先日の日曜日、何気なくテレビをつけたら『日本の極論』という番組をやっていた。
内容は、あるテーマについてプレゼンテイターが『極論』を述べ、森永卓郎さん、えなりかずきさん、シェリーさん、江川達也さんらがその正否をジャッジするというもの。
その中で、面白かったのはスポーツライターの玉木正之さんの極論。
『体育の授業を廃止せよ』
理由と趣旨はこうだ。
「日本の体育の授業は軍隊教育の名残である。
跳び箱は戦場で障害物を跳び越えるためのもの、懸垂は重い銃を担げるようにするためのもの、走り幅跳びは塹壕を跳び越えるためのもの。
軍隊教育を否定するわけではないが、運動としてはつまらない。
つまらない運動は苦痛でしかない。結果、子供たちは運動嫌いになる。
スポーツとは本来楽しいものである。
だから現在の画一的な体育の授業を廃止し、子供たちがやりたいと思うスポーツ、やって楽しいスポーツに特化して授業にしたらどうか」
この極論に僕は賛成。
私事になるが、僕も跳び箱、懸垂など大嫌いだった。
ところがこの二年くらい、スポーツジムでダンスを始めたら、これが面白い。
ステップをマスターして、自分の動きで動けるようになるともっと楽しくなる。
週二回のジム通いだが、体重は8キロ減ったし、腰痛・肩こりはなくなった。
ランニングしても楽に走れるし、気持ちが前向きになった。
自分の体に関心を持つようになり、日常生活や食事なども気を遣うようになった。
EXILEやAKB48のダンスのディティールがわかるようになった。
このように、ひとつの<ダンス>がきっかけになって、どんどん世界が拡がり、健康になった。
これこそがスポーツのあるべき姿ではないか?
退屈でつらい体育の授業こそが、日本人の運動嫌いを助長しているのではないか?
やるスポーツは別にダンスでなくてもいい。
野球とかサッカーとかテニスとかスキーとか、自分がやって楽しいスポーツがあるはず。
ただそれをやればいい。そうすれば体を動かすことが楽しくなる。
ということで、僕は玉木さんの極論に賛成なのだが、多数決による、えなりさんたちの判定は却下。
却下された玉木さんは「既存のものを壊すということがいかに大変かがよくわかった」とコメントされていたが、これも正論。
大改革をやろうとすれば、かならず抵抗する反対勢力が出て来る。
このことは政治の世界を見てみればよくわかる。
だが、今こそこれまでのものを壊して、新しいものを創り上げていく時期なのだ。
だから大阪・橋下市長には期待。
今の時代、〈極論〉こそが大事なのかもしれない。
内容は、あるテーマについてプレゼンテイターが『極論』を述べ、森永卓郎さん、えなりかずきさん、シェリーさん、江川達也さんらがその正否をジャッジするというもの。
その中で、面白かったのはスポーツライターの玉木正之さんの極論。
『体育の授業を廃止せよ』
理由と趣旨はこうだ。
「日本の体育の授業は軍隊教育の名残である。
跳び箱は戦場で障害物を跳び越えるためのもの、懸垂は重い銃を担げるようにするためのもの、走り幅跳びは塹壕を跳び越えるためのもの。
軍隊教育を否定するわけではないが、運動としてはつまらない。
つまらない運動は苦痛でしかない。結果、子供たちは運動嫌いになる。
スポーツとは本来楽しいものである。
だから現在の画一的な体育の授業を廃止し、子供たちがやりたいと思うスポーツ、やって楽しいスポーツに特化して授業にしたらどうか」
この極論に僕は賛成。
私事になるが、僕も跳び箱、懸垂など大嫌いだった。
ところがこの二年くらい、スポーツジムでダンスを始めたら、これが面白い。
ステップをマスターして、自分の動きで動けるようになるともっと楽しくなる。
週二回のジム通いだが、体重は8キロ減ったし、腰痛・肩こりはなくなった。
ランニングしても楽に走れるし、気持ちが前向きになった。
自分の体に関心を持つようになり、日常生活や食事なども気を遣うようになった。
EXILEやAKB48のダンスのディティールがわかるようになった。
このように、ひとつの<ダンス>がきっかけになって、どんどん世界が拡がり、健康になった。
これこそがスポーツのあるべき姿ではないか?
