最終回は、主人公は素晴らしい! という話でしたね。
美和(井上真央)のおかげで、群馬の女たちは学ぶようになり、自分で考える力や生きる力を持ち、単に生活のためでなく、誇りをもって働けるようになった。
鹿鳴館の婦人たちも美和の話を聞いて、わずか数分で「群馬の女たちによろしくお伝え下さい」(笑)
で、鉄道もこのアシストで敷設されるようになった。
そして、楫取(大沢たかお)いはく、「また、やったな」(笑)
すべては美和さんのおかげ。
すべては県令様のおかげ。
まあ、大河ドラマは、歴史で偉大とされる人物を描くので、ある程度の「素晴らしい!」は仕方がないのだが、ここまで連発されると鼻につく。
特に美和さんはあんまり苦労していないですしね。
口先だけで正論を語り、そこに賛同者が現れて見事解決。
いつもこのパターン。
それに普通、脚本では、主人公礼賛を、こんなふうにせりふで書かないもの。
視聴者に、この人、素敵だな。偉い人だな、と自然に思わせるのが、脚本のたしなみ。脚本家の矜持。
なお、この作品は『平清盛』と年間視聴率ワースト1を争っているようだが、清盛とは、作品の質が全然違う。
清盛は「主人公は素晴らしい!」なんてことを描かず、むしろ、もののけの血に悩む、清盛の負の側面を描いていた。
清盛の苦しみがドラマになっていたし、人間がしっかり描かれていた。
鹿鳴館でも、素晴らしい! がいっぱいだった。
鹿鳴館の為政者たちは「わが国もここまで来たか」と自画自賛する。
でも、この時代、民は困窮して秩父困民党事件など、民衆の反乱が全国各地で起きていた。
楫取のお膝元では、群馬事件。
それに伴う自由民権運動の激化もあった。
なのに鹿鳴館では、まるで別の世界のように「わが国もここまで来たか」。
まあ、鹿鳴館にいる人間たちが別世界に住んでいるのは仕方ないなのだが、民衆の側にいる美和たちが違和感を抱かないのはおかしい。
官と民の間にあって、明治社会の矛盾を一番感じているのが美和のはずなのに、それが描かれない。
この作品が浅い証拠である。
結局、美和は<自分に都合のいい現実>しか見ていないんだろうなぁ。
生糸の仲買人は、どうなったんだろう?
まあ、自分に都合のいい現実しか見ないで自画自賛するあたり、どこかの首相と同じですよね。
アベノミクスが全国の津々浦々にまで行き渡るのは、いつなんだろう?
実質賃金は下がり続け、非正規社員は増えて、福島の原発では汚染水がダダ漏れ。
GDPも2期連続マイナスはまずいので、いろいろ数字をいじってプラスに持っていくという姑息。
なお、この作品の脚本家交替が思わぬ事件を起こしているらしい。
当初の予定にあった防府での美和たちの生活が描かれなかったため、大河効果を期待して建てた防府市の1億円の観光施設がムダになったらしいのだ。
防府市がNHKに抗議 「花燃ゆ」台本変更で一億円かけた施設が注目されず(女性セブン)
『花燃ゆ』と安倍政治の関係については、後日書きます。
この作品、完全に「安倍内閣の政策」を広報していますよね。
大河ドラマが政治に迎合していまいました。由々しき事態です。
