男は、だらしなく尻餅をついてへたり込んでいた。左頬へ斜めにすっと赤いすじが走り、そこからにじみ出た血が頬を赤く濡らしている。以呂波が叩き折った太刀の切っ先が、ちょうど男の顔辺りをかすめて飛んだのであろう。ついでに男が手にしていた短冊も見事にすっぱりと切り落とされていた。男は、自分がいかにみっともない格好を晒しているかに気付くと、憤怒の形相も凄まじく、公綱にわめき散らした。
「・・・お、おのれよくもこの私に・・・。殺す! 絶対殺してやる!」
さっきまでの余裕をかなぐり捨て、男は語気荒く言い放つと、役に立たなくなった短冊を地面に叩きつけ、新たな一枚を懐から取り出した。だが、男の憤りもそこまでだった。再び緊張が高まる二人の間を割って、少女が静かに滑り込んだのである。
「もうおやめなさい」
「そこをどかれよ! 麗夢殿!」
れいむ? 公綱は、ようやくここにきて男が少女を麗夢と呼んでいることに気が付いた。確か智盛様も麗夢と呼んでいたのではなかったか。やはりこの少女は智盛様が探し求めていた娘なのかもしれぬ。公綱が悩める主のことを脳裏に思い浮かべたとき、麗夢と男の押問答は、ようやく決着が付こうとしていた。
「退かぬとあれば、麗夢殿とて・・・」
「私とて? いかがなされるおつもりか?」
冷え冷えとした小さな声に、あれほど荒れ狂っていた男の殺気が、一瞬で当惑を交えた怯えに変化した。
「れ、麗夢殿、この男を放置して、一体太老様になんと申し開きされる積もりじゃ」
「高雅殿が心配することではありませぬ。さあ、お引取を」
「私は貴女のいいなづけだぞ、それを・・・」
「お引取を」
高雅と呼ばれた男は、それでもまだ未練がましく麗夢、以呂波、そして公綱を落ち着かない目で見回したが、ようやくあきらめが付いたのか、改めて公綱に視線を固定すると、殺気を込めて男は言った。
「麗夢殿の手前、ここは引いてつかわすが、この次は必ず死んでもらう。左様心得よ!」
公綱は黙ってにらみ返した。内容はどうあれ、挑戦を受けたとあっては武士として後に引くことは出来ない。男は公綱の不敵な視線を忌ま忌ましげに見つめていたが、やがて急にきびすを返し、白い闇に姿を消した。公綱は殺気が消えたのを確かめると、少女の前に片膝をついた。
「かたじけなくも命をお救い頂き、恐縮に存じます」
「いいえ。礼には及びませぬ。それよりも貴方も早くお立ち去りください。ここは、貴方のような方がいつまでもいて良い所ではございません」
以呂波が、さっさと行け、というように顎をしゃくってみせた。だが、公綱は、これで引き下がる訳には行かないと、麗夢に話を継いだ。
「いいえ、主智盛のため、ひとつだけお聞かせ願いたい。貴女様は、麗夢様でございますな?」
数瞬の沈黙が、二人の間を埋めつくした。再び以呂波のうなり声が公綱の鼓膜を震わせたが、軽く手を上げてそれを遮った娘は、やがて、思い切ったように口を開いた。
「確かに。私は智盛様がご存じの白拍子、麗夢にございます」
公綱は、色めき立って顔を上げた。だが、麗夢はそんな公綱の期待を押さえるように、静かな口調で話し続けた。
「ですが、もう、あの頃の私ではございません。帰って智盛様にお伝えくださいまし。麗夢はもう亡くなった、と」
「そ、それでは、我が主が納得するとは思えません。どうか、今一度主にあって頂く訳には参りませんか?」
公綱の申し出に、麗夢は力なく首を横に振った。
「それはなりません。これ以上、我らを追わぬよう、築山殿よりも申し添えください」
ではこれで、ときびすを返そうとする麗夢に、公綱はもう一度追いすがった。
「お待ちくだされ! 貴女は、我が主、智盛をもうお忘れか!」
振り向いた少女の顔に、公綱ははっと息を呑んだ。美しい白磁の肌に、つと流れるひとすじの涙を認めたからである。だがそれも一瞬のことであった。再びむこうを向いた麗夢は、二度と振り返る事無く霧の中に姿を消した。後を追って以呂波もその巨体を闇に沈めた。茫然と見送る公綱の耳に、玲瓏とした麗夢の声が響いた。
