私が乗ってきた鉄道の足跡を追うということで、本日から私が乗り潰してきた鉄道を毎日・・・確実いや隔日に取り上げていこうと思います。第1弾はおそらく幼少期に何気に乗り潰してしまったであろう阪急京都線を取り上げます。
阪急京都線は私が生まれ育った家の目の前を走っていたため、幼少期には阪急の影響をかなり受けて、自然と物心つく頃には“鉄”になっていた。所謂子鉄である?最寄駅が阪急京都線茨木市だったので、当然乗る機会も多く、とりわけお出かけ好きの祖母に連れられて梅田方面へはよく乗った。祖母はある意味で阪急信者というべき典型的な人間で阪急電車が好きというわけではないが、阪急百貨店をはじめ阪急に信頼を置く人間の一人であったといっても過言ではない。そういうことで阪急京都線に乗り、阪急百貨店へ連れられては、ミニカーならぬミニ電?を買ってもらい、国鉄大阪駅が見える喫茶店へ連れて行ってもらい、大阪駅に出入りする電車を眺めて子鉄ながらに鉄分を補給していた。
梅田へ行く機会はそういうことでかなり多かったが、京都方面へはなかなか連れて行ってもらえなかったが、これまた祖母と祖父に連れられて梅小路の蒸気機関車館へ行った時に初めて河原町へ乗り入れ、阪急京都線が私の乗り潰し第一号となった。その当時はもちろんそんなことは意識もしていなかったので、いつ達成したかまでは当然覚えていない。おぼろげな記憶だが、行きは河原町まで行って阪急百貨店でお昼ご飯を食べて、おそらく四条烏丸まで歩いて、開業したての京都市営地下鉄に乗って京都駅へ出て、行きか帰りは京都駅から梅小路まで歩いたはずだ。祖父母とも非常に健脚だったのを覚えている。その影響を受けて私も結構歩くのは苦痛にならない。祖父母に感謝したい。
その当時SLというのは煙をもくもく吐いて黒い塊にしか思えず機関車トーマス(私の幼少の頃からあったのには驚くがそれより今なお人気があるのにはこれまた驚く)以外には興味がなかったが、電車好きの孫を喜ばせようと梅小路へ連れて行ってくれたのだろうが、正直当時の私には弁天町の交通科学博物館へ行って食堂車(ナシ20)でお子様ランチでも食べさせてもらえる方がよっぽどよかった。とはいっても、京都の地下鉄の初乗りまで果たし、さらに帰りには河原町まで行って、梅田まで当時はまず乗れることがなかった6300系特急に乗せてもらったので、子鉄としては十分満足していたはずだ。6300系は昔からそれほど好きではなかったが、それでも子供の頃は自分の駅である茨木市を颯爽と通過していく姿しか見られなかったので、憧れの存在ではあった。乗車機会は当然少なかったが、お盆に淀川へお花やお供えものを流す風習が当時はあり、これまた祖父母に連れられて、8月14日だか15日の夜に十三まで行って、事を済ませて帰る際にちょうど6300系の急行が運用されているスジがあり、幸運にも何度か当たって、乗る機会があったのを覚えている。
幼少の頃を過ぎると阪急からは徐々に離れていき、小学校、中学校と電車に乗る機会が少なかったこともあり、阪急よりも国鉄に興味を持つという鉄としては当然の過程を踏んで、高校、大学と阪急を再び使うようになって、また阪急趣味に戻ってきた。しかし、高校時代あたりまではまだJR発足直後で、まだまだ阪急が横綱相撲をしている時代で、阪急に対して特に不満もなかったが、JRの攻勢が激しくなり、阪急の落ち込み具合を目の当たりにしてきた時あたりから阪急に対して不満を持つようになっていた。昔日の阪急を思い出しながらもJRが中間駅への攻勢を強めているのに、20分サイクルという大英断はあったものの、特急は相変わらず京阪間ノンストップというのにはかなり不満であった。あの時もう少し早く高槻市への終日停車を判断していれば、今の展開はもう少し違っていたのではないかと思えてならない。今春のダイヤ改正で特急は私が幼少期に大変お世話になったかつての急行の停車駅に近づいたが、幼少期に憧れたけれども反面晩年は鬱陶しくも感じていた京阪間ノンストップ特急は見る影もない。昔からあまり好きではない6300系が消えていく日には京阪間ノンストップ特急も新京阪のP-6のように伝説になってしまうのだろうか・・・。