今回も酷評なので、読みたくない方はパスして下さい。
焼きハマグリのにおいにつられて出て行く初(水川あさみ)。
何と古くさいギャグだろう?
漫画なんですよね、しかも4、50年前の。
笑わせるのならしっかり笑わせてほしい。
人たらしの片鱗もない秀吉(岸谷五朗)。
秀吉ならもっと賢く、茶々(宮沢りえ)を口説いてほしい。
豪華な着物と食事……、これでは「お金で人の心が買える」と言ったどこかの元社長と同じ。
つまり、すべてが類型的なんですよね。
過去にあった類型的なギャグ、類型的な人間、これを当てはめているだけ。
作家に少しの工夫もない。
これを<安易な物作り>と言う。
ドラマにするには、茶々と秀吉を人としてしっかり向き合わせなければならないのに、秀吉は茶々のまわりをウロウロするばかり。
作家はそれを逃げている。
千宗易(石坂浩二)とのシーンでは、少し深みが出た。
「相手よりひとつ高い所に行くには、相手を受け入れのみ込むこと」
「今はこらえて爪を研ぐこと」
おそらく千宗易や徳川家康(北大路欣也)はこれを実践しているのだろう。
そして宗易は、真っ正面から抵抗している茶々の<純粋さ>を改めるように暗に戒めている。
もっとしたたかになりなさい、と。
この部分がもっと色濃く出て来れば、面白くなるのだけれど、残念ながらこのシーンでだけで完結してしまっている感じ。
しっかり描き込まれた人間を見たい。歴史を見たい。
こんな当たり前のことを大河ドラマに求めるのは無理なのでしょうか?
焼きハマグリのにおいにつられて出て行く初(水川あさみ)。
何と古くさいギャグだろう?
漫画なんですよね、しかも4、50年前の。
笑わせるのならしっかり笑わせてほしい。
人たらしの片鱗もない秀吉(岸谷五朗)。
秀吉ならもっと賢く、茶々(宮沢りえ)を口説いてほしい。
豪華な着物と食事……、これでは「お金で人の心が買える」と言ったどこかの元社長と同じ。
つまり、すべてが類型的なんですよね。
過去にあった類型的なギャグ、類型的な人間、これを当てはめているだけ。
作家に少しの工夫もない。
これを<安易な物作り>と言う。
ドラマにするには、茶々と秀吉を人としてしっかり向き合わせなければならないのに、秀吉は茶々のまわりをウロウロするばかり。
作家はそれを逃げている。
千宗易(石坂浩二)とのシーンでは、少し深みが出た。
「相手よりひとつ高い所に行くには、相手を受け入れのみ込むこと」
「今はこらえて爪を研ぐこと」
おそらく千宗易や徳川家康(北大路欣也)はこれを実践しているのだろう。
そして宗易は、真っ正面から抵抗している茶々の<純粋さ>を改めるように暗に戒めている。
もっとしたたかになりなさい、と。
この部分がもっと色濃く出て来れば、面白くなるのだけれど、残念ながらこのシーンでだけで完結してしまっている感じ。
しっかり描き込まれた人間を見たい。歴史を見たい。
こんな当たり前のことを大河ドラマに求めるのは無理なのでしょうか?
>「龍馬伝」の時にTEPOさんが書いていらっしゃった政治的な面が、秀吉にも必要なのかもしれません。(先週のコウジさん)
私は最初から田渕作品に「政治」は期待していませんでした。「篤姫」も「政治」や「軍事」は見事に欠落しており、大方の幕末ファンからはブーイングでしたが、私はむしろ斬新だと思っていました。しかしながら「戦国」で「政治」不在は無理があるのかもしれません。
たとえば秀吉の「好色」。
故隆慶一郎氏が前田利家の甥で傾奇者として有名な前田慶次郎利益を描いた小説『一夢庵風流記』-原哲夫氏による漫画化『花の慶次』は有名-で、利家が自分の娘を秀吉の側室に差し出したことを慶次郎がなじる場面があります。
しかし、乙女の貞潔が散るのは無惨ではあっても一国の安堵と引き替えならば安いものだ、という論理に接し、慶次郎は家と領民との運命を背負った利家の立場を理解して納得します。
さらに、秀吉も自らの「好色」の評判を敵対者を赦すための口実として利用していた-利家も柴田勝家の配下として一時秀吉に敵対していた-との見方を示していました。
ですから、先週京極龍子が秀吉の側室となった次第を語った際、ただ「秀吉が面白く憎めない人」というだけだったところに私は違和感を感じました。一言「京極家のため」という言葉が入れば隆氏が示唆するような政治的視点に通じ、また自然でもあるのですが。
しかし、おそらく田渕さんはそうした視点を意図的に拒否しているのかもしれません。
今回「水軍の必要性」という「軍事」に言及されましたが、これも単に江を佐治一成に嫁がせる理由としてだけなのでしょうね。
いつもありがとうございます。
>乙女の貞潔が散るのは無惨ではあっても一国の安堵と引き替えならば安いものだ。
>秀吉も自らの「好色」の評判を敵対者を赦すための口実として利用していた。
さすが、隆慶一郎氏は歴史小説家ですね。(前身は脚本家だったそうですが)
大河ドラマであれば、こういうふうに<戦国時代の発想>で、物事を描いてほしいんですよね。
なのに、「江」の場合は皆、発想が現代人。
>おそらく田渕さんはそうした視点を意図的に拒否しているのかもしれません。
という分析、なるほど!です。お見事!です。
おそらく、現代女性である田渕さんは、<家のために犠牲になる女性><家の犠牲になって嘆き悲しむ女性>を描きたくなかったんでしょうね。
そんな弱い女性よりは、<面白く憎めない人>と、ある意味、秀吉をのみ込んでいるようなたくましい女性を描きたかった。
お陰様で、田渕さんが描きたいキャラクター像が見えてきました。
まあ、女性キャラクターはそれでいいとして、男性はお粗末ですね。
好色なら好色なだけ。類型を脱していない。
あるいは、隆さんの<自らの「好色」の評判を敵対者を赦すための口実として利用するような男性>を田渕さんは許せない。
田渕さんは男性を描けない作家なのかもしれませんね。
>田渕さんは男性を描けない作家なのかもしれませんね
先日「篤姫」において
徳川家定と小松帯刀については、しっかり描けている
今までよく知られていない人に焦点を当てるのは自由に創作できるから上手いと言うことで意気投合しましたね。
「江」は、今リタイア中(いずれ復帰予定)なので、何も言えないのですが
それほど男性が描けてないんですね。
秀吉が有名人でエピが多いので、上手く描こうにも手詰まり?
創作の余地が無い?
確かに、田淵さんは発想が現代的過ぎます。
「大河ドラマ」を見ている心地がしません。
いつもありがとうございます。
そうそう、そう書きましたよね。
これは「江」限定ということで……。
もっとも<類型的>ということでは、小松帯刀は当てはまるかもしれません。
帯刀は今でいう<草食系男子>の類型。
<良き家庭のパパ>である勝家や、<好色オヤジ>の秀吉といった類型人物に連なるものはあります。
あるいは、<男性>をどう定義するかは難しいのですが、<観念性>とか<政治性>とかはどうも田渕キャラからは抜けている気がします。
また、家定様は堺雅人さんの演技も手伝って<類型>から免れましたが、かなりデフォルメされていて現実にはいない男性像。
今後の秀忠など、「江」の男性登場人物がどう描かれるかは注目ポイントですね。