美和(井上真央)のおかげで、群馬の女たちは学ぶようになり、自分で考える力や生きる力を持ち、単に生活のためでなく、誇りをもって働けるようになった。
鹿鳴館の婦人たちも美和の話を聞いて、わずか数分で「群馬の女たちによろしくお伝え下さい」(笑)
で、鉄道もこのアシストで敷設されるようになった。
そして、楫取(大沢たかお)いはく、「また、やったな」(笑)
すべては美和さんのおかげ。
すべては県令様のおかげ。
まあ、大河ドラマは、歴史で偉大とされる人物を描くので、ある程度の「素晴らしい!」は仕方がないのだが、ここまで連発されると鼻につく。
特に美和さんはあんまり苦労していないですしね。
口先だけで正論を語り、そこに賛同者が現れて見事解決。
いつもこのパターン。
それに普通、脚本では、主人公礼賛を、こんなふうにせりふで書かないもの。
視聴者に、この人、素敵だな。偉い人だな、と自然に思わせるのが、脚本のたしなみ。脚本家の矜持。
なお、この作品は『平清盛』と年間視聴率ワースト1を争っているようだが、清盛とは、作品の質が全然違う。
清盛は「主人公は素晴らしい!」なんてことを描かず、むしろ、もののけの血に悩む、清盛の負の側面を描いていた。
清盛の苦しみがドラマになっていたし、人間がしっかり描かれていた。
鹿鳴館でも、素晴らしい! がいっぱいだった。
鹿鳴館の為政者たちは「わが国もここまで来たか」と自画自賛する。
でも、この時代、民は困窮して秩父困民党事件など、民衆の反乱が全国各地で起きていた。
楫取のお膝元では、群馬事件。
それに伴う自由民権運動の激化もあった。
なのに鹿鳴館では、まるで別の世界のように「わが国もここまで来たか」。
まあ、鹿鳴館にいる人間たちが別世界に住んでいるのは仕方ないなのだが、民衆の側にいる美和たちが違和感を抱かないのはおかしい。
官と民の間にあって、明治社会の矛盾を一番感じているのが美和のはずなのに、それが描かれない。
この作品が浅い証拠である。
結局、美和は<自分に都合のいい現実>しか見ていないんだろうなぁ。
生糸の仲買人は、どうなったんだろう?
まあ、自分に都合のいい現実しか見ないで自画自賛するあたり、どこかの首相と同じですよね。
アベノミクスが全国の津々浦々にまで行き渡るのは、いつなんだろう?
実質賃金は下がり続け、非正規社員は増えて、福島の原発では汚染水がダダ漏れ。
GDPも2期連続マイナスはまずいので、いろいろ数字をいじってプラスに持っていくという姑息。
なお、この作品の脚本家交替が思わぬ事件を起こしているらしい。
当初の予定にあった防府での美和たちの生活が描かれなかったため、大河効果を期待して建てた防府市の1億円の観光施設がムダになったらしいのだ。
防府市がNHKに抗議 「花燃ゆ」台本変更で一億円かけた施設が注目されず(女性セブン)
『花燃ゆ』と安倍政治の関係については、後日書きます。
この作品、完全に「安倍内閣の政策」を広報していますよね。
大河ドラマが政治に迎合していまいました。由々しき事態です。
教えていただきありがとうございます。
そうまでして、いったい何を守ろうとしたんでしょうね。
安倍首相のヨイショ企画だから、単独ワーストというのを避けたかったのでしょうか?
