今日は木曜日。長女がやって来ます。
食堂には暖かい日差しが差し込む、とても気持ちの良い朝でした。
今日は、ゴミ収集の無い日ですが、前の道路が気に成り、箒と塵取りを持って外に出ました。
不思議なほど、落ち葉も、ゴミもありませんでした。
それでも道路の隅っこに小さな落ち葉を見つけ、塵取りに箒で掃き入れました。風がなかったようです。
デッキの上に置いてます4個のプランターには、今年も三つ葉が大分芽吹い来ています。
今年も三つ葉がしっかり育って来ています。楽しみです。
昨年から、プランターで育て始めました芹も、三つ葉と同じように芽吹いていて、芹そばが食べられそう…。
戦争中、わたしたちが疎開をして居ました富士宮では、お蕎麦もうどんも自家製でした。
蕎麦粉を捏ねて麺を作り、それを茹でていました。
麺が茹る間際に積んできた芹を加え一緒に茹で、麺と芹を一緒に汁を付け食べていました。
ただ、当時は子供でしたから田芹の苦みは苦手でしたが、贅沢を言える時代ではありません。
一生懸命、芹の苦みを我慢して食べていました。
成長して、田芹のお蕎麦の美味しさを知りましたが、4,5歳のわたしには無理でした。
田芹は現在お店で売られている芹より苦く、食べ難かったです。苦みは苦手でした。
当時は、其れが美味しいと思えず、一生懸命飲み込んでいたことを覚えています。
当時、お世話になった大叔母は、60年位前に亡くなりましたが、わたしには懐かしい良い想い出です。
終戦後も春休みと夏休みは、ずっと疎開先の大叔母の家に行っていました。
摘み草をしたり、大叔父がスイカ小屋に泊まりますので、一緒に小さな小屋で寝た事も有ります。
大叔母には、食べられる野草を教わり、散歩しながら野草を摘んでいました。
ウサギの餌も籠を持って摘みに行っていました。村の子供たちとも仲良くなっていましたが、
大人になってからは、叔母さんやおじさんには会えても、一緒に遊んだ人たちとは会えず仕舞い。
殆どの子供たちが、村を出てしまっていました。
寂しかったですが、それでも大人の方達から、どうなさっておられるか、お話は聞いていました…。
両親は、懐かしいその地に家を建て、60歳頃から別荘とし、その地で亡くなりました。
両親にも、富士宮は懐かしい想い出のある地だったのでしょうね。