以前にも書いたことがあるのですが今回も。
国や自治体で「いじめ撲滅に取り組む」と言われますが、いまの世相ではたしてどれだけ改善できるのか、個人的には懐疑的に思うところがあります。というのは多くの人は、いじめは子どもたちの事象と考えているようですが、いじめそのものは大人の世界にもあることだからです。
たぶん本当はみなさんわかっていることと思います。
それなのに、注目されるのは子どもたちの部分だけで、大人の闇にはちゃんと目を向けない気がします。いじめの問題を子どもにも大人にもあることと考えると、子どもだけに改善を働きかけても、もっと多数の大人の中にそれがある限り、いじめ全体としては変わりにくいでしょう。どうしてかと言えば、子どもたちは大人がしていることを、言葉に出さなくても見たり聞いたり、かぎ取ったりしていると思うからです。だからいくら大人が「いじめはだめだ」と言ったところで、大人の世界でそれができだけ減っていかなければ、子どもたちの行動が変わるとは思えないのです。
しかし数が減ればいいのかと言えばそうではないところもあると思います。例えば、制度で見えなくすることや隠ぺいといった形を取れば、はた目には改善したように見えますが、実際は変わらないという状況はそのままです。
大人がこのようにふるまってとすれば、子どもたちも自分たちで“制度”や“きまりごと”をつくったり、隠すという行動をとることは容易に考えられることでしょう。
ここまで書いたところで、
では、いじめをなくさないといけないと言っている大人の世界、まず政治や行政、教育の現場から考えてみて、“いじめ”がはたしてないでしょうか?
・・・残念ながら、ないとはだれも言えないでしょう。それどころかいじめに近いことが、かなり根深くはびこっていないでしょうか。はっきりとわかるそれはないでしょうが、制度や仕組みとして内在化している可能性が高くはないでしょうか。
「いじめはだめだ」と言ってる大人が、自分がそれに類することをしていたとしたら、その行動にどう理由付けするでしょう。言葉と自分の行動のギャップを埋めるために、きっといろいろ理由を探すのではないでしょうか。自分を自分たちを変えるのでなければ、相手のよくないところばかりに目を向けたり、いろいろな制度や慣習を理由にしながら自分を正当化しようとするか、それとも相手にその価値観を押し付けるかになるのではないでしょうか。
政治、行政、教育の現場では、まだまだ後者の2つの動きが強いように感じます。
それなのに子どもたちからいじめをなくそうと言っても、子どもたちにの心に届く言葉になっていかないと思います。
“いじめ”は“その人がその人であることを否定すること”だと思います。
そして誰もが持っている権利を、一部の人たちの価値観で否定したり侵害するときに現れるものだと。政治や行政、教育がいじめの撲滅を唱えるのであれば、自分たちが過去からの積み重ねで持つ制度や慣習などをすべて公開し、その見直しに取り組むことも必要だと思います。
今の自分の立場から考えれば、政治こそ先頭に立って行くべきことだと思います。
国や自治体で「いじめ撲滅に取り組む」と言われますが、いまの世相ではたしてどれだけ改善できるのか、個人的には懐疑的に思うところがあります。というのは多くの人は、いじめは子どもたちの事象と考えているようですが、いじめそのものは大人の世界にもあることだからです。
たぶん本当はみなさんわかっていることと思います。
それなのに、注目されるのは子どもたちの部分だけで、大人の闇にはちゃんと目を向けない気がします。いじめの問題を子どもにも大人にもあることと考えると、子どもだけに改善を働きかけても、もっと多数の大人の中にそれがある限り、いじめ全体としては変わりにくいでしょう。どうしてかと言えば、子どもたちは大人がしていることを、言葉に出さなくても見たり聞いたり、かぎ取ったりしていると思うからです。だからいくら大人が「いじめはだめだ」と言ったところで、大人の世界でそれができだけ減っていかなければ、子どもたちの行動が変わるとは思えないのです。
しかし数が減ればいいのかと言えばそうではないところもあると思います。例えば、制度で見えなくすることや隠ぺいといった形を取れば、はた目には改善したように見えますが、実際は変わらないという状況はそのままです。
大人がこのようにふるまってとすれば、子どもたちも自分たちで“制度”や“きまりごと”をつくったり、隠すという行動をとることは容易に考えられることでしょう。
ここまで書いたところで、
では、いじめをなくさないといけないと言っている大人の世界、まず政治や行政、教育の現場から考えてみて、“いじめ”がはたしてないでしょうか?
・・・残念ながら、ないとはだれも言えないでしょう。それどころかいじめに近いことが、かなり根深くはびこっていないでしょうか。はっきりとわかるそれはないでしょうが、制度や仕組みとして内在化している可能性が高くはないでしょうか。
「いじめはだめだ」と言ってる大人が、自分がそれに類することをしていたとしたら、その行動にどう理由付けするでしょう。言葉と自分の行動のギャップを埋めるために、きっといろいろ理由を探すのではないでしょうか。自分を自分たちを変えるのでなければ、相手のよくないところばかりに目を向けたり、いろいろな制度や慣習を理由にしながら自分を正当化しようとするか、それとも相手にその価値観を押し付けるかになるのではないでしょうか。
政治、行政、教育の現場では、まだまだ後者の2つの動きが強いように感じます。
それなのに子どもたちからいじめをなくそうと言っても、子どもたちにの心に届く言葉になっていかないと思います。
“いじめ”は“その人がその人であることを否定すること”だと思います。
そして誰もが持っている権利を、一部の人たちの価値観で否定したり侵害するときに現れるものだと。政治や行政、教育がいじめの撲滅を唱えるのであれば、自分たちが過去からの積み重ねで持つ制度や慣習などをすべて公開し、その見直しに取り組むことも必要だと思います。
今の自分の立場から考えれば、政治こそ先頭に立って行くべきことだと思います。