あんまり目が痒くてくしゃみも何回か出たりしたので、今日は花粉症の薬を飲んで見ました。これまでも実績のある薬ですし、効くことはほぼ間違いない、と思うのですが、その分強烈な眠気が・・・。こうしてキーボードを叩き続けていても、思わずまぶたが下がって画面が見えなくなってしまいます。新世代の薬は比較的眠くなりにくい、とは言いますが、どこまで信用していいのでしょう。
さて、なにやらきな臭い話が出てきているみたいですね。今国会に提出される予定の児童買春・ポルノ禁止法改正案では、児童ポルノの写真や画像を販売などの目的以外で持つ「単純所持」も刑事罰の対象とするとのことですが、更にユニセフ協会のキャンペーンでは、「準児童ポルノ」なる用語を作り、実際の年齢にかかわりなく、見た目児童に見える場合も児童ポルノとして禁止すべきだ、と主張されているのだとか。その定義は、「被写体が実在するか否かを問わず、児童の性的な姿態や虐待などを写実的に描写したもの」。具体的には「アニメ、漫画、ゲームソフトおよび18歳以上の人物が児童を演じる場合もこれに含む」のだそうな。実際に児童が性的被害にあったり人権侵害をこうむるような例があるわけですから、禁止法案の強化というのはやむをえない流れなのかもしれませんが、架空の存在までその範疇を広げよう、というのは、どうも勇み足というべきものではないか、と、穏当に考えてもそう感じてしまいます。たとえばそれらの存在が現実に児童達を危険にさらすようなことにつながるとでも言うのなら禁止も当然と思うのですが、そのあたりの根拠はいたって薄弱にしか見えません。一方で、いかがわしいものであれ、その種の想像力が創造力を喚起し、今日世界を席巻するオタク文化を生み出す豊穣な大地そのものとなっていると私には思えますから、もしここでその存在を抹殺するようなことを強行すれば、現代日本が生み出した貴重な文化を根絶やしにしかねないように思えます。その種の拡大解釈がまかり通るのなら、将来は古今の歴史的名作、たとえば「源氏物語」やノーベル賞作家ガルシア・マルケスの「エレンディラ」なども、「準児童ポルノ」として発禁処分の対象になったりするんでしょうか? 芸術や古典なら許されて、漫画やアニメやゲームはダメ、というのはあまりに皮相的で恣意的な線引きに見えます。下賎で卑猥で汚辱にまみれた凡百の有象無象の混沌の中からこそ、きらりと輝く宝石が生まれてくるものではないか、そのためにもっとも大事なものは表現の自由であり、ほんの一握りの醜悪だと判断されてしまう存在のために、その無限の可能性を葬り去るべきではないと、私は思います。
さて、なにやらきな臭い話が出てきているみたいですね。今国会に提出される予定の児童買春・ポルノ禁止法改正案では、児童ポルノの写真や画像を販売などの目的以外で持つ「単純所持」も刑事罰の対象とするとのことですが、更にユニセフ協会のキャンペーンでは、「準児童ポルノ」なる用語を作り、実際の年齢にかかわりなく、見た目児童に見える場合も児童ポルノとして禁止すべきだ、と主張されているのだとか。その定義は、「被写体が実在するか否かを問わず、児童の性的な姿態や虐待などを写実的に描写したもの」。具体的には「アニメ、漫画、ゲームソフトおよび18歳以上の人物が児童を演じる場合もこれに含む」のだそうな。実際に児童が性的被害にあったり人権侵害をこうむるような例があるわけですから、禁止法案の強化というのはやむをえない流れなのかもしれませんが、架空の存在までその範疇を広げよう、というのは、どうも勇み足というべきものではないか、と、穏当に考えてもそう感じてしまいます。たとえばそれらの存在が現実に児童達を危険にさらすようなことにつながるとでも言うのなら禁止も当然と思うのですが、そのあたりの根拠はいたって薄弱にしか見えません。一方で、いかがわしいものであれ、その種の想像力が創造力を喚起し、今日世界を席巻するオタク文化を生み出す豊穣な大地そのものとなっていると私には思えますから、もしここでその存在を抹殺するようなことを強行すれば、現代日本が生み出した貴重な文化を根絶やしにしかねないように思えます。その種の拡大解釈がまかり通るのなら、将来は古今の歴史的名作、たとえば「源氏物語」やノーベル賞作家ガルシア・マルケスの「エレンディラ」なども、「準児童ポルノ」として発禁処分の対象になったりするんでしょうか? 芸術や古典なら許されて、漫画やアニメやゲームはダメ、というのはあまりに皮相的で恣意的な線引きに見えます。下賎で卑猥で汚辱にまみれた凡百の有象無象の混沌の中からこそ、きらりと輝く宝石が生まれてくるものではないか、そのためにもっとも大事なものは表現の自由であり、ほんの一握りの醜悪だと判断されてしまう存在のために、その無限の可能性を葬り去るべきではないと、私は思います。