巨大地震や極端な気象現象による大規模な災害被害、今回のような新しい未知の感染症の拡大など、いろいろな事案が起こると、私たちのような政治に携わる人たちが、国や自治体にリスク対応や対策、計画策定などを求める場面が増えます。そうなると、行政側では学識者などから、専門的知見を得ながら取り組みを進めたりします。実際に行動するときにはより深い部分での知識なども必要でしょうから、専門家の存在は大切なところと思います。
政治に携わる人の「成果」とはどのようなものでしょう。その人の任期中に、国や自治体で「目に見える形で施設やインフラができること」や「条例をつくること」、「住民サービスが増えること」や「なにか制度ができること」などがすぐに思いつくところではないでしょうか。その他には、住民の方にとって「行政との関係がスムーズになること」や「事業が立ち上げられること」などのようなことも入るのではないかと思います。
けれど、それらは政治に携わる人の任期中だけの視点になっていないでしょうか。政治は、その国や自治体の将来にわたる取り組みだと考えると、視点を現在だけでなく、過去や未来にも向けながら考えたほうが良いのではないかと思います。
例えば「目に見える形で施設やインフラができること」から考えると、財政破綻した自治体があるとして、その要因に過剰な施設やインフラ投資があったとしたらどうでしょう。施設やインフラができた時点では、政治の成果として取り上げられていたかもしれません。しかし、それらによる負担が自治体財政に大きなダメージになってしまったとしたら、ある意味でマイナスの成果として評価されるべきではないかと思います。しかし、そのようなことはあまり言われないのではないでしょうか。
物事を動かすとき、作用があればなんらかの反作用もあるわけで、作用面だけではなくて反作用の分も評価することが、全体像を把握するときに大切なことだと思います。
ただ、残念ながら反作用の部分が見えるときは、数年先であったり、場合によっては関わる方が現場にほとんどいなくなったときであったりして、反作用の責任はその時に当事者になっている人が負う形になってしまったりすることが多いでしょう。であるなら、物事を動かすときには、反作用の部分のリスクもきちんと表に出すことが必要だと思います。その部分が、国であれ自治体であれ、議会であり議員の仕事として大切なところと考えています。
ですが、その部分は仕事の成果と評価されることが少ない、ほとんどないかもしれない領域になってしまっているのではないかと思うことが、非常に残念なところです。
今日は、防災危機管理課長と少し意見交換して、同僚の河尻議員とも話をしていました。今日はクルーズ船の乗客で感染された方のうち、ご高齢の2名の方がお亡くなりになられたというニュースが入ったことを知りました。そこで、新型コロナウィルスについて今後の動向はいろいろ不透明で、なおかつ、二月下旬には鈴鹿市内の各地で公民館発表会が開かれることや、その後は、中学校の卒業式、小学校の卒業式と行事が重なるので、市対策会議でも議論をしてもらうほうがいいのではないかと意見交換をしていたということです。
国が強制力を持って開催を中止しなさいとしない限りは、「卒業式を開催する」のか「卒業式を中止するのか」の選択は自治体で行うことになるでしょう。中止するということは選択しにくいことですが、「開催する」という方向で基本は考えたとしても、「中止」せざるを得ない場合を想定に入れておいたほうが良いと思います。開催するにしても、「従来通り開催する」、「従来通りだが延期して開催する」、「学校関係者(生徒・教員)のみで開催する」、「学校関係者のみで延期して開催する」、などなどいろいろなパターンが想定されます。
また、開催する時には「出席者全員、マスクを着用するのか」や「歌を歌ったりするのはどうするのか」などのようなことについての考えの整理も必要になるでしょうし、来賓や保護者の方には来場をご遠慮してもらうというのであれば、もしかすると「卒業証書渡しも含めた卒業式の様子を動画で撮影し、あとでDVDなどで配布をしてはどうか」などのようなことを考える可能性もあるでしょう。
いろいろな可能性を事前に想定しておけば、事態の変化に柔軟に対応できるでしょうし、また、生徒のみなさんはもちろん関わるいろいろな方と意見を交換しながら考えることもできると思います。
香川県議会で、18歳以下のインターネットやゲームの使用について使用制限を含む条例を、この2月から3月の定例会での制定に向けて動いていることが話題になっています。
