文化活動、音楽の発表などのことを考えたとき、教育の場などで考え直すべきと思うことがあります。
それは「私がする」、「私が出る」ということだけでなく、それを発表する場を作ること、発表するのがうれしくなる雰囲気作りの一部になることも、大事な文化活動だという意識をつくることです。これは芸術だけでなく、文化としてのスポーツにもいえることだと思っています。
表現する場やプレーする場を求めているのに、そのような場を大切にしないということは、非常に利己的な行動だと思います。そのような人がたくさんいるまちに、文化が果たして育つでしょうか?住みやすいまちでしょうか?
私はそう思いません。
舞台にいるときにありがとうと言いながら、出番が終わるとささっといなくなってしまう。それに伴ってつながりがある人も観客をやめてしまい、会場から人ががんと減ってしまう。
大人がわからなければ、子どもたちがわかるわけはないでしょう。
心ある誰かに出会い、それを指摘されたり、一緒に活動したりしなければ、自分もその痛みを感じなければ、場を壊す行動を再生産することになるのではないかと思います。
文化は誰かが与えてくれるのではなく、なにもせずに継続できるものでもなく、私たちの生活の実際から、現場から生まれてくる、つないで行くものだと思います。
こう書きながら、私は危機感を持っています。
それは「私がする」、「私が出る」ということだけでなく、それを発表する場を作ること、発表するのがうれしくなる雰囲気作りの一部になることも、大事な文化活動だという意識をつくることです。これは芸術だけでなく、文化としてのスポーツにもいえることだと思っています。
表現する場やプレーする場を求めているのに、そのような場を大切にしないということは、非常に利己的な行動だと思います。そのような人がたくさんいるまちに、文化が果たして育つでしょうか?住みやすいまちでしょうか?
私はそう思いません。
舞台にいるときにありがとうと言いながら、出番が終わるとささっといなくなってしまう。それに伴ってつながりがある人も観客をやめてしまい、会場から人ががんと減ってしまう。
大人がわからなければ、子どもたちがわかるわけはないでしょう。
心ある誰かに出会い、それを指摘されたり、一緒に活動したりしなければ、自分もその痛みを感じなければ、場を壊す行動を再生産することになるのではないかと思います。
文化は誰かが与えてくれるのではなく、なにもせずに継続できるものでもなく、私たちの生活の実際から、現場から生まれてくる、つないで行くものだと思います。
こう書きながら、私は危機感を持っています。