退屈でつらい体育の授業こそが、日本人の運動嫌いを助長しているのではないか?
やるスポーツは別にダンスでなくてもいい。
野球とかサッカーとかテニスとかスキーとか、自分がやって楽しいスポーツがあるはず。
ただそれをやればいい。そうすれば体を動かすことが楽しくなる。
ということで、僕は玉木さんの極論に賛成なのだが、多数決による、えなりさんたちの判定は却下。
却下された玉木さんは「既存のものを壊すということがいかに大変かがよくわかった」とコメントされていたが、これも正論。
大改革をやろうとすれば、かならず抵抗する反対勢力が出て来る。
このことは政治の世界を見てみればよくわかる。
だが、今こそこれまでのものを壊して、新しいものを創り上げていく時期なのだ。
だから大阪・橋下市長には期待。
今の時代、〈極論〉こそが大事なのかもしれない。
勝ち負けについては、これまた教育の大きな課題ですね。
徒競走や学習で順位をつけないなどのゆとり教育の結果、学力低下などの弊害が出てしまったらしい。
現在はその反動で、脱ゆとり教育に傾斜しているようですけど、定まりませんね、日本の教育は。
個人的には「平清盛」ではありませんけど、「遊びをせむとや生まれけむ」で、やって楽しいことが根本のような気がしています。
勝敗を競うのもやって楽しければやればいいわけで、おそらく楽しければそこから学ぶことも多いと思います。
そして、私たちのように(?)勝敗のある競技をやっても苦しさしか感じない人間は、ダンスとかジョギングとかヨガとか太極拳とか、自分と向き合う種目をやればいい。
問題なのは画一的なカリキュラムですかね。
なのでTEPOさんのおっしゃる「選択制」に賛成です。
現実的には、現在の学校で「選択制」など、人材的に対応できないというのが現状でしょうが、おっしゃる<専門のコーチ>はいいアイデアですね。
スポーツジムでは、まさにクラスごとに専門のコーチがやって来て実行されていますし。
文科省などの官は硬直化していて、民間は柔軟に対応できているということでしょうか。
ダンス、ジョギング(時間に挑戦するマラソンや長距離走ではない)、ストレッチ、ヨガ、太極拳、弓道(武道競技だが修養の要素が大きい)。
皆さんの救いとなっている「体技」-「スポーツ」と言えるか微妙なものもあるので-に共通しているのは「勝ち負け」の要素が少なく、心身の健康のためにマイペースで楽しめるということですね。
翻って見れば、学校体育には「競技スポーツ偏重」という問題点が指摘できると思います。
このことの原因は教員養成のシステムにあるのではないでしょうか。
体育教員を養成する大学は大抵何らかの種目で優れた競技実績をもつ学生を取ります。その結果体育の教員となるのは自身そこそこ(無論上を見ればきりがない)優秀な競技選手で、競技選手養成のノウハウに明るい人ということになります。そのように育った人の目には、目の前の子どもたちは、オリンピックや世界選手権を頂点に、国体・インターハイと連なる競技世界のピラミッドの「裾野・底辺」と映るのが自然で、そこに子どもたち(国民)「皆」が学ぶべき「体育」の目標と「ずれ」が生じると思います。
もちろん見識のある先生たちはその「ずれ」を自覚し、見方を補正されておられるとは思いますが、体育の教科内容全体の方向性にはそうした「ずれ」が反映しているように思います。
競技スポーツの中でも特に陸上競技(「槍投げ」「砲丸投げ」!)、ボクシングやレスリングなど古代ギリシアにまで遡る競技は明らかに兵士としての力量を競うもの。球技は純粋に「遊び」が起源でしょうが、これにも「勝ち負け」があります。
競技スポーツは、勝つ(チーム内での活躍も含む)ことができる子、努力次第である程度勝てる子には楽しみでしょうが、勝ちと縁がない子には苦痛でしかありません。
そうした子が「学校」という一種の権力性を帯びた空間の中で参加を強制されることが問題なわけです。