「心にも、袖にも残る移り香も、夢の内にや止めおくべし・・・」
その声は押し返し押し返しこだまするように繰り返され、公綱は、それが聞こえなくなるまで、その場を動くことが出来なかった。
第3章その1に続く。
「・・・お、おのれよくもこの私に・・・。殺す! 絶対殺してやる!」
さっきまでの余裕をかなぐり捨て、男は語気荒く言い放つと、役に立たなくなった短冊を地面に叩きつけ、新たな一枚を懐から取り出した。だが、男の憤りもそこまでだった。再び緊張が高まる二人の間を割って、少女が静かに滑り込んだのである。
「もうおやめなさい」
「そこをどかれよ! 麗夢殿!」
れいむ? 公綱は、ようやくここにきて男が少女を麗夢と呼んでいることに気が付いた。確か智盛様も麗夢と呼んでいたのではなかったか。やはりこの少女は智盛様が探し求めていた娘なのかもしれぬ。公綱が悩める主のことを脳裏に思い浮かべたとき、麗夢と男の押問答は、ようやく決着が付こうとしていた。
「退かぬとあれば、麗夢殿とて・・・」
「私とて? いかがなされるおつもりか?」
冷え冷えとした小さな声に、あれほど荒れ狂っていた男の殺気が、一瞬で当惑を交えた怯えに変化した。
「れ、麗夢殿、この男を放置して、一体太老様になんと申し開きされる積もりじゃ」
「高雅殿が心配することではありませぬ。さあ、お引取を」
「私は貴女のいいなづけだぞ、それを・・・」
「お引取を」
高雅と呼ばれた男は、それでもまだ未練がましく麗夢、以呂波、そして公綱を落ち着かない目で見回したが、ようやくあきらめが付いたのか、改めて公綱に視線を固定すると、殺気を込めて男は言った。
「麗夢殿の手前、ここは引いてつかわすが、この次は必ず死んでもらう。左様心得よ!」
公綱は黙ってにらみ返した。内容はどうあれ、挑戦を受けたとあっては武士として後に引くことは出来ない。男は公綱の不敵な視線を忌ま忌ましげに見つめていたが、やがて急にきびすを返し、白い闇に姿を消した。公綱は殺気が消えたのを確かめると、少女の前に片膝をついた。
「かたじけなくも命をお救い頂き、恐縮に存じます」
「いいえ。礼には及びませぬ。それよりも貴方も早くお立ち去りください。ここは、貴方のような方がいつまでもいて良い所ではございません」
以呂波が、さっさと行け、というように顎をしゃくってみせた。だが、公綱は、これで引き下がる訳には行かないと、麗夢に話を継いだ。
「いいえ、主智盛のため、ひとつだけお聞かせ願いたい。貴女様は、麗夢様でございますな?」
数瞬の沈黙が、二人の間を埋めつくした。再び以呂波のうなり声が公綱の鼓膜を震わせたが、軽く手を上げてそれを遮った娘は、やがて、思い切ったように口を開いた。
「確かに。私は智盛様がご存じの白拍子、麗夢にございます」
公綱は、色めき立って顔を上げた。だが、麗夢はそんな公綱の期待を押さえるように、静かな口調で話し続けた。
「ですが、もう、あの頃の私ではございません。帰って智盛様にお伝えくださいまし。麗夢はもう亡くなった、と」
「そ、それでは、我が主が納得するとは思えません。どうか、今一度主にあって頂く訳には参りませんか?」
公綱の申し出に、麗夢は力なく首を横に振った。
「それはなりません。これ以上、我らを追わぬよう、築山殿よりも申し添えください」
ではこれで、ときびすを返そうとする麗夢に、公綱はもう一度追いすがった。
「お待ちくだされ! 貴女は、我が主、智盛をもうお忘れか!」
振り向いた少女の顔に、公綱ははっと息を呑んだ。美しい白磁の肌に、つと流れるひとすじの涙を認めたからである。だがそれも一瞬のことであった。再びむこうを向いた麗夢は、二度と振り返る事無く霧の中に姿を消した。後を追って以呂波もその巨体を闇に沈めた。茫然と見送る公綱の耳に、玲瓏とした麗夢の声が響いた。
「心にも、袖にも残る移り香も、夢の内にや止めおくべし・・・」
その声は押し返し押し返しこだまするように繰り返され、公綱は、それが聞こえなくなるまで、その場を動くことが出来なかった。
第3章その1に続く。