平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

龍馬伝 第34回「侍、長次郎」

2010年08月23日 | 大河ドラマ・時代劇
★長次郎(大泉洋)の死。
 でも、その死に至る過程はどうも長次郎の<ひとり相撲>の様な感じがするんですよね。
 買い付けた軍艦。
 長州がお金を払ったのに<薩摩名義>で自由に使えないというのは、視聴者としてはやはり違和感を感じる。だから長次郎の行為を理解できない。長州の井上聞多との約束で<薩摩名義>になったのかもしれないが、その交渉の過程が描かれていないから、梯子をはずされた長次郎の怒り、悔しさが伝わって来ない。
 そして英国渡航と切腹。
 これも<偽侍>と言われ、居場所がなくなった長次郎が勝手にやった行為。
 気持ちとしてわからないでもないが、やはり<ひとり相撲>だ。
 切腹も社中に害を及ぼさないためだったのだろうが、龍馬(福山雅治)や社中の仲間に相談するという手段もあったはず。
 そして相談もせずに自己判断で死んでいった長次郎の孤独を考えると、龍馬や社中の人間関係ってうわべだけ? と思えてしまう。

 <侍として切腹して死ぬ>というのも脚本の福田靖さんは好きな様だ。
 武市しかり、平井収二郎(宮迫博之)しかり。今回の長次郎しかり。
 どれも美しく描いている。
 切腹を美しいものとして作家が考えるのは個人の自由だが、龍馬はどう考えているのだろう?
 長次郎の遺体を見て龍馬は「愚かな死」だと考えた様だが、一方、今回のタイトルは『侍、長次郎』。侍となった長次郎を讃えている。
 もし龍馬が長次郎の切腹を愚かなことだと考えているのなら、タイトルは『愚かな死』の方がふさわしい。
 あるいは、龍馬には「(腹を斬って)侍になることに何の意味があるぜよ!」と叫ばせてほしかった。
 この点、作家の<侍として死ぬこと>の美意識が影響してか、内容が曖昧、ブレた感じになっている。
 ちなみに僕は弥太郎(香川照之)の様な<どんなことをしても生き残ってやる>というスタンスの方が好きだ。

★あとはいくつかツッコミを。

 今回、龍馬は「長州に武器を売ったのは幕府に攻めさせないためだ」と言った。たったひと言のせりふだったが確かにそう言っていた。
 つまり武器はいくさを起こさないための抑止力。
 外国が日本を狙っている中、国内で争っている場合ではないという考え方。
 しかし前回までは幕府を倒さなければ、日本は守れないと「倒幕」を叫んでいた。
 この矛盾。

 また今回、高杉晋作(伊勢谷友介)は身を守るためのピストルを渡した。
 つまり薩長同盟のことで龍馬は命を狙われる存在になったということだ。
 ということは前々回、龍馬が京都に潜入した時、命が危ないと描かれたのは間違い? それほどの危険人物でなく近藤勇に偽名など使う必要はなかった? ということではないか。

★今回のことをまとめます。
 <侍であるということ>、<倒幕>、龍馬の置かれている客観的な情況。
 龍馬に関するあらゆることがブレている様な気がする。
 ちなみに僕が考える龍馬像とは、<侍など否定している龍馬><死ぬことではなく生きることを志向している龍馬><国内で争っている場合ではないというスタンスの龍馬>だ。

 
コメント (4)
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