議会改革について、1期目からずっと関わっている気がします。これまでの中で実現につながったこと、まだつながっていないこと、いろいろと課題があります。そのように3期目の現在まできたとき、議会としての改革だけでなく、議員の個人の動きと絡めながら動くことも、大事な視点かと考えるところです。
その時、ポイントになるかと考えることは、本会議場での議案質疑と、採決にあたっての説明責任としての討論です。この二つに、より多くの議員が参加するようになると、議会の流れが変わり始めるのではと考えます。個人の意識が少し変容することは、全体の意識の変革に関係していくと思うこともあります。
議案質疑について考えることは、個々の議員の方々は、それぞれにいろいろな背景の中で立候補されたり、いろいろなことを学ばれたりしているので、もっと質疑に立てばいいのではと思っています。以前、中邨章先生が〝族議員〟をすすめられているお話を、何度かお聞きしたことがあるのですが、そのような発想で、議会に提案された予算案や各種議案について、自分がこだわりのある分野だけでもいいので、本会議場で議案質疑をすれば、委員会審議の前により深い課題提起に繋がると思います。族まではいかなくとも、こだわりのある政策について、ピリリと締まりのある質疑が行われるということだけでも、行政側の姿勢も変わると思います。
採決にあたっての討論については、やはりすべての議員を前に、自分の採決にあたっての考えを述べることは、すなわち議員としての説明責任を実践することになり、仮に特段異論なく賛成とすることでも、議決後の政策の推移について意識せずにはいられなくなることになり、考えずにいられなくなると思うからです。このことは、以前にブログでも書きましたが、橋下氏の提起した課題に対しても、一定の答えになると考えます。
今は、それぞれの議員に委ねられているため、してもしなくてもいいという状況ですが、仮に一年だけでも、一年を通じてそのことに取り組むだけで、なにか意識の変革につながると思いますし、鈴鹿も変わるのではないかと考えます。
このようなことを考えるのも、鈴鹿市が良くなればと思うからこそです。住民自治だけでなく団体自治の部分でも全国に誇れる、そんな街でありたいと思っています。
自分が議員の立場となって約12年、議会と議員のあり方について、いろいろと振り返ることがあります。
2010年8月に三重県議会と三重県議会改革推進会議の主催で、大阪で開かれた第6回全国自治体議会改革推進シンポジウムを聴きに行きました。
その中で、橋下徹氏(当時大阪府知事)と三重県議会の三谷哲央氏(当時議長)のやり取りがあったのですが、会場から「議会には議決責任がある」という主旨の発言が出た際、橋下氏が「あなたはそうかもしれないが、現実、議会には何も言わず立ったり座ったりだけの方もいるではないか」という主旨の返答をされました。
自分は2007年に議員になって以降、議決の際、意見があるときは討論に登壇していたので、橋下氏の発言には、非常にうなづくものがありました。ですから、このとき以降、より議決に対する責任意識と、自分の考えの説明責任を意識して、提案議案の審議と議決に臨んでいます。
“説明責任”という言葉について、議会・議員には二つの大きな視点があると思います。ひとつは、議案提案や日々の業務などをはじめとした行政側の“説明責任”を、チェック機関として審議などを通じて求めていく姿勢。もう一つは、議決にあたって、なぜ自分がそのような判断を行ったのかに対する“説明責任”で、議決後はもちろんですが、議決に臨む際も重要と考えます。“説明責任”を求める姿勢、議決に対する“説明責任”、そのどちらも公開の場で行うことが基本と思うところです。
また2011年1月に、名古屋市公会堂で市議会リコールに関係する公開討論会が行われ、河村市長による扇情的な発言はもちろんですが、それだけでなく、実際にリコールに動いた状況がどのようなものなのか、それを目にする意味も含めて聴きに行きました。
そのとき、ある種異様な空気を感じました。財政的なことを冷静に話しても、それに対して感情的な言葉が会場から飛び交ったり、それは、くすぶっているところに、煽り立てるように息を吹きかけられ、正義感のようなものを含めながら憎しみがふくれあがったような、そんな感覚でした。
終了後にパネリストの方を個人的に非難する言葉が投げかけたりがあったのですが、それに対して、会場を後にする人がつぶやくように「そういうことを言うのはだめだ」ということを言いながら通りすぎられたことを見て、ポピュリスト的な政治運営の問題を痛感しました。
これらばかりでなく、たくさんの現場で学んだり、多くの先進的な議員の方々や、多くの学識者をはじめとした方々との交流の中から、今の自分があることを実感します。