鈴鹿市議会議員 中西だいすけの活動日誌

鈴鹿市議会議員として年齢も含め5期目のベテランになりました。日々の活動や感じたこと、議会での動きなどをつづります。

なにを大切に守るのか

2020年03月29日 01時41分17秒 | Weblog

新型コロナウィルスに関して東京で感染者の増加が著しく、日本でも大きな影響が出る空気が濃厚になってきました。今後、国から非常事態宣言が出されるかもしれないですし、首都圏では休校要請以上の対応が出される可能性も高いのではないでしょうか。諸外国での対応から考えると、社会、経済活動に大きなブレーキがかかるでしょう。その影響は短期間ではなく、長期に渡っていく可能性が非常に高いと思います。それが世界全体で同時進行で起こっていることから、これまでに経験をほとんどしたことのない状態が目の前に迫っていると思います。

これまでの大きな災害では被災した地域があっても、周囲の地域や国は通常通り動くことが可能で、そこからの支援や経済活動の波及などで、傷が癒えていくように復旧・復興ができたと思いますが、今回は、物理的にダメージを受けるのではなく、復旧・復興を担っていく私たちの健康面のダメージで、それは個々の活動から社会全体の活動と、相当に広範にダメージを受けることになるでしょう。

どのような社会になるのか、おそらく余裕、余剰の部分で行っていた経済活動について、相当に減速することになるでしょう。そのことが今も出ている社会不安につながり、金融経済にも実物(実体)経済にも大きな影を落とすことになっていると思います。その影響について今の時点で考えることは、どう回避するかではなく、世界的な恐慌状態になったとしても、どのようにして私たちの生活を持続していくのか、非常に厳しい状態を想定して、その時点での社会の対応の在り方を模索することも入るのではないでしょうか。

もし恐慌になったとして、私たちにとって守るべき最小の状態はどのような形になるのでしょうか。

仮に活動に制限がかかっても、普段の生活が止まらないということ、その最低限は何かを考える必要があるでしょう。それは「住むところに不安がなく、お金が手に入り、食糧などを手にできる」に尽きるのではないかと思います。そのことに大きな揺らぎを感じたり、実際に損なわれる人が多くなると、社会の不安定さは非常に大きくなり、回復するのにも時間が相当かかってしまうことになるのではないかと思います。そのことから目をそらしてしまうと、場合によっては戦争につながってしまうなど、社会は相当に厳しい選択を迫られるかもしれません。

ですから、今は「住むところに不安がなく、お金が手に入り、食糧などを手にできる」ことを守ることを前提に物事を考える時期で、成長といった視点から対策を考えるのは時期が早いと思います。成長を考えるのであれば、前提になる部分をどう守るのかということを確保したうえではないかと思います。このことはある意味で、パソコンなどを使っているときにあることですがセーフモードで社会を動かす、必要最低限のシステム環境で社会を動かすという考えになるかもしれません。

そのとき、子どもたちにスポットを当てて政策に取り組むことが必要と思います。次の世代の表情が曇る、下を向くような状況では、社会の立ち直りに時間がかかるだけでなく、立ち直ったとしても暗い時代が続いてしまうのではないでしょうか。だからこそ生活に焦点をあてて、できるだけ日常を継続するという観点で、新型コロナウィルス対策を考えなければと思っています。そういう意味では、ベーシックインカムの議論は進められて良いと思いますし、立ち直るまでは生活保護の考えを拡大することも視野に入れることもあるかもしれません。

そのような政策を打つためには、日本だけでなく世界全体で考える部分もあるでしょう。今までは、グローバル化が進むのとあわせて金融空間が膨らむことで、いわゆる先進国では成長が形作られ、その動きに途上国の実物経済の成長も重なってきたのだと思います。しかし、世界全体で実物経済が止まりそうになっている現在、金融経済に制限をかけて、そちらの不安定さを抑制してはどうかと思います。実物も金融もどちらも不安定なままでは、経済を立て直すことには大きなショックが必要になってしまうように思います。あくまで素人考えですが。

ただ、今回の新型コロナウィルスで起こっている事態は、社会の仕組みを見直す機会なのだと思います。そのためにも、私たちのひとりひとり、この機会に世の中のことを考える時間を持ってはどうかと思います。

欲望を動かすことで成り立っているのではないかと思える金融経済はこのままでいいのでしょうか。私たちが享受してきた経済による恩恵を、世界全体で本当に同じように享受できるのか、できたとして世界は持続可能なのか。感染症にもろさを出したグローバル社会、人の移動はこれまで通りでもいいのでしょうか。意志形成や意思決定が必要な領域で、縁故や年功序列が強い影響力を持って存在していることが、私たちの社会にとって良いことなのかどうか。

