伊勢型紙のことを知って、職人の方々をはじめとして、関わる多くの方々とお話をさせて頂いたりしながら、鈴鹿市の伝統産業としてどう持続的な形でつないでいけるかを、自分なりに考えることが多くなり、活動につながっていることも多くなっています。
過去は、大量生産の道具だったとも考えられる型紙も、コンピューターをはじめとした機器の発達の中で、その位置付けは非常に微妙になっていると思います。どんなに細かい柄でも、コンピューターを使うことで、いまの家庭用レベルの機器でコピーすることが容易になっていますし、彫の加工もプログラムされた機器で再現することも可能でしょう。
もしかすると、コンピューターなどの機器を使うことについて、3次元の読み取りや3Dプリンタ、そして使っている画材の成分分析などを組み合わせることで、これまでのコピー製品ではなく、それこそ実物と見分けがつかないものを、大量に作れる時代になるかもしれないでしょう。
また、これまでの社会や消費の変化の中で、短期間で消費することが前提となっていたり、大量生産により低価格に慣れ過ぎてしまっていると思われる私たちが、比較するとどうしても高額となりがちな、型紙を用いた製品について、それを手に入れたいと思うようになっていくには、どうしたらいいかという課題もあると思います。
そんな中で、どのように価値を付与して考えるのか、価値を維持するのかは難しいことです。
そう考えると、伊勢型紙を残すには型紙だけに注目する取り組みだけではなく、型紙を取り巻いている社会の価値観の変容という課題についても考えるアプローチが必要になると考えます。
コンピューターなどの機器で再現することが容易になっていることについては、人が関わり作るということについて意味を感じる考えが、これからの世代の中にもなんらかの形で持続することが、取り組む課題のひとつになるでしょう。そのことについては、まず鈴鹿市で成長する世代が、他のコミュニティの人たちに伊勢型紙を語ることができるような教育を、鈴鹿市内の学校で実践することが考えられます。同時に、学校生活の中で関わりが持てるような製品を作ることもあるでしょう。
消費意識や行動の変容は、若い世代の中には生まれつつあるのではと思いますが、大量生産と消費の社会のあり方について、全ての世代で考えることが必要だと思います。私たちが作り出した生産技術は、モノを過剰に作ることを可能にしていていますが、モノを欲しいと思う人たちが生産よりも圧倒的に多かった時代はそれで良かったものの、モノが多くの人の手に渡りはじめたり、そもそも欲しいと思う人が減少したりすると、その形自体が立ち行かなくのではないでしょうか。であるとするなら、身近なところで生産が行われ、身の丈に合う生産量と、それに見合う価格で手に入れるということを、これからもっと志向していいと思います。
これまでの延長ではなく、過去から新しい流れを考えだし創っていく時代だと思っています。