■「ゲームは1日60分」香川県議会が全国初の規制条例制定へ 反発も相次ぐ ~ デジタル毎日より
ゲーム依存という社会課題があることは事実ですし、インターネットと子どもたちとの関係の間に課題もあるとは思います。それらの課題をどう解決するのかという点は、考える部分が多いと思います。ただ、リンク先記事にある「家庭内の問題」や「子供の人権を侵害する」といった意見について、自分ごととして考えることが必要と思いますし、高校生が約600人分の署名を集めて議会事務局に提出したという動きも重要な部分と思います。
今回のブログでは、この条例の是非について考えるわけではありません。ときどき「3ない」議会という言葉が挙がり、その中に「議員提案の政策条例の制定がない」があるのですが、そのことを考えたいと思います。
自分自身では、市民の立場として「鈴鹿市しあわせ環境基本条例」の素案策定の市民委員、議員の立場として鈴鹿市議会での「鈴鹿市地産地消推進条例」と「鈴鹿市議会基本条例」の制定と、条例づくりに関わっています。3期目から続いて、今期は「子ども条例、子どもの権利に関する条例」の制定を念頭に、いろいろな研修や視察を行いながら、あらためて条例制定について考えました。
条例について、制定することによって行政や議会の行動が担保されることは、時の首長や議会の構成に関わらず、まちの政策の方向性を継続的にするために重要だと思います。一方で、本当は条例があるかないかに関わらず、まちの行動規範として住民の方々に共有されていて、自然と行動や選択が行われていることが一番良いわけです。そう考えると、条例を制定して外発的にでも行動につなげるということもあるでしょうが、条例を策定することも含め、関わる人たちの内発的な動機付けを強くする過程が必要だと思います。
そこで考えたことは、議会での条例制定について、これまで以上に丁寧でかつ慎重になるほうが良いということです。
理由の一つとして、議決権の中に条例の制定と改廃があるとはいっても、直接請求権として有権者の50分の1以上の署名で条例の制定と改廃の請求を議会に行えますから、本当に条例が必要なのかどうかは、住民の皆さんの意志を最大限に尊重すべきですし、意志形成と意思決定の過程での住民参画を確保することが、議会提案の条例においては必要だと考えるからです。どこまで住民参画機会と議論を行うのか、応分の覚悟が必要ではないでしょうか。
そこに加えて、憲法や地方自治法でも保障されている請願権については、国籍を問わず未成年者にも請願や陳情を行うことができるとなっていますから、条例の内容によっては、意見を聴く層を広げることが、議事機関としての議会には求められるでしょう。また、条例はそのまちの法律であることを考えると、当事者となる主体は「住民」、「行政」、「議会」の三者ですから、それぞれに権利と責務があると考えるべきで、自分たちの行動を自分たちで規定する場合も含めて、議員も覚悟が必要になると思います。
そのようなことに配慮しなければ、議会の持つ条例の制定と改廃の権利は、誰かを傷つける暴力にもなりかねないことを肝に銘じなければいけないと思います。また、誰かの自己顕示のために制定するものでもないと思います。
議員の賛否を公開せず、修正・否決した首長提案議案も、議員提案の政策条例の制定もない「3ない」議会「ゲームは1日60分」香川県議会が全国初の規制条例制定へ 反発も相次ぐ
国会のほうで贈賄や公職選挙法違反が話題になっていました。また、選挙資金の不均等な配分も話題になっていました。これらのことについて、擁護するつもりはありません。ただ、このような状況があることが、今の日本の政治全体の課題と思っています。それは地方選挙でも同じような構図や、候補者の意識があるのではないかと思うからです。
自分の関係する市議会議員選挙においても、違反すれすれのことを確信犯的に行動している事例を見かけたりしました。そのようなことがあったときは、選挙管理委員会や場合によっては警察に確認する時があり、その状況について話を聞いているので、限りなくクロに近いグレーということにも出会いました。
「世の中を良くしたいから議員になりたい」のであれば、まず、このようなことからきちんとすることが当たり前と思います。議員にならないとなにもできないから、選挙に勝つために手段を選ばないというのであれば、そもそも意志に問題があるのではと思います。