自分でも、資本主義がこのままでいいかは懐疑的ですが、だからと言って、共産主義がいいとは思いません。しかし、モノやマネーが集中することできた格差が、そう簡単にその差を埋めきれない状況になっていることについては、なにかの形で変えていかなければ、混乱の時代を潜り抜けるとして、どうしようもないものになってしまうように思います。

自分の子ども、自分の孫、自分につながりのある子どもたち、このような状況だからこそ、いま一度表情をじっと見てみませんか。そして、彼らの表情の向こうに居る、もっとたくさんの子どもにも思いをはせませんか。そうすれば、いま何を守るべきか、何をすることが良いのか、見えてくるようと思います。

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消費税のことを考える前に

2020年03月20日 02時04分10秒 | Weblog

新型コロナウィルスによる社会や経済への影響に対して、消費税を下げる、消費税をなくして、景気対策をするべきだという意見をよく見かけるようになりました。ですが、自分としてはこの意見に与する感覚はありません。たしかに、昨年の10~12月期のGDPはマイナス7.1%となり、消費税が10%になった影響が出ているとは思います。それだけを見れば消費税率を下げることで、消費が回復するようにみえるかもしれませんが、はたしてそうでしょうか。また、消費税率が上げられたことで何が実施されているかを考えると、例えば幼児教育・保育の無償化がありますが、下げることによってその事業はどのような財源で実施されるのでしょうか。

消費税は国税だけではなく、地方税にも影響してきます。令和二年度の鈴鹿市当初予算では、地方消費税交付金として40億8028万2千円が見込まれて、総額645億円の歳入歳出予算が計上されています。8%だった昨年度は、35億円が見込まれていたことを考えると、消費税が地方に関係する額について、鈴鹿市には大きな影響があることが分かって頂けるのではないでしょうか。このような影響は全国の自治体にあることです。

自分が大学生だった1989年、3%の消費税が導入されました。当時、能書き親父のジャパン(関西の方はわかって頂けるかも)で買い物をしたとき、レジで前に並んでいた小学生が、消費税分のことで考えているのを見て、消費税のことを「なんだかなぁ・・・」と思っていました。それから30年、消費税は10%になっているわけです。その間、所得税率が改定されたり、法人税率も改定され、そちらでは税負担が下がっていたりします(高額所得や大企業で大きいですが・・・)。

■所得税率の推移(財務省ホームページより)

■法人課税に関する基本的な資料(財務省ホームページより)

そして、消費税率と同時に考えたいことは、この30年で国と地方を合わせた長期債務が急激に伸び、総額で1122兆円になっていることです。このことについて、国の試算だから問題はないという意見もありますが、国の歳出のうち約9兆円が利息のために使われているという現状は、決して無視できないことだと思います。

■国及び地方の長期債務残高(財務省ホームページより)

ですので、私としては、消費税率を下げるのではなく、税率は同じままにして、所得に関係するところで支援をして、消費につなげる政策のほうが良いと思います。それは、消費税率を下げない分、私たちの生活のセーフティネットを支えるためや、子どもたちの教育や福祉のために、税収で実施していくということをぶらさないようにしたほうがいいと思うからです。仮に、消費税率を下げても今の福祉にかけるお金を変えない、さらに支える力を強くしようと考えるとして、赤字国債でそれを賄うことになるのだとすれば、リスクや負担を将来に先送りすることになるのではないでしょうか。

読了した井手英策氏の“今こそ税と社会保障の話をしよう”という本の中で、井手氏の言葉に「金持ちをたたく、あるいは借金して金をバラまけば幸せになるのが人間か。痛みを分かちあい、すべての人の幸福を追求するために知恵を使うのが人間か。どちらなのでしょう。もし前者だとするならば、それは人間へのリスペクトがまったく欠けた議論です。そのような人たちの弱者への「配慮」とはいったい何なのでしょう。」とあります。この部分は今一度考えるところだと思います。

ですので、とてつもない痛みが想定される状況の中で、痛みを取り除くということばかりに目を向けてしまうのではなく、なぜ痛みが出るのか、痛みと思っていることでどのようなことが実施されているのか、そのようなことにも考えを向けていくことが必要ではないかと思います。

 

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不寛容さを緩和するために

2020年03月19日 01時53分50秒 | Weblog

「あなたは、白と黒どっちですか?」と聞かれたらどう答えますか?

はっきりと白か黒かと答える方もいれば、その間にあるグレーのどこかの位置だと答える方もいるのではと思います。

「知り合いのAさんは、白と黒どっちでしょうか?」と聞かれたらどうでしょう?

