鈴鹿市議会議員 中西だいすけの活動日誌

鈴鹿市議会議員として年齢も含め5期目のベテランになりました。日々の活動や感じたこと、議会での動きなどをつづります。

スポーツにおける人格形成

2016年06月28日 01時37分10秒 | Weblog

今週末の7月2日に、すずかっぷを運営します。

男女混合バレーの大会ですが、かれこれ10年くらい主催しています。

すずかっぷの運営をしながら、自分自身いろいろ考えたりしているのですが、今日考えていたことは、プレーヤーの人格形成や社会的な責任意識についてです。ここで課題と考えられることは、「暴力行為(肉体的、精神的)」が加害者と被害者それぞれに与える影響です。

まず考えられるのは指導者とプレーヤーの関係についてですが、この関係における指導者による暴力行為については、文部科学省で「スポーツを行う者を暴力等から守るための第三者相談・調査制度の構築に関する実践調査研究協力者会議」が開催されるなど、一定の基準が形成されてきています。
◆「スポーツを行う者を暴力等から守るための第三者相談・調査制度の構築に関する実践調査研究協力者会議(第5回) 配付資料」
この中の報告にある「スポーツ指導における暴力等に関する処分基準ガイドライン(試案)」が、学生スポーツやジュニアスポーツなどにも適用される形になってくれば、指導者による暴力行為に抑止効果が出るでしょう。それはプレーヤーの人格形成にはプラスになると思います。

しかし、学生スポーツやジュニアスポーツにおいて大きな課題となるのは、やはり同じ世代による「暴力行為」です。このとき、その暴力行為を容認する空気が大人にもあったり、その大人自身が意味もなく、保護者の中でさえ序列をつけそれにより他者を抑圧するような行為を行っているような場合です。
このような場合、えてしてそのチーム独特の「内規」のような決まりが作られている場合が多いと思われます。以前、三重県体育協会が開催した講習においても、生徒内で作られたそのような決まりが、無為に帰宅時間を遅らせていたという例がありました。

 

いま、文部科学省で部活顧問の負担を軽減するという議論がでていますが、負担軽減ということだけではなく、暴力行為なども含めて全般的に、学校(教育活動)と部活動の関係について整理すべきだと思います。

鈴鹿市では「鈴鹿市運動部活動指針」としてまとめられましたが、今後踏み込んだ部分をどう考えるのか、市教育委員会に訴えていきたいと思います。

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国政選挙で考えること

2016年06月27日 13時11分33秒 | Weblog
さて、自分はもう期日前投票を済ませたので、これからの動きがどうなるかと見る状態になったのですが、FB上でも参院選関連の話題が多く出ています。多くの自治体議員の方々が、それぞれの動きを出されているのですが、それと日常を比べて感じることは・・・

国政選挙についての考え方を変えるほうがいいんじゃないでしょうか?

英国のEU離脱が国民投票で過半 数を得るなど、これだけ混迷期に入っている状況の中で、アジアを中心とした国際関係の状況をどう考えるのか、今後の経済社会状況をどう考えるのか、その中 で持続的な社会を形成するためにどう考えるのか、とても難しい問題であるはずです。それはとてもデリケートで、かつ、簡単な答えで解決するものではないと思います。

候補者の方々がそれぞれで演説会を行うことも大切ですが、公開の場で候補者同士で政策についての議論を行うというプロセスがあってもよいと思います。選挙区内の各自治体でそれを行い、それをローカルメディアやネットなどで公開し、人柄と政策を合わせて比較できるようにするべきと思います。その中で例えば「自分の所属する政党において、是々非々で意見を言うことができるか?」といった質問もあれば、より選択がわかりやすいと思います。その上で個別で詳細を語るそれぞれの集まりがあればいいでしょう。

そして上記を行っている以外の自治体では、県議会や市町議会などの政党所属議員が、公開の場で同様のことを行えば、より政策比較がわかりやすくなるのではないでしょうか。そのかわり個別会場はなしということで。該当の都道府県や市町に政党所属の議員がいないという場合は、他地域からの派遣も可能とすればよいでしょうし、それもいなければ、政党として努力すべきです。

