのではないでしょうか? この怒りの声報道を見て私が恐れるのは、ここで建築士一人を断罪して、終わりにしてしまわないか、と言うことです。今こそこの資格を、普通の人が普通に対応しても間違わない、間違える事ができないデザインにしなければ、いつかきっとまた同じ様な事件が繰り返されることになります。そう言う掘り下げをしないまま、怒りをぶちまけて終わってはいけないと思うのです。被害者の怒りを伝えたいマスコミの気持ちも分かりますけど、この報道が結局建築士一人切って、本質的な危険の温床を温存してしまう結果に繋がるのではないかと危惧いたします。そろそろこの資格制度や建築業界に巣くう構造的欠陥を洗い出すような報道を見てみたいのですが、日本のマスコミにそんなことを期待するのは無理なんでしょうか?


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