平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

おんな城主直虎 第6回~黴びたまんじゅうになることが、井伊の家が安泰である証であろう

2017年02月13日 | 大河ドラマ・時代劇
「それが重畳であろう。
 われが黴びたまんじゅうになることが井伊の家が安泰である証であろう」
 家のために結婚をあきらめる次郎法師(柴咲コウ)。
 自分が死んだことになったら、もし直親(三浦春馬)に何かがあった場合、跡継ぎがいなくてしまうからだ。
 これに対して、直親も理解して、
「置き去りにしてすまぬ。
 葬らねばならぬのは俺の心じゃ」
 ………………

『ロミオとジュリエット』の逆バージョンですね。
 ロミオたちは家を捨て、死を偽装して自分たちの恋をまっとうしようとしたが、次郎法師たちは逆。
 家にこだわり、死を偽装せず、自らの恋を捨てた。
 ロミオたちの方が次郎法師たちより<近代人>ですね。
 時代的にはロミオたちの方がやや古い人間だと思うが、ルネッサンスを経た分、人間として解放されている。

 しかし、後ろから抱きしめる〝あすなろ抱き〟はしっかりやる次郎たち。
 このあたりは<現代人>?

 家のために生きると決めた後の次郎法師たちはさわやかだった。
「竜宮小僧はなかなか楽しうございますし、次郎はこのままでよいと思います」
「井伊のために良きお方なら喜びです」
 ふたりの顔に迷いはなく、目は前をまっすぐ向いている。
 このあたりは悲劇で終わった『ロミオとジュリエット』と対照的だ。
 人間、自分の決定に納得できれば、悲劇は悲劇でなくなるのである。

〝道威の中と伯のエピソード〟は、次郎法師の決定に説得力をもたせる小道具として機能した。
 こういう上手い比喩で表現されると納得させられてしまうんですよね。
 これが「家のためにあなたとは結婚しません」という直接的な表現だったら、興ざめなものになってしまう。
 ………………

 竹千代(阿部サダヲ)の描写も上手いですね。
 鷹ではなく雀を可愛がっている。
 おまけに、その雀が懐いている。
 今回の家康は〝いい人〟として描かれるんだろうな~。
 このことが、このシーンだけではっきりわかる。

 後に築山殿になる瀬名(菜々緒)もイメージどおり。
 気が強くてヒステリックで、竹千代とのやりとりだけで後の夫婦生活が想像できる。
 ………………

 最後は〝あきらめ〟。
 次郎法師は「われは諦めるクセがついた」と言っていたが、〝諦め〟というのは仏教では重要な言葉。
 仏教では〝物事に固執するな〟、世の中のあらゆることを〝諦めよ〟と教えるんですね。
 家を捨て、僧になって寺で生活することは、俗世の執着から離れること。
 そうすることで自由になれる。

 だから、恋愛に固執し、家に固執する次郎法師は悟りからは程遠い。
 しかし、固執することは生きることでもある。
 欲望や思いを死ぬ瞬間まで捨てきれないのが人間だ。
〝諦め〟の空間である寺と〝欲望と執着〟の空間である俗世──次郎法師は、その両者の間を行き来している。

 この件が出てきたので思い出しましたが、
 ふみかす(清水富美加さん)、戻って来なよ。
 出家なんて早すぎる。
 もっと迷い、いろんな経験をしてからじゃないと、本当の仏教にたどり着けないんじゃないかな?

コメント (4)
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