気になっていることがあります。
私たちは「欲」が生み出している価値を、実際の「お金」に紐づけすぎているのではないでしょうか。それがこれまでにも不幸な状況を産みだしているように思いますし、今後、さらに不幸な状況を加速させないか気がかりなのです。
岸田首相の「新しい資本主義」の中で、「貯蓄から投資」と出されました。金融庁ホームページでは『「投資」とは利益を見込んでお金を出すことで、株式や投資信託などの購入がこの「投資」に当たります。』とあります。
投資を考えるとき、私たちは、株や仮想通貨、土地、希少な美術品などなどの価値について、立ち止まって考える機会はあるでしょうか。価格が変動による利益の獲得が投資に重要ですが、金額としてあらわされるそれの正体がなにかを考えることが必要な世の中だと思います。
株について次のサイトを見ると、「株価(株式の値段)は基本的に買いたい人(需要(じゅよう))と売りたい人(供給(きょうきゅう))のバランスによって決まります。」と書かれています。ということは、『 欲しい 』という気持ちをどう駆け引きするかということが要因といえるのではないでしょうか。他のものもそうでしょう。
ということは、株の取引などを通じて、私たちが得ていると考える「価値」や「利益」を産みだしている根源は、実は私たち自身の『 欲 』であって、実体のないそれはマネーとなり、お金や貨幣という実体を伴う形をとって実物と交換できるため、私たちの実生活を動かしているのではないでしょうか。
お金を考えると、1万円札の製造原価は22~24円くらいといわれますが、私たちが1万円札を1万円という価値でとらえてモノなどと交換できるのは、みんながそう信じているからだと思います。私たちがお互いに信じているから、お金の価値が成り立っていることは大切なことで、その上で経済活動が活発になって、社会が成長してきたことは事実だと思います。
ただその1万円は、食糧危機や飢饉が起こったと想像すると、私たちが生物として生きていくために必要なのは食糧となるものであって、それがなければ生きていけないとなれば、1万円札は“紙”という存在以上ではなくなり、必ずその価値があるとはいえなくなるのではないでしょうか。それは第二次大戦後だけでなく、過去にも起こっているはずです。
ですが、今世の中に出回っているお金は、私たちの社会を維持することとのバランスを考えられているでしょうか。私たちの生活以上に、世の中にお金が存在してしまってはいないでしょうか。過剰に存在しているお金は、「 欲 」の取引を通じて一部の人に集中してしまい、それが格差を広げる大きな要因なのだと思います。
「 欲 」そのものを全否定はしません。それ自体は変化を生み出す力になりえるからです。「資本主義」についても同じで、全否定をするのではなく、考え方をベースにしながら次のあり方を考えるほうが良いと思うからです。
しかし「 強欲な資本主義 」は私たちが乗り越えていく課題だと思います。難しいのは「強欲」を隠すために「善意」の仮面がつけられることがあったり、そもそも無邪気な「強欲」が「善意」であるようにふるまうことも考えられることだと思います。また、「強欲」は自分たちに都合よく、世の中のルールも変えていくでしょう。
しかも、世の中はデータでのやり取りが進められ、実物のお金の動くさまがどんどん見えにくくなっていくでしょう。そうすると、強欲さがどんどん見えにくくなっていき、社会の閉塞感が増すだけになると思います。
ちょっとした思考実験で、毎年刷られる赤字国債に対応して市中に出される紙幣を赤色で印刷したものにして、それはもしものときは価値がゼロになるものだとしたら、いま私たちが使っているお金はどんな色合いになるでしょうか。価値が確定されるものは欲の強い人に集まり、赤色になるように思うのは気のせいでしょうか。