市街地や市民生活に被害が出ているウクライナでの映像が、報道で多く流れています。自宅が墜落した飛行機で延焼したものの、地下室があったため助かったという高齢者の方の話があったりと、混迷の度合いが増していることを感じます。
どこか遠い国のことと見ることはやむを得ない部分があると思いますが、そのままでいいのでしょうか。
2004年にスマトラ沖地震があり大津波で被害があったとき、どういう視点で私たちはそれを見ていたのでしょうか。2011年の東日本大震災では、スマトラで起こったように津波が発生し、残念ながら大きな被害がでてしまいました。
想定外という言葉がありましたが、そもそも想定していなければ、常に想定外しかなくなってしまうのではないでしょうか。
韓国と北朝鮮はまだ戦争状態ということのはずです。その北朝鮮が次々と飛翔体を発射している現在、ウクライナで起こっていることは遠い国の話ではなく、もしかすると、私たちにも起こりうることと考えておくことが必要なのかもしれないと思います。
ミサイルが飛んでくるかどうかではなく、不穏な社会状況に包まれたとき、子どもたちの未来を守れるのか、食べるに困らないようにできるのか、それに対する備えはあるのか、そのようなことを考えることは、国が考えるのはもちろんですが、私たち自身も考えることだと思います。
新型コロナウィルスの流行に関して、陽性反応者の方の自宅待機にあたって食料支援や生活物資の支援が取り上げられていますが、少なくとも、大規模災害に備えて数日は支援がなくても食事ができる分を備蓄という話があるにもかかわらず、このような事態になっているということは、私たち自身も平成26年ごろの新型インフルエンザに関する記憶が薄れてしまっていることもあるかもしれません。
それを考えると、太平洋戦争末期の暮らしの記憶が薄れている、または遠い国のことのように感じてしまっているかもしれませんが、過去、私たちの祖父母の時代や親の世代で、戦争による窮乏もあったのですから、ウクライナでの動きを遠いところのことと思わず、私たちの今を考えることが必要だと思います。
鈴鹿市国民保護計画はすでに策定されていますから、いま起こっていることを念頭に置いて、計画を読み返して考えることから、行政も取り組んだほうがよいと考えていますし、懇談レベルですが話をしたりしています。