もちろん、才能ある競技選手の発掘・育成ということにも意味はあると思いますが、あくまでも「好きな子」のみに道を開くべきでしょう。
ですから、競技スポーツについてはあくまでも「選択制」とするか、学校の体制上難しければいっそ「部活」にすべて委ねてしまうのも一案かと思います。教員で対応できなければ、それこそ専門のコーチに依頼することもできるでしょうから。
そして、子どもたち全員「必修」の「体育」については、心身の健康を増進するために誰もが楽しくできるような内容を精選すべきだと思います。
その際、人間の身体に関する最新の科学的研究を踏まえるべきでしょう。科学の進歩は、かつてトレーニングの「定番」であった「ウサギ跳び」に象徴される有害無意味な苦痛を除き、ヨガや太極拳など、東洋系の体技に秘められた叡智にも正当な位置づけを与えてくれると思いますので。
以上、体育嫌いの視点に偏った意見かもしれません。体育好きの人、あるいは体育の先生の意見も聞けるといいですね。
megumiさんは太極拳ですか。
皆さん、それぞれにいろいろなスポーツをやられているんですね。
太極拳はNHKの教育でやっていたのを見て、少しやってみた程度ですが、<体幹>や<気>を意識させてくれる運動ですよね。
ヨガ同様、奥が深い。
西洋のエアロビクスなどの理論もいいですが、東洋の理論も見直されるべきですね。
太極拳は子供には不向きな運動なんですか。
なるほど。
考えてみると、昔の学校は体に悪いことをずい分やらせていましたよね。
うさぎ跳びなんかは絶対に膝に悪い。
運動中は水を飲むな、とも教えられましたし。
体に気を遣い、意識して、健康に暮らしていきたいですね。
体育に関しては
小中高 一貫して苦手中の苦手でした
評価も3なら良い方 たまには2でした
運動神経がゼロだったのでしょう
跳び箱も逆上がりもできないまま
ドッジボールを始め 球技も苦痛でした
それが 大人になって
弓道と太極拳ならば そこそこ楽しんて出来るし有段者にもなりました
自分に相性の良いスポーツ(?)に出会えば
子供たちは幸せでしょうね
(太極拳は常に片脚だけに体重がかかるので骨が成長しきっていない子供には不向きだそうですが・・・)
画一的な体育の授業は見直す必要があると思いますよ
コメントありがとうございます。
今後もよろしくお願いします。
>入会のきっかけは会費だけで大風呂に入れること
僕も同じでした!
スポーツジムのジャグジーやサウナに入りたくて入会しました。
物事の入口って、こんなものですよね。
でも、どんな動機であれ、入ってみることが大事。
スポーツもまず楽しい所から入ることが大事だと思いますし。
あるスポーツをやってみて楽しいなと思って続けていき、もっと出来るようになりたいと思って努力していくうちに体力もついてくる。
この流れが大切だと思います。
なのに体育の授業は、体力をつけることを目的にまず難行苦行。
これでは入口でやめてしまいます。
ぷくさんはヨガですか。
インストラクターの先生によって違いはあるとは思いますが、僕が時々参加するクラスは、呼吸を大事にしていて、瞑想音楽の中で横になって呼吸をしているだけで、大きな宇宙みたいなものと通じ合っているような宗教的な感覚を味わうことができます。
深いですよね、ヨガは。
コウジさん独自の視点で書かれた記事がとても興味深く、以前から愛読させていただいてました。
この番組は見ていないのですが、玉木さんの極論もコウジさんの考察にも共感したので初コメントです。
私も学生時代、体育は大嫌いでした。
北国なので、真冬の氷点下の体育館で体操着のみで一時間過ごさなければいけなかったのは今でも辛い記憶として残ってます。
今思うと、いくら子供でも、防寒なしの運動は身体に毒な気がします。
そんな経験から自分はスポーツが嫌いだと思いこんでいました。
大人になって会社員になり、WiiFitを始めたり、スポーツジム(入会のきっかけは会費だけで大風呂に入れることで運動はするつもりもありませんでした)でヨガなどをやってみたら本当に楽しい!!
