野坂昭如さんが亡くなった。
作家、作詞家、テレビの構成作家、歌手、タレント、政治家、キックボクシング……。
♪ソ、ソクラテスか、プラトンか、みんな悩んで大きくなった! 俺もお前も大物だぁ!♪
時代と戯れて、遊んだ人だったなぁ。
大きなものと戦うドンキホーテ、ピエロのような人でもあった。
金権政治を批判して、新潟三区に乗り込んで田中角栄と選挙対決!
わいせつをめぐって、『四畳半襖の下張り』裁判!
学生運動が熱かった時は、安田講堂にたてこもる学生たちにおにぎりを届けた。
その根本にあるのは反権力。
でも、革命家やテロリストになってしまうようなガチガチの反権力ではなく、どこかユーモアと遊びがあるのが野坂昭如。
野坂昭如は軽くてシンコクが嫌いなのだ。
70年代の元祖サブカル誌『面白半分』の編集長も務められた。
裁判になった、永井荷風の筆とされる『四畳半襖の下張り』を掲載したのもこの雑誌。
『面白半分』の歴代編集長は、そうそうたる方々で、野坂さんの他には、吉行淳之介、開高健、五木寛之、井上ひさし、遠藤周作、金子光晴、筒井康隆、半村良……すごい雑誌だ!
雑誌名『面白半分』は、確か吉行淳之介の命名だったと思うが、吉行流に英訳して<ハーフ・シリアス>。
<ハーフ・シリアス>、いい言葉だなぁ。
この言葉を見た時、僕は自分の生き方はこれで行こうと思った。
考えてみると、僕は常に野坂さんに影響を受けて生きてきたような気がする。
テレビ朝日の朝のワイドショーでやっていた追悼特集で、こんな映像を流していた。
『朝まで生テレビ』の大島渚監督との、戦争で戦うことをめぐるやりとりだ。
野坂さんは、
「日本国なるものを守るためには戦わないが、女房、子供を守るためには戦う」
これに対して、大島監督は、
「どんなものであれ、守るって発想を持っちゃいけないんだ! たとえ女房、子供であっても!」
いずれも深い言葉ですね。
僕は野坂さんの考え方に近い。
まず、国なんてものはただの概念で、まったく信用していないし、仮に今、中国と戦争になっても安倍首相や、戦争で儲けたいやつや、国の名誉なんかのために戦わない。
ただ、身内や親しい人がひどいめに遭うようだったら何らかの形で戦う気がする。(現実になってみなければわかりませんが……)
一方、大島渚監督の言うこともわかる。
女房、子供を守るためと言っても明確な線引きが出来るわけではなく、結局は権力者に利用されて、国家のために戦うことと変わりがない。だから守るなんて発想を持ってはいけない。
野坂昭如や大島渚が出ていた頃の、朝生は面白かったなぁ。
今は小賢しい小者ばかりで……。
最後は野坂昭如の遺言をふたつ。
「どんな戦争も自衛のため、といって始まる。そして苦しむのは、世間一般の人々なのだ。騙されるな」
「この国に戦前がひたひたと迫っていることは確かだろう」
国の名誉にとらわれたバカどもと、戦争で儲けたいやつらが戦争を起こそうとしている。
※追記
野坂さんは、坂口安吾に傾倒されていた。
おそらく野坂昭如の<焼跡闇市派>の思想は、坂口安吾から来ている。
だから、僕は『堕落論』を始めとする安吾の著作を結構、読んだんですけど、焼跡闇市の時代を知らない僕にとっては、いまいちピンと来ないんですよね。
ただ、安吾や野坂昭如の根本にあるのはこれだな、と思った文章がある。
野坂さんの作品『エロ事師たち』(新潮文庫)にある澁澤龍彦の解説の一文だ。
澁澤はこう書いている。
「現実の醜悪悲惨が強調されればされるほど、そこにうごめく人間どもの言動の、何やらあっけらかんとした明るさや、また動物的な強靱な平静さが、作者の筆によって対照的に際立たせられるのだ。滑稽と、グロテスクと、哀愁(ペーソス)とが一丸となったユーモアが、そこから生ずる」
なるほど、これが<焼跡闇市派>なのだ。
目の前の現実は醜悪悲惨であるけれど、あっけらかんとして明るく、人々には動物的な強靱さがある。
しかし、戦争を起こす人間の愚かさや黒こげの死体を見てしまった彼らは、生きることや人間を全面的に信じることはできない。
生きることは、滑稽でグロテスクで哀愁漂うものだという考え方が根底にある。
『火垂るの墓』の現実を体験した少年は、こうして『エロ事師たち』を書くようになった。
作家、作詞家、テレビの構成作家、歌手、タレント、政治家、キックボクシング……。
♪ソ、ソクラテスか、プラトンか、みんな悩んで大きくなった! 俺もお前も大物だぁ!♪
時代と戯れて、遊んだ人だったなぁ。
大きなものと戦うドンキホーテ、ピエロのような人でもあった。
金権政治を批判して、新潟三区に乗り込んで田中角栄と選挙対決!