はっきりと白か黒かと答える方もいれば、その間にあるグレーのどこかの位置だと答える方もいるのではと思います。

これがある社会課題だったらどうでしょうか?

その場合も、本来は色と同じような答えになると思うのですが、そうではない状況が見受けられることが多いと思います。

そんなとき、白と黒の中間くらいにあるグレーのあたりの考え方は、白が濃い人から見れば黒と考えられ、黒が濃い人から見ると白と考えられてはいないでしょうか。つまり、中間に居ても、結果としてどちら側からも反対だと考えられる状況があると思います。

極論に偏りがちであったり、不寛容な風潮が広まっているのは、中間を許容できなくなってしまっていたり、尊重できなくなってしまっているからかもしれません。

自分の考えを白の側において、自分の考えの極論を真っ白に設定し、それに対をなす考えを真っ黒にして、自分の立ち位置がどこかを考えてみたり、自分の立ち位置を考えて、他の人の意見がどこにあるのかを考えると、不寛容さが幾分でも緩和するように思います。

いろいろな情報が飛び交う世の中だからこそ、視点を変えて物事を考えて、まずは自分だけでも寛容であるようにすることが、混乱する世の中では大事と思うところです。

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「非常事態」と考えるのなら

2020年03月03日 01時11分24秒 | Weblog
週末からずっと、フェイスブックでのいろいろな方の投稿の流れや、市役所で感じている、どこか引っかかるような感覚ですが、自分の中でなにが原因になっているかわかりました。
 
話に入る前に、いま、各地の役所で休校対応に取り組んでいる職員の方々は、非常に大変だと思いますし、感謝したいと思っています。
また、感染された方が日々増えている状況を、決して甘く考えているわけでもありません。個人的には1月末ごろから、感染拡大の可能性を憂慮していたくらいですから。
 
では何に引っかかるのかというと、今回の件が、突発的に起こる大災害などと同様の「非常事態」のように捉えられているのではないか、というところです。
 
首相の休校要請後、対応に首長をはじめ職員の方々が奔走している状況は、そこを見ると「非常事態」と受け取れます。しかし、首相からは要請であって、それぞれの自治体での判断で対応が可能だったことを考えると、要請に対して慌てる対応になってしまい、それにより「非常事態」感が増してしまっているように思います。
 
もし、大規模な自然災害と同じように「非常事態」と考えるのであれば、感染者の状況は、北海道と東海圏は違いますし、同じ東海圏でも、愛知、岐阜、三重ではまた違い、三重県でも市町によって状況は違うわけですから、地域での罹患状況などの科学的な情報と合わせた形で、国なり県なりから要請されることが必要と思います。しかし、今回はそのような手順が踏まれているようには思いません。このように判断に足る情報や、情報に基づいた要請がない状態では、本当に緊急を要する事態なのかの判断は、本来しかねるのではないでしょうか。
 
急ぐことが求められたのは、首相の要請会見とそれを受けたメディア報道などを踏まえての判断であって、本当に「非常事態」であるなら、科学的なデータや対策会議の専門家の公式発表などを根拠に、客観的に判断された結果で、早急な対応に取り組むべきなのだと思います。しかし、そうではなかっただろうという点は、やはり目をそらしてはいけないことだと思います。また、後付けで情報が出てくるとすれば、それはそれで問題をはらんでいるように思います。
 
重ねますが、感染拡大は憂慮すべき事態です。しかし、突発的にこのような状況になったわけではないですし、このような状況は、十分に想定できた範囲のことだと思っています。対応の検討についても同じで、事前にいろいろなパターンを検討できたのではないでしょうか。
 
なぜなら、新型インフルエンザ特別措置法があり、それに基づいて鈴鹿市でも「鈴鹿市新インフルエンザ等対策行動計画」が平成26年に策定されているからです。そこでは、今回の新型コロナウィルスのような感染症について「感染症法第6条第9項に規定する新感染症で,その感染力の強さから新型インフルエンザと同様に社会的影響が大きなもの」とすでに書かれています。
 
 
このようなことがある中で、今回の事案を大規模な自然災害のように、「突発的な非常事態」と認識することには無理があると思います(政治による突発的なものという視点は別として)。
 
このような考えからもうひとつ気になっていることは、大規模な自然災害による非常事態と、人的な要因が大きいと思われる今回の事態が、同列のように考えられることによって、行政権、執行権の側だけで物事が進んでしまいすぎてはいないか、時間的に議論や確認も行うことができたのではと考えられる中で、国会も地方議会もそこに関われていないのではないかということです。
 
今回のことは、「非常事態」についてのギャップと、首相の要請に対して首長をトップとした行政が動いたことに対して、地方議会は受け身になっていないか、そういうことが小骨のように引っかかっているのです。
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