まあ、視聴率はあまり関係なく、作品の評価は個々の視聴者がやればいいんですよね。
僕的には、「清盛」の方が断然よかった。
視聴率が悪くて、好き嫌い、賛否両論がある作品こそ、すぐれた作品なのではないかと思っています。
>「花燃ゆ」は「至誠」なんて口先だけで終わった。
井上真央さんら役者さんには申し訳ないのですが、「花燃ゆ」をひと言で表せば、<口先>という言葉が一番適切ではないかと思いました。
意図的にそういう風に見せた情報を流したようです。
「12.0%」と下一桁だけまでだとタイに見えますが
下二桁までだと「花燃ゆ」が単独ワースト。
アベレージで引き分けなら終始、右肩下がりで
7%台のエピソードまであった「平清盛」より
マシと思う事が出来るというセコイ考えがあるような。
でも逆を言えば「平清盛」が外野に何を言われようがテコ入れ等を行わず、
一本芯の通ったドラマをやり遂げたのに対し
「花燃ゆ」は「至誠」なんて口先だけで終わった。
姉を踏み台にして初恋の相手をゲットした以外は全て投げやり。
何とか完走しましたね。
一年間ありがとうございました。
せいに関しては、美和の背中を押す役まわりですよね。
おっしゃるとおり、、(1)惜別、(2)相手を自由にしてあげたいというふたつの感情が彼女にはあるわけで、こういう描写がたくさんあると、ドラマになるんですけどね。
行き詰まりに関しても同意です。
1話完結のドラマならともかく、連続もので、4人の脚本家でまわして、いい作品が出来るわけがありません。
それと大河ドラマの脚本は、しっかりした人間観、歴史観を持った方にやってもらいたいですよね。
それがないのなら、原作ものをやるか、歴史観が問われる幕末ものを避けるか、をしてもらいたいです。
吉田松陰も、彼が語った「一粒の籾」がこの作品の主要テーマになっているのですが、何せ本質が<テロリスト>なものですから響いて来ないんですよね。
松陰に関しては、テロリストであることを美和なりが総括すべきでした。
あるいは、理想を実現するためには、テロや暗殺、革命しかないんだということを松陰に語らせるべきでした。
「清盛」では、それをしっかり描いたんですよね。
清盛が政権を取るためにやったことは、暗殺であり、クーデタであり、源氏との戦争であり……。
それで十分ドラマとして成立していました。
「花燃ゆ」の企画時のコンセプトは、<幕末男子の育て方>だったようですが、吉田松陰・松下村塾とは水と油のような隔たりがありましたよね。
>で、鉄道もこのアシストで敷設されるようになった。そして、楫取いはく、「また、やったな」(笑)
ご指摘の場面が一番象徴的で、例によって登場人物たちは実に物分かりがよく、筋書きどおりどんどんと話が進んでゆきました。
唯一ドラマらしさを感じたのは、せい役の三田佳子さんによる「私らだけじゃ無理だとでも言いたいかい?」という台詞だったと思います。
今や阿久沢夫妻や群馬の人々と美和夫妻とは完全に心が通っているわけですが、そうした中での好意のあり方としては、(1)惜別、(2)相手を自由にしてあげたい、という二つの矛盾するベクトルがあり得、本来は(1)と(2)との間の葛藤をじっくり描くことでドラマになる筈のところだと思います。
しかし、そうした描き込みは一切すっ飛ばし、楫取の辞意を聞いた県庁職員たちが(1)で騒いでいたかと思いきや、次の瞬間には阿久沢の説得で(2)に転じたことが台詞だけで説明される有様でした。
プロットの大枠が特急で(2)に向かって走らざるを得ない制約の中で、せいの台詞(他に表情など演技全体)は精一杯芝居らしい含みを主張しているように感じられました。
対して脚本の方は「とにかく終わらせる」というだけのものだったと思います。
そしてそれが小松さんへの依頼だったのでしょう。
振り返れば、初期の大島さん、宮村さんの脚本にはまだドラマにしようという姿勢が感じられました。
個人的には野山獄の場面などは結構よかったと思います。
しかし結局二人とも(あと金子さんも)行き詰まってしまったのでしょうね。
行く詰まりの原因について、私は
(a)時間不足→複数脚本家の合作→コンセプトの不整合
(b)そもそも吉田松陰という具体的に描いてはいけない人に手を出してしまったこと
の二点を挙げたいと思います。
無論、根本的には安倍政権に媚びた企画だったことに起因していると思いますが。
>なお、この作品は『平清盛』と年間視聴率ワースト1を争っているようだが、清盛とは、作品の質が全然違う。
本日の情報では結局年間視聴率最低タイで並んだそうです。
「平清盛」は理解できる人と出来ない人とが別れたための低視聴率でしたが、物語としては名作でした。
これに対して本作は誰の目にも失敗作であることは明らかだと思います。