日本が、地域が良くなっていくためには、大人のこのような空気や行動が変わらなければ、とてもじゃありませんが、公正で真面目に生きる人が評価される社会にはならないと思います。うまく世渡りをする、そんな人が利益を得ることが多い社会で、子どもたちに社会的正義を語っても、子供達には響かないのではないかと思いますし、それを信じた子どもたちには、もしかして絶望を感じさせてしまうことになるのではないでしょうか。
メディアで新型コロナウィルスの話題が上がらない日はありません。自分も朝、市役所に行く前は情報番組を見てから行くのですが、1時間くらいはパネルで取り上げている状況が続いています。はじめは中国・武漢での状況やクルーズ船の話題から始まって、今日は和歌山で医療従事者の方が感染していたなど、状況の変化が速いので仕方ないとは思いますが、見ていて、1月20日ごろは春節で観光客がたくさんくることを、どちらかといえば好意的に取り上げていたように思いますから、メディアも危機感が薄かったのだろうと思います。
沖縄や和歌山、東京、神奈川と、日本人の感染者が見つかっており、どこまで感染が拡大しているか測りかねますが、少なくとも、これ以上感染拡大のスピードを加速させないためには、不特定多数の人が密集して集まる都市などへの外出を数週間控えめにする方が良いのではと思います。ヒトの移動量を抑制することで、感染リスクを下げることは、私たちでできることと思います。インフルエンザとほぼ同じだから大丈夫だと思いすぎず、現在のところ有効な薬がないという事実を考えあわせて、もしもの際に手がつけられなくなる可能性を下げることが必要と思うところです。
中国での新型コロナウィルスに関する動きは、中国の経済活動に影響を与えて、貿易などの関係で他の国にも影響が出始めています。日本でもまず、春節での中国からの観光客を当て込んで、そうでなくとも、中国からの観光客を頼りにしながら、観光業を中心とした経済活動の活性化が期待されていたところ、そこで大きく皮算用が外れ、今後数カ月は見込みも薄くなったことは、国だけではなく自治体にとっても痛手だと思います。鈴鹿市でも、今後の動き次第では市内の企業に影響が出て、税収の下振れ要素が大きくなると考えています。
ただ、経済活動が多少減速しても感染拡大を抑制する方が、かかる医療費や社会的損失を考えた時に小さく抑えられるのであれば、その方向に舵を切ることが必要と思います。経済活動も人間生活があってこそで、そこが安心できなければ社会は安定せず、結果としてダメージが大きくなってしまうと考えます。
このブログの途中に、「不特定多数の人が密集して集まる都市などへの外出を数週間控えめにする方が良いのでは」と書かせてもらっています。鈴鹿市で考えれば、週末にショッピングモールに行くことや、不要不急の用事のために名古屋や東京などのような大都市に行くことを、少し控え目にしようと考えてはどうかということです。逆に行くのであれば、そう考えてから出かけることで、うがいや手洗い、いろいろ触った手でそのまま顔を触ったりするような行動を気を付けるという意識が高くなり、感染予防の効果も上がると思います。
また、外出を控え目にすることは、活動を全くせずひきこもるというような意味合いでもなく、その分の時間に読書をするとか、身近な地域との関わりに目を向けるとか、身近なところで活動をするとか、そのようにしてみたらどうかということも含んでいます。仮に自宅に居るようにしているとしても、それをこもっていると自分で考えて、ニュースなどを見たり情報を入れたりするのではなく、それこそ「風邪をひいてるから無理しないでおこう。出かけるのを控えている。」というとらえ方でいいと考えれば、無理のかかることではないように思います。
家にいる人が増えれば、その分、消費行動も減ることになって、経済活動に多少なりとも痛手となるとは思いますが、事態が収束せず不安の中で多くの人が生活するよりも、早期に事態が収束して、不安が少なく経済活動が戻るほうが、社会にとって利点が多いと思います。そのように考えて、痛手となった部分をみんなで支えていこうとするほうが、社会にとって良いと考えます。
昨日、議会運営委員会が開催され、2月定例議会の議案が配布されました。議案の肝は令和2年度予算案と総合計画2023基本構想改訂案と考えています。そこで、昨日から予算関係資料に目を通し始めています。
一般質問に関しては「気候変動適応計画策定について」、国会のほうで気候非常事態宣言を出そうという動きもあるようですが、宣言と関係させてということではなく、あくまで過去の質問の延長で、市民参画で策定することの必要性が高まったと考えることから、その流れで行います。1月の半ばくらいから徐々に話を始めているので、特に慌てることなく、話を詰める形になっています。