わいせつをめぐって、『四畳半襖の下張り』裁判!
学生運動が熱かった時は、安田講堂にたてこもる学生たちにおにぎりを届けた。
その根本にあるのは反権力。
でも、革命家やテロリストになってしまうようなガチガチの反権力ではなく、どこかユーモアと遊びがあるのが野坂昭如。
野坂昭如は軽くてシンコクが嫌いなのだ。
70年代の元祖サブカル誌『面白半分』の編集長も務められた。
裁判になった、永井荷風の筆とされる『四畳半襖の下張り』を掲載したのもこの雑誌。
『面白半分』の歴代編集長は、そうそうたる方々で、野坂さんの他には、吉行淳之介、開高健、五木寛之、井上ひさし、遠藤周作、金子光晴、筒井康隆、半村良……すごい雑誌だ!
雑誌名『面白半分』は、確か吉行淳之介の命名だったと思うが、吉行流に英訳して<ハーフ・シリアス>。
<ハーフ・シリアス>、いい言葉だなぁ。
この言葉を見た時、僕は自分の生き方はこれで行こうと思った。
考えてみると、僕は常に野坂さんに影響を受けて生きてきたような気がする。
テレビ朝日の朝のワイドショーでやっていた追悼特集で、こんな映像を流していた。
『朝まで生テレビ』の大島渚監督との、戦争で戦うことをめぐるやりとりだ。
野坂さんは、
「日本国なるものを守るためには戦わないが、女房、子供を守るためには戦う」
これに対して、大島監督は、
「どんなものであれ、守るって発想を持っちゃいけないんだ! たとえ女房、子供であっても!」
いずれも深い言葉ですね。
僕は野坂さんの考え方に近い。
まず、国なんてものはただの概念で、まったく信用していないし、仮に今、中国と戦争になっても安倍首相や、戦争で儲けたいやつや、国の名誉なんかのために戦わない。
ただ、身内や親しい人がひどいめに遭うようだったら何らかの形で戦う気がする。(現実になってみなければわかりませんが……)
一方、大島渚監督の言うこともわかる。
女房、子供を守るためと言っても明確な線引きが出来るわけではなく、結局は権力者に利用されて、国家のために戦うことと変わりがない。だから守るなんて発想を持ってはいけない。
野坂昭如や大島渚が出ていた頃の、朝生は面白かったなぁ。
今は小賢しい小者ばかりで……。
最後は野坂昭如の遺言をふたつ。
「どんな戦争も自衛のため、といって始まる。そして苦しむのは、世間一般の人々なのだ。騙されるな」
「この国に戦前がひたひたと迫っていることは確かだろう」
国の名誉にとらわれたバカどもと、戦争で儲けたいやつらが戦争を起こそうとしている。
※追記
野坂さんは、坂口安吾に傾倒されていた。
おそらく野坂昭如の<焼跡闇市派>の思想は、坂口安吾から来ている。
だから、僕は『堕落論』を始めとする安吾の著作を結構、読んだんですけど、焼跡闇市の時代を知らない僕にとっては、いまいちピンと来ないんですよね。
ただ、安吾や野坂昭如の根本にあるのはこれだな、と思った文章がある。
野坂さんの作品『エロ事師たち』(新潮文庫)にある澁澤龍彦の解説の一文だ。
澁澤はこう書いている。
「現実の醜悪悲惨が強調されればされるほど、そこにうごめく人間どもの言動の、何やらあっけらかんとした明るさや、また動物的な強靱な平静さが、作者の筆によって対照的に際立たせられるのだ。滑稽と、グロテスクと、哀愁(ペーソス)とが一丸となったユーモアが、そこから生ずる」
なるほど、これが<焼跡闇市派>なのだ。
目の前の現実は醜悪悲惨であるけれど、あっけらかんとして明るく、人々には動物的な強靱さがある。
しかし、戦争を起こす人間の愚かさや黒こげの死体を見てしまった彼らは、生きることや人間を全面的に信じることはできない。
生きることは、滑稽でグロテスクで哀愁漂うものだという考え方が根底にある。
『火垂るの墓』の現実を体験した少年は、こうして『エロ事師たち』を書くようになった。
そうなんですよ。
彼らが潤うためには(あるいはGDPを上げるため)には、一般国民がお金を使わなくてはならないのに、非正規雇用を増やして低賃金で働かせている。
結果、内需はどんどん萎んでいく。
やっていることが矛盾ですよね。
