鈴鹿市議会議員 中西だいすけの活動日誌

鈴鹿市議会議員として年齢も含め5期目のベテランになりました。日々の活動や感じたこと、議会での動きなどをつづります。

議員のなり手不足を考える

2023年01月30日 17時50分01秒 | Weblog

今朝の新聞で、地方議員のなり手不足が大きく取り上げられていましたが、なんだかなぁ~と思いながら読んでいました。なぜかというと、都市部より町議会や人口規模の小さな市などで、なり手不足は見られるように思いますが、報酬や活動の面はもちろんあるでしょうが、それだけではない部分もあるかもしれないと思うからです。

そもそも議員(国から地方まで)になるというところ、議員だけでなく首長もそうだとは思いますが、その動機について鶏か卵のような話になりますが、「地位や肩書が欲しい」から議員や首長になりたいのか、「社会課題に取り組みたい」から議員や首長になりたいのか、どちらがその人にとっての大きな動機なのかがあるように思います。いえば、その人の「欲」がどこにあるかなどで、周りの見え方や心理的な対処なども変わるように思いますし、それでブレーキをかける人も多いように思います。

それに、自分で引き際を意識しない限り、居続けるように行動することも可能な仕組みや制度なので、新規挑戦が難しいことやハードルが高くなっていることも考えられます。

例えば、小規模な自治体になるほど、議員や候補者がコミュニティと密接になり、ベテランの方が長期に渡って務められていたりすると、いろいろな人の人間関係の摩擦を考え、出ない選択をするほうがリスクは低く抑えられることもあり、結果、候補者がでないということにつながっているように思います。このことは人口規模だけでなく、まちの空気も大きいかもしれません。

また、どうしても「目立つ」ことからくるマイナス面もあるでしょう。

例えば、直接言われり間接的に聞こえてきたりといろいろありますが、例えば「お金のためにしているのだろう」や「就職活動をなぜ手伝わないといけない」などなど、いろいろな面からの批判がありますし、それは家族の行動にも及ぶことがあります。

加えて、新聞などのメディアで取り上げられることも少なく、あってもメディアなどの旬の記事ネタと重なるときくらいで、審議などへの平素の取組や、派手ではない政策課題などへの取組み部分はほぼない状態です。

考えると、政策とは関係ないところでの批判を耳にすることが多かったり、自分もそのようなことを口にすることがあったりしたら、議員になろうとすることを身内が言ったときどのような行動をとることが多くなるでしょうか、また、そもそも自分が立候補して議員になることを考えるでしょうか。

そこに「選挙には、地盤(支援組織)、看板(知名度)、カバン(お金)の三バンが重要」という言葉があり、それを前にひるむ人も多いことが考えられます。

実際に先の統一選の際、引退される方が自分の後継者として候補を連れてあいさつ回りされていたことを目にしましたし、また、「地盤を譲ってほしい」という話を持ち掛けられた方の話を聞きしました。そう考えると、先の「三バン」は強固になっていて、議員のなり手を減らす方向に動いているようにも思います。

ただ一方で、都市部や都市型の地方として明確に、議員のなり手が不足しているとは思えません。ずいぶん前の元兵庫県議の事例がありましたが、「トンデモ」議員や候補者のような人の割合が増えているように思います。

ですから、議員のなり手不足が語られるとき、もう少し引いたところから考えることが必要と思いますし、それはメディアの役割でもあると思います。

そして、国でも問題と考えているというのであれば、国政に関わる政党が努力していく部分もあるのではと思います。ひとつに、女性の議会への進出を言うのであれば、地方議会の候補者擁立を増やし、女性議員を増やすことが。それを推進された方の課題ではないでしょうか。

そのような部分からの検証も必要な課題と思います。

 

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違和感を感じていること

2023年01月24日 11時00分35秒 | Weblog

少子化対策としてお金を配ったり、子育て支援に財源を入れますという話を聞いていて、たしかにそのような政策も大切だとは思いますが、小骨が引っかかるような感覚があります。

ひとつは、生まれてくる子どもたちにとって、将来は安心で安全な社会であるのか、幸せな社会であるかという観点があまり聞かれないことです。生きることに喜びを持てる社会にすることが大切なはずですが、その展望が希薄なまま語られているのではと考えたりします。

例えば、大学進学と生涯賃金の関係などから大学進学が語られたりしますが、それは進学で格差が生まれることを、私たち自身が受容してしまっているからではないでしょうか。それを前提にしたままこれからの社会を考えても、しあわせを感じられる子どもたちはひと握りのように思います。

もうひとつは、財源の考えは結局のところ売掛のようになってはいないかということです。現時点の財政の中から財源を出すにしても、債券を発行して財源にするにしても、増税を選択するにしても、将来世代がそれらの負担に関わることは変わらないと思います。だからこそ、現役世代は選択に慎重に取り組むべきと思いますし、将来世代も参加して考える機会、意見を言うことができる機会を持つべきと考えます。

“いま”を起点にして、そのあと数年程度の展望で選択が行われた結果、次の世代でのひずみが大きくなったとしたら、身を切るような選択を次の世代が行わなければいけなくなるとしたら、それは誰の責任なのでしょう。

このようなことを考えていると、現役世代の責任は、実施や実現ばかりに目を向けるのではなくて、人口が減る将来に向けて、そのときの世代に選択の余地ができるよう、自立して社会を考えることができるよう、財源などについて厳しく考え直すことを、政治に関わる人はもちろんですが、一人でも多くの人が考えることからなのだと思います。

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