2月19日、10:00~本会議が開かれ、市長の市政方針が出され、議案説明、その後、議案質疑の通告締め切りがあります。質疑や一般質問に関しては、3月3日の予定になると思います。3月12日に所属の地域福祉員会が開かれ、3月25日の採決までいろいろと忙しくなりそうな気配です。
ちょっと古い話題ですが、小泉環境大臣が育休を取ったということについて、そのことを否定するわけではありませんが、取り上げられかたから感じたちょっとした違和感があります。なにかというと、そのように行動することを、話題として取り上げられる年代は、限られた年代になってしまうのではないか、ということです。
細かく言えば、いまの時点で子どもが生まれる、子どもが生まれたという人でなければ、そのような話題はありえないわけです。では、そのような方々以外の方は子育てに関わってきていないのでしょうか?そんなことはないと思います。子育てに積極的な方も多いと思います。おむつを替えることは当然と思っている人も多いと思うところで、子育てがひと段落、終わった方々が、過去にどのように子どもと向き合ってきたかという点に、もう少し目を向けて取り上げてもいいのではないでしょうか。
また、育休を取るということだけでなく、育休を取る形でなくても、仕事を定時で終わり、帰宅して子育てをすることも、同じくらいに意義のあることだと思うのですが、そのような点に目が向けられにくくなってしまっていないかと思います。そうするために、お父さん(小泉純一郎氏)にも手伝って頂くというのもありではないかと思ったりします。
ただ論外なのは、子育てをしている自分ということを、自分のパフォーマンスに使っているような方や、そもそも自分の行動を良く考えていないような方の場合です。どうしても外せない仕事や所用において、自分以外には子どもと一緒にいられる方がおらず、子どもも同席が必要だとすれば、それはやむを得ないことだと思います。ですが、どうしても外せない仕事や所用でないのに子どもを同席させることは親の都合であって、うがった見方をすれば同情を引くためにと受け取れてしまいます。本当に子どものためであれば、仕事や所用は休んで良いのではないでしょうか、でなければ、ある意味で児童虐待的な行動とも言えるように思います。
ともかく大切なことは、子育てをするという行動を通じて、どのような愛着関係を子どもとの間に築くかということだと思います。なので、ある時の特定の行動だけを称賛するのではなくて、それと同じ時点での多様な子育てのスタンスや行動、実際の子どもとの関係などを取り上げるほうが、より今の子育てのあり方を問うことができると思います。
2月定例議会の一般質問は「気候変動適応計画の策定」をテーマに、45分の質問時間で行おうと考えています。そのため、実は1月中頃から関係課と話すことを重ねてきています。理由としては、一般質問を早めに整理しないと、2月の予算議案やその他の議案審議が大変になることと、話を重ねることで、こちらの思いを伝え、少しでも実現につながるようにしたいからです。
この内容については、2015年12月と2018年9月にも行っていますが、他地域も含めた気候変動による気象災害の影響などを考えるとき、その必要性、ひっ迫度は非常に上がっていると考えるからです。これまでの鈴鹿市の取り組みのスピードや意識では、対応しきれない状況が想定されると思います。その影響は緩和策では追いつかない、適応を前提にしていかなければいけないと思っています。その上で、緩和策についても考える必要があります。
また、ここ数年各地で発生している気候変動に起因すると考えられる気象災害の状況を考えると、その動きは遅くできる可能性がありこそすれ、将来にかけてその影響から逃れることはできないと考えています。その理由は、海が暖まりすぎてしまっていることで、気温がどのように動くとしても、気候が不安定であることは避けられないと、いろいろな文献や情報などから考えているからです。
環境省から公開されている『 IPCC「1.5℃特別報告書」の概要 』を一度ご覧いただければと思います。ここに書かれていることから考えると、私たちはいろいろなことに関して、考え方や価値観を見直す必要に迫られていると思います。各地の被害から、河川や海岸の堤防の強化ということに注目が集まっていますが、それはこれから数年から10年程度の間であれば対応できるかもしれませんが、それより先は、それでも対応しきれない状況がくるかもしれないと考えるほうが良いのではないでしょうか。