少子化もそう。
低賃金で、将来の不安があれば、誰も子供をつくろうとは思わない。
一方、今は金融資本主義の時代で、持っているお金を右から左に動かすだけで金儲けが出来ますから、彼らはそれでいいと考えているのかもしれませんね。
逆に彼らは、「自分たちは多額の税金を払っている。そんな自分たちの払っている税金の恩恵を受けて、ヌクヌクと生きているやつらを許せない。社会のゴミだ」くらいに考えているのでしょう。
彼らは単に恵まれた家に生まれただけなんですけどね。
強者の論理はこれからもますます強くなっていくような気がしています。
僕らが日本の経済を動かしている。
僕ら労働者が働き、利益を上げるから、経営陣など上流階級の懐にお金が入る。
国民が金を稼ぎ、税金を納めるから公務員の懐に金が入る。
小学生でもわかるお金の流れですよ。
にもかかわらず「小さなものや弱者は国や富裕層のために死ね」とは笑止千万。そんなことをすればいずれ自分たちの首が閉まるのは火を見るよりも明らかです。
まあ仮に戦争それに付随した活動で中底辺の人間が居なくなったら、上級国民様たちはいったい何処から誰からお金を巻き上げるつもりなんでしょうね~
いつもありがとうございます。
反権力。
野坂さんは、戦争で国や権力にひどいめに遭わされたので、まったく信用できないんでしょうね。
そして、おっしゃるとおり、国や権力は市民を苦しめることの方が多い。
権力というものは、放っておくと、権力はどんどん腐敗し、暴走するんですよね。
だから、市民は常にチェックし、批判していかなければならない。
僕や忘却さんがやっていることは、単に権力が暴走しないようにチェック、批判しているだけなんですけどね、これが、なぜかネトウヨさんにとっては、<反日>や<反社会>になってしまうんですよね。
あと、野坂さんの反権力には、小さなもの、弱いものへのまなざしがあるんでしょうね。
戦争で亡くされた妹さんは、まさに小さなもの、弱いものだった。
そして、小さなもの、弱いものは、声を上げなければ、永遠に弱者のまま。
一方、政治家は、自分たちのお仲間や声の大きな人たち声を聞く。
自民党で言えば、大企業や経団連、富裕層。
最近では、小さなものや弱者は国や富裕層のために死ね、と考える輩が出てきているから、本当にヤバイ。
それと、おっしゃるとおり、自分は小さくて弱い方の人間なのに、大きなものを支持してしまう人がいるんですよね。
大きなものに利用されているのに、まったく気づかない。
反抗すべきなのに、完全に飼い慣らされて使い捨ての道具になっている。
本当に困ったものです。
そうした人たちは戦場に行ってひどい目に遭って、やっと気づくのかもしれません。
野坂昭如氏にまずは謹んでご冥福を申し上げます。
反権力・・・まさに今の世の中でこそ輝く人でしたね。
反権力と反社会を=で捉える人が多い、そして総じて悪だと捉える人が多い今の世の中では、もどかしい思いもあったのかもしれませんね。
でも違う。反権力がそのまま反社会につながるわけでは無い。むしろ権力側が国民の知らないところで反社会派勢力とつながっていることは往々にしてあり得ますし、権力側が社会を・公を危機にさらすことは平然と、世界中で行われています。(大国になれば尚更)
だから今一度我々は、国家とは何なのか、国家と個人という概念について、深く考える必要があるのではないのかなと感じるようになりました。
(自分でも書いている途中でよく分からなくなってしまいまして、あまり文章がまとまっていなくて申し訳ありません)
※追記
そもそも平和な日常ですら生きる意味を見いだせない・会社の上司に逆らえないような甘ちゃんが、戦争という非日常で活躍できるなんてそんな考えは「甘―――い!」
戦争を、人殺しを舐めんな。
人生悲観して、戦争にあこがれを抱く暇でもあるなら、今を死ぬ気で生きんかーーい(2ちゃんなんかで毒吐く暇あるなら)
ゲームみたいに死んでも、リトライもコンティニューも、強くなってニューゲームなんてものも無いのだからね!
(話逸れてすみません)