ただ、地方議員にとって、政権がどこになるかによって得られる成果の果実を自分たちだけの手柄にしないという意識が必要と思います。特定の政権与党と果実を連携させて評価することに偏りすぎてしまうと、結局のところ、その果実を配分する勢力の力を強めることになって、逆に私たちがそれに振りまわされることから解放されなくなってしまうように思うからです。

そして、なにより地方議会は“チーム議会”という意識で、自分たちのまちの政策課題を考えるべきだと思うからです。


シンプルでない世の中に、シンプルな答えはないと思います。
絵で例えると、私たちがそれを見て安心をえられる絵を描くのに、どんな絵が描かれているかが私たちにとって大切であるはずです。その上で、水墨画のように1色の濃淡で表現するのか、それとも別々の2色で表現するのか、それともいくつかの色が使われるかということではないでしょうか。それらのうちのどれを選択するにしても、色の多様性が必要であることには違いがない。それが今の選挙で問われていることのように思います。



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イギリスの国民投票から考えること

2016年06月25日 19時47分53秒 | Weblog

英国のEU離脱が国民投票で過半数を得たことから考えることですが、このことが経済に与えることはもちろんですが、なぜこのいうな動きになったのかを考えることも、鈴鹿市での施策を考えるときに重要だと思います。私自身は、経済学者ではありませんし、いろいろな動きを研究しているわけでもありません。今までに学んだことや、考えたことを下敷きにして、今のできごとを考えています。

 

まず、経済に与える影響について、離脱が過半数を得たことが明らかになったとたんに、為替市場での円高が進み、株式市場では株価の大幅な下落が起こり、それが実体経済にも影響を与え、日本経済にも大きな影響を与えるということが、報道などでも伝えられていました。

ここで考えたいのは、そのような動きに私たちがどう関わっているかということです。

いわゆる庶民(あまりこの表現は好きではありません)としての生活をしている私たちが、金融や株式の市場に急速に影響を与えているでしょうか。わかりきったことといわれるでしょうが、私たちがこのような市場に急激影響を与えるほどの動きをできるはずはありません。それなりに大きな金額が動く必要があるでしょう。

例えれば、競馬のG1クラスのレースのオッズが、1人が100円で馬券を買うくらいでは変動しないことに近いかもしれません。もちろん、何千人というひとが同じ行動をとれば、100円で買う馬券でも変わると思いますが、それよりも大きな金額で動かす人がいるからこそ変わるものでしょう。

話を戻して、為替や金融市場でなぜ大きな変動が起こるかと考えると、それにより利益が大きく左右される一握りの人たちが、いろいろな思惑を絡めながら、その市場で行動しているからだということではないでしょうか。私たちはほとんどそれに関わっていないのに、私たちの生活に大きな影響があるとされる矛盾があるはずです。

今気になっているのは、私たちが支払った年金で積み立てられた基金が、GPIFでの基本的な運用比率が変えられたことにより、いったいどれだけの影響が出ているのかということです。

 

なぜこうなったかを考えるとき、国ごとのEU内での発言力の違いということもあったかもしれませんが、「人・モノ・金」の動きが基本的に自由になったことと、やはり「移民」という課題が、多くの人たちに影響を与えていたからではないかと思います。

「人」について言うと、自分にとって都合の良いところに移動できるということは、資産が多くあり動くことのできる人は、より資産形成をしやすいところや環境の良いところへ、逆に、貧困状態に近い人で動く意志がある人は、少しでも多く稼げる機会のあるところへ移動することになるでしょう。前者は「モノ・金」の動きと関係して、後者は「移民」と関係して、多くの人に影響を与えていたのだと思います。

「モノ・金」については、企業の活動が企業利益を優先に行えるということになり、それと「人」の部分での資産を持つ人たちとの動きとつながったとき、より資産を形成するための動きにつながっていたのではないかと考えられ、それが税逃れにつながったりして、庶民生活にも影響を与えていたことがあるのではないでしょうか。その一つの例が、イギリスでのグローバル企業の税逃れに出ていると思います。