そう考えると、鈴鹿市で気候変動適応計画を策定するにあたって、外せない2つの視点として「事前復興」と「市民参画」があります。また、そのどちらにも若い世代の参画と、考えを反映することは必須と考えます。学びの時間をしっかりととり、計画を作ることを目的化せず、検討過程を重視することが大切だと思います。一見すると大きな話のように考えられれるかもしれませんが、鈴鹿市というまちが持続的であり、次世代につなげていくためには避けて通れない課題です。
前に進めるよう、またより良い方向になるように働きかけたいと考えています。鈴鹿市議会では議案説明が行われる議会運営委員会の前に、全議員の一般質問の考えを聞きとり、情報を共有する取り組みを行っているため、この内容については、議会事務局についても連絡が済んでいます。
今日は午後から、鈴鹿市議の山口氏や亀山市議の今岡氏が中心になって行っている勉強会に参加させてもらっていました。内容は画像の通りで、「新しい時代の初等中等教育、GIGAスクール構想の実現、が高における働き方改革の取り組み状況、地域と学校の連携・協働、小中一貫教育、小学校における英語教育、学校における主権者教育」といったことを、約1時間で聞きました。
約1時間で聞いている中で率直に感じたことは、教員負担も大きいでしょうが、なにより子どもがしんどくなりはしないだろうかということです。プログラミング教育や英語教育は、これまでよりも確実に増えるわけで、それに適応できる子はいいでしょうが、必ずしもそのような子供ばかりではないと思います。どこかで、このような教育に疲れ、ついていけない、ついていくこと自体をあきらめてしまう、そんな子が増えてしまわないかと危惧します。
たしかに、今の社会で生きていくことを考えると、ICT教育やプログラミング教育はするべき領域だと思いますし、英語も話せたほうが良いとは思います。しかし、そもそも学ぶ意欲であったり、学んだことを活用しようと思う意欲であったり、それらが子どもたちの中になければ、学習量が増えることは負担にしかならない可能性が高くはないでしょうか。
また、学習のレディネスの観点も大切ではないかと考えます。教育の内容や質、その量について、学ぶことになる子どもたちの中で、身体の部分でも心の部分でも、必要な条件や環境が整っていないうちに、それらを越えるものが与えられたとしても、受け止めきれなくなってしまう可能性は高いでしょうし、考えられている教育効果そのものが上がらない可能性も高いのではないでしょうか。
そのことについて、忘れがちですが同じ学年といっても、子どもたちの年齢には、1年の幅が最大であるわけです。0歳と1歳、1歳と2歳を考えれば、その違いははっきりしているのではないでしょうか。また、自分でバレーボールの指導者をしていても感じるのですが、5年生の冬と6年生の冬では、できることに大きな差ができたりします。子どもたちはそれぞれ進む速さの違う成長を、身体でも精神でも行っている過程ということも、十分に考えるべきだと思います。
そのようなことを忘れてしまっていると、「~ギャップ」と呼ばれる現象が起こったり、不登校や学習意欲の低下などが起こる下地を、ずっと持ち続けることになるのではないかと危惧します。
学びに課題を抱えた子や、生育環境などに課題を抱えた子、いろいろな理由からしんどくなってしまっている子を支えるために、学習支援や居場所づくりを地域社会でサポートすることは大切だと思います。また、コミュニティスクールとして、地域社会で学校を支えること、地域と教員の協働で学校をつくることも大切だと思います。
しかし、だからといって、学校での学習内容に課題を抱えた子のために、学習支援などの事業を地域社会に依存する形にすることは、学校での学習という点から考えると本末転倒だと思います。地域による支援は、地域社会のセーフティネットで子どもを支えるという視点や、その地域のソーシャルキャピタルに包んでいくというものであるべきだと思います。
子どもたちを支える部分が、教育内容が大きく変わっていく中で、どのように国で考えられるのかが重要だと思います。自治体側でサポートすればよいのではなく、支える部分を自治体と協働して作り込むことにも力を入れてもらいたいと思いました。
他には、直接は今回の話と関係ないのですが、日常的に身近な自然と触れ合うことや、狭まっていく遊びの機会や時間などを、どのように教育の中で融合させるのか、それらの量をどれだけ豊かにできるのか、そのようなことも考えたほうがいいのではないかと考えていました。