平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

麒麟がくる 第37回「信長公と蘭奢待」~天下をほぼ手中にした信長が求めたのは「権威」だった

2020年12月21日 | 大河ドラマ・時代劇
 武田信玄(石橋凌)病死。
 浅井・朝倉滅亡。
 将軍・義昭(滝藤賢一)、捕らえられ、室町幕府終わる。

 歴史が一気に進んだ。
 近畿を制圧して、ほぼ天下を手中におさめた信長は『権威』を求めた。
 今井宗久(陣内孝則)の言葉を借りれば、
「自分の値打ちを知りたい」と思った。

 それが、香木・蘭奢待(らんじゃたい)だった。
 大きなことを成し遂げた者のみが見ることができる正倉院の秘宝。

 信長さん、そこなのかい!?
 とツッコミを入れたくなってしまうが、信長が欲したのは、権威や地位だった。
 そこには、どんな社会をつくりたいかという構想がない。
 旧い秩序や既得権を壊したのはいいが、壊した後に何をつくるかを考えていない。
 今作の信長は、ただ褒められたいだけの『ビジョンのない人物』として描かれている。
『天正』を『天は正しい』と信長は読んだが、信長の社会構想は「帝が頂点にいて自分が支える」くらいのものだろう。
 それを危惧する光秀(長谷川博己)。
 信長がたどり着いたのは、山の中腹。山頂にはまだ遠い。

 余談だが、安倍晋三氏も憲法を改正して、その後にどんな国をつくるかというビジョンがない。
 野党時代につくった自民党の憲法草案は否定しているし、
 9条に自衛隊を書き込んでも「何も変わらない」と言ってる。
 要するに「憲法を改正した宰相」として名前を残したかっただけではないのか?

 さて信長。
 自我がどんどん肥大化している。
 将軍・義昭を追い落とし、自分の上にいるのは帝のみ。
 武田信玄もいなくなり、浅井・朝倉が滅びて、当座、大きな脅威もなくなった。
 こうなると万能感に囚われて狂い出す。
 これが権力の誘惑だ。
 それは義昭も免れず、駒(門脇麦)に「将軍をおやめください」と言われても、
 自分にはまだ力があると思い、囚われている。
 義昭は、駒が言うとおり、半径100メートルを幸せにする人物で大きな力を振るう器ではなかった。

 さて、光秀はこんな信長とどう従い、向き合うのか?
 三淵藤英(谷原章介)の言う『家臣の器』が試されている。


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2 コメント

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作家のこだわり (コウジ)
2020-12-22 09:19:58
TEPOさん

いつもありがとうございます。

>義昭の中に一時的に<覚慶>が蘇り
駒や光秀は、義昭に<覚慶>を思い出させてくれる存在なんですよね。
しかし、人は変わるもの。
立場や地位があればなおのこと。
今井宗久は「山の頂上を見れば信長は変わる」と言っていましたが、どう変わってしまうのか?

恋愛関係は、駒が女性らしくなり、たくましくなったことを考えると、あったんでしょうね。
門脇麦さんも、それを理解して演じ分けている?

今作は確かに「英雄」がいませんよね。
何かに迷っていたり、何かが欠けていたり。
「英雄譚」なら信玄をクローズアップしたりしますが、それをしない。
秀吉の軍師である竹中半兵衛や黒田官兵衛も登場しない。
今まで大河ドラマが描いてこなかった摂津晴門や三淵藤英を描くあたり、作家のこだわりを感じます。

「殿」と「様」の件は気づきませんでした。
細部からさまざまなことが読み取れるんですね。
三淵藤英に関しては、光秀が「紙一重」という言葉を使っていましたが、共通しているのは「室町幕府の再興」ということなんでしょうね。
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「英雄」には描かない (TEPO)
2020-12-21 16:29:50
先週の伏線を回収して、駒の方からしっかりと別れ(「義昭付き」辞任)の挨拶に出向いていました。
個人的には二人は恋愛関係にあったのか、それとも「民を救いたい」という思いでの単なる同士的関係だったのは気になっています。
象徴的に言えば、暗い蚊帳の中で手を握って蛍を愛でたあの晩、その後何かあったとも、ただそれだけだったとも、両方の可能性があります。
いずれにしても、駒が慕っていたのは「半径100メートルを幸せにする人物」<覚慶>でした。
「駒を欺いてしまったのかもしれぬな」との台詞の後で駒は涙を流していました。
これは、その時義昭の中に一時的に<覚慶>が蘇り、もはや自分(<覚慶>)がいなくなってしまったことを駒にを詫びた台詞であり、そうした<覚慶>に向けての涙だったのでしょう。
義昭の中から<覚慶>が次第にいなくなってゆく、というプロセスが本作の義昭像の胆であり、このことを際立たせるのが駒の重要な役割の一つだったと思います。

本作は、「英雄」を描かないという方針のようです。
信長包囲網の打破―武田信玄の死、朝倉義景、浅井長政の討滅、そして義昭の捕縛―は、信長・秀吉視点のドラマならばそれぞれが「見せ場」であり、そこでヒーローが「英雄」化してゆくわけですが、ほとんど「ナレ死」寸前の描写で結果だけが示されています。
「権威や地位」を欲する信長の本質は「褒められたい」の自己承認欲求であり、おそらくそれは父母から愛されなかったことの結果だった、という人物造形なのでしょう。

一点気づいたのは、これまで光秀のことを明智「様」と呼んでいた秀吉が明智「殿」と呼んでいたこと。
織田家中での秀吉の台頭を示しているのでしょう。
光秀も、信長を憚ってか松永「様」ではなく松永「殿」と呼んでいました。
しかし、捕らわれの義昭の前では身をかがめ、降伏した三淵藤英にも「様」をつけて敬っていました。
予告によれば、次回三淵は切腹させられるようですが、ドラマの初期から出会っていたこの人物は、光秀にとって「家臣の道」の師匠・先達のような存在なのかもしれません。
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