当時の自分の手帳には「自分が嫌いだったのは体育でスポーツではなかった、混同したまま今まで過ごしてなんてもったいなかったんだろう」と書かれています。
スポーツは運動神経のいい人だけが楽しめるものではないことが体感できるような体育の授業があればいいですが、今のカリキュラムでは難しいですかね。(自分には子供がいないので、今現在の体育がどんなものかはわかりませんが。)
初コメントなのに長文で申し訳ありません。これからも記事を楽しみにしています。
この記事は、おそらくどなたも反応なさらないものだろうな、と思って書いたものなので、コメントをいただいて嬉しいです。
>この問題を考えるにあたっては、「体育」以前に、そもそも「学校」-特に「公立学校」-というシステムそのものが「近代的ナショナリズムの再生産」という機能を果たしてきた、という事実を念頭に置く必要があるように思います。
おっしゃるとおりですね。
「学校」というシステムは、戦前においては<国家の役に立つ人材の育成>、戦後においては<企業に役立つ人材の育成>のために機能していると極論してもいいかもしれません。
もちろん、そうした面もある程度必要ですが、今後は時代も変わってきていますし、もっと新しい教育の形があってもいいような気もします。
それが、今回の玉木正之さんの主張ですよね。
現に学校の体育を苦痛に感じていた人間がここにふたりいるわけですから(笑)
いずれにしても現在は、既存の、今まで良しとされてきたことをすべて疑って、見直してみる時期だと思っています。
そして、文科省ではそれが出来ない。
識者と言われる偉い先生方も専門で教育のことを考えているはずなのに、新しい発想が出て来ないのはどういうわけでしょうね。
ところでTEPOさんはジョギングとストレッチですか。
僕はどうもストレッチが苦手で。
なので体はかなり硬いです。
私も少年時代「体育」さえなければ、と思っていた運動劣等生だったので個人的には大賛成です(笑)。
まじめな話、「体育」なり「スポーツ」とはそもそも何であり、なぜ子どもたちがこれを「学ぶ」必要があるのか、は問われてよい問題だと思います。
「スポーツ哲学」なる学問分野があるそうですが、そこではその「スポーツとは何であるのか」という「スポーツの本質(一義的定義)」が存在するか否か、というところからして一致した見解がないとのことです。
ですから、現に存在する制度なりシステムなりの評価から議論をはじめるより他ないのでしょうね。
その意味で「日本の体育の授業は軍隊教育の名残である」という玉木正之さんのご指摘には興味深いものがありました。
また、中学校の新学習指導要領では武道が必修化されるそうで、現場の先生たちは安全管理に不安を抱えている、という話も聞きます。
この問題を考えるにあたっては、「体育」以前に、そもそも「学校」-特に「公立学校」-というシステムそのものが「近代的ナショナリズムの再生産」という機能を果たしてきた、という事実を念頭に置く必要があるように思います。
この点をどう評価するのか、というところから立場が分かれてくるのでしょうから。
問題は「坂の上の雲」でコウジさんが考えてこられたこととつながるのでしょうね。
私個人としては、「体を動かすことの意味は健康増進」に尽きる、と考えていますので、「少年時代の恨み辛み」は水に流して、40代の初めからジョギングとストレッチだけは続けています。