参考:NHKのサイトから、クローズアップ現代「“租税回避”マネーを追え~国家VSグローバル企業~」

「移民」について、多くの生活に困窮する人たちが移動してくるということは、その人たちに対する社会的支援が税から必要になることと、労働という面から考えれば、相対的に低い賃金での雇用が進み、それまでそこに住んでいた人たちと入れ替わっていくことが進み、そこにいた人たちの労働の場がなくなるということとつながったことがあるでしょう。また、多くの人たちが違う文化圏から移住してくることは、異文化コミュニティの規模拡大につながり、それが逆にもともとあったコミュニティに対して、排他的な側面を持っていった可能性があるのではないかと思います。このことは、今の日本でも見られる地域があるのではないでしょうか。

人道的な面での支援は大切だと思います、他の方々の文化を尊重することも大切だと思います、しかし、それらが考えられるのは、自分たちの生活やコミュニティが曲がりなりにも安定しているからではないでしょうか。その視点を忘れてはいけないと思います。

いま日本でも、TPP(⇒ウィキペディア:環太平洋戦略的経済連携協定)や、人口減少社会の中での成長のためにと「移民の推進」(⇒ウィキペディア:移民政策)、といったことが議論の俎上に出ています。これらはどのような層の人たちが、どのような考えの上で進めようとしているのか、私たちは立ち止まって考える必要があるのではないでしょうか。

仮にTPPによって、特定の国もしくは特定の企業などの考えが、私たちに押し付けられることになったら、私たちはそれでいいのでしょうか。労働力が不足するという考えについて、それは私たちの生活実感と重なっているでしょうか、不足の前に働いていない人もいたり、まだまだ働ける可能性がある人もいるのではないか、なかなか労働者が集まらないといわれている業界では、収入や条件面で低く抑えられていないでしょうか。

 

そう考えれば、私たちは、どのような世の中の仕組みであったほうがいいのか、私たちはどう行動を選択すればいいのか、私たち自身が真剣に考えなければいけないところにきていると思います。その答えは、いま提示されるものばかりでなく、私たち自身で創りだしていく必要があるのだと思います。

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メディアへの不安

2016年06月22日 16時21分42秒 | Weblog

「メルトダウン(炉心溶融)」という言葉を使うなとしたことは、隠蔽だったとして東電社長が謝罪をしたというニュースが出ています。しかし、ニュースの扱いが小さいような気がしませんか?そもそも、「メルトダウン(炉心溶融)」という事態とその影響から考えて、隠蔽したことを“謝罪”で済ませてよいことでしょうか。自分にはそう思えません。

本来であれば、メディアは企業に対して厳しく取材し責任追求をすると同時に、当時の政権政党と現在の政権政党とそれぞれに、起こった事態と進行している対応から考えた国の責任を問うことがってよいのではないかと思います。

けれど、なぜかそのような論調はメディアで見かけることがないように思います。

ここでも違和感があります。朝の情報番組を見ていると、芸能人などのゴシップネタなどは、過剰なまでに謝罪を求め、それを追及するのが正義だといわんばかりの論調を張ったりするのに、今流れているのは、東京議会の視察についてや参院選の話題が主で、謝罪の話題はそれらに比べて非常に小さいと思います。

謝罪に慣れたから?

けれど、謝罪で済ましてはいけない内容もあるでしょう。今回の件であれば、もしかするとその影響は事故当時でももっと深刻であった可能性もあるわけですし、また現在も決して収束しておらず、まだまだ事故現場の処理に時間がかかり、事故の対応のために税が投入され、将来世代までその負担を負うだけでなく、もしもの場合のリスクも将来世代にわたって受け渡されているのですから、隠蔽していたことを謝ってすむものでないように思います。

今回の件で感じることは、今のメディアのあり方の課題です。ネットニュースなどをよく見る世代は、比較しながら問題を見ていますが、まだまだ多くの人がテレビや新聞などの既存メディアに依存している状況では、メディアにより情報が取捨選択され、重要なことから私たち自身が目をそらされてしまう事態になりはしないかということです。

よく言われていますが、不都合なことがあるときこそ、ゴシップネタが氾濫し、それから目をそらされているのではないでしょうか。今のメディアに不安を感じると同時に、だからこそ、メディア自身の改革を期待したいと思います。

 

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