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NHKで国谷裕子を降板に追い込んだ“官邸の代弁者”が専務理事に復帰! 安倍政権批判の完全封殺へ

2019-04-18 11:26:19 | 杉並からの情報発信

NHKで国谷裕子を降板に追い込んだ“官邸の代弁者”が専務理事に復帰! 安倍政権批判の完全封殺へ

2019.04.10 Litera

https://lite-ra.com/2019/04/nhk-2.html

『変容するNHK』でも川本氏が内幕を詳細にわたって紹介

安倍政権に対する目に余る「忖度」報道が相変わらずつづくNHKだが、今後はさらに「安倍放送局」に拍車がかかりそうだ。

というのも、NHKは9日に板野裕爾・NHKエンタープライズ社長を専務理事に復帰させる人事を発表したからだ。

板野氏は、経済部長、内部監査室長などを歴任して2012年に理事に就任。籾井勝人・前会長の「側近中の側近」「籾井シンパ」と呼ばれ、2014年には専務理事・放送総局長に昇格した人物だ。

そして、この板野氏こそ、『クローズアップ現代』の国谷裕子キャスターを降板させた張本人と言われているのだ。

今回の人事について、毎日新聞はこう報じている。

〈16年3月に「クローズアップ現代」の国谷裕子キャスターが番組を降板。複数のNHK関係者によると、番組全般を統括する放送総局長だった板野氏が、番組に対する政権内の不満を背景に降板を主導したとされる。また、15年の安全保障関連法案を巡る国会審議中、個別の番組で政治的公平性を保つのが難しいとの理由で、安保関連の複数の番組の放送を見送るよう指示したとも言われる。〉(Web版8日付)

板野氏が国谷キャスターを降板に追い込んだ──。じつは、今年2月に発売された『変容するNHK 「忖度」とモラル崩壊の現場』(花伝社)でも、約30年にわたってNHKを取材してきた朝日新聞記者・川本裕司氏がこの内幕を詳細にわたって紹介。そこでは、NHK報道局幹部が「国谷キャスターの降板を決めたのは板野放送総局長だ」と証言。さらに、別の関係者は板野氏についてこう語っている。

「クロ現で国民の間で賛否が割れていた安保法案について取り上げようとしたところ、板野放送総局長の意向として『衆議院を通過するまでは放送するな』という指示が出された。まだ議論が続いているから、という理由だった。放送されたのは議論が山場を越えて、参議院に法案が移ってからだった。クロ現の放送内容に放送総局長が介入するのは前例がない事態だった」

じつは、こうした板野氏の官邸の意向を受けた現場介入については、以前から証言が相次いでいた。たとえば、2016年に刊行された『安倍政治と言論統制』(金曜日)では、板野氏の背後に官邸のある人物の存在があると指摘。NHK幹部職員の証言として、以下のように伝えていた。

〈板野のカウンターパートは杉田和博官房副長官〉

〈ダイレクトに官邸からの指示が板野を通じて伝えられるようになっていった〉

杉田和博官房副長官といえば、警察庁で警備・公安畑を歩み警備局長を務めた公安のエリートであり、安倍氏が内閣官房副長官だった時期に、同じ内閣官房で、内閣情報官、内閣危機管理監をつとめたことで急接近し2012年の第2次安倍内閣誕生とともに官房副長官(事務担当)として官邸入り。以後、日本のインテリジェンスの中枢を牛耳る存在として、外交のための情報収集からマスコミ対策、野党対策、反政府活動の封じ込めまで一手に仕切っている。実際、官邸のリークで「出会い系バー通い」を読売新聞に報道された前川喜平・元文科事務次官は、その前年の秋ごろ、杉田官房副長官から呼び出され、「出会い系バー通い」を厳重注意されたと証言している。

務理事に復帰する板野氏は杉田官副房長官、JR東海・葛西敬之氏とべった

板野氏は安倍首相の「後見人」と呼ばれる葛西敬之・JR東海名誉会長ともパイプをもつ。そして、杉田氏はJR東海の顧問をつとめていたこともあり、安倍首相に杉田氏を官房副長官に推したのも葛西名誉会長だといわれているほど。こうしたなかで杉田官房副長官の“子飼い”となった板野氏だが、NHK新社屋建設にかかわる土地取引問題では籾井会長に反旗を翻し、結果、籾井会長から粛清人事を受けて2016年4月に専務理事を退任した。

もちろん、このとき板野氏が籾井会長を裏切ったのも杉田官房副長官の意向に従っただけで、実際に官邸は任期満了で籾井会長を引きずり下ろす方針で動いていた。逆に、粛清人事で板野氏を専務理事から外した籾井会長に対し、杉田官房副長官や菅義偉官房長官は怒り心頭。そのため、じつは籾井会長の後任は板野氏が選ばれるのでは、という見方も出ていたほどだった。

ようするに、板野氏の専務理事復帰は満を持して官邸主導でおこなわれたわけだ。いったいNHKはこれからどうなってしまうのか。

 そもそも、板野氏の復帰以前に、NHKの報道局幹部幹部は完全に安倍政権の言いなり状態になっていた。

 たとえば、森友問題をめぐるNHK内部の“圧力”などを暴露したノンフィクション本『安倍官邸vs.NHK 森友事件をスクープした私が辞めた理由』(文藝春秋)を出版した元NHK記者の相澤冬樹氏は、局内上層部からの“圧力”を赤裸々に明かしている。

 その最たる例が、2017年7月26日の『NHKニュース7』で報じられた相澤記者のスクープをめぐる“恫喝”だ。これは近畿財務局の担当者が森友側に国有地の購入価格について「いくらまでなら支払えるか」と購入可能な金額の上限を聞き出していた、という事実を伝える内容。それまで「森友側との事前交渉は一切なかった」と強弁してきた財務省のウソ、佐川宣寿理財局長(当時)の虚偽答弁を暴く特ダネで、すべての大手マスコミが後追いに走った。しかし、その渾身のスクープ当日の夜、NHK局内では、こんなことが起こっていた。

〈ところがその日の夜、異変が起きた。小池報道局長が大阪のA報道部長の携帯に直接電話してきたのだ。私はその時、たまたま大阪報道部のフロアで部長と一緒にいたので、すぐ横でそれを見ていた。報道局長の声は、私にも聞こえるほどの大きさだ。「私は聞いてない」「なぜ出したんだ」という怒りの声。〉

この「小池報道局長」というのは、政治部出身で安倍官邸とも強いパイプを持つとされる小池英夫氏のこと。国会でも取り上げられたように、森友問題関連のニュースで現場に細かく指示を出しているのは周知のとおりで、局内ではその頭文字から「Kアラート」なる異名がついている。相澤氏の著書によれば、小池報道局長からの大阪の報道部長への“怒りの電話”は、いったん切れても何度も繰り返しかけてきたという。

報道局長が森友報道の記者に「将来はないと思え」と恫喝するNHK

しかも、信じがたいのは、小池報道局長の最後のセリフだ。

〈最後に電話を切ったA報道部長は、苦笑いしながら言った。
「あなたの将来はないと思え、と言われちゃいましたよ」
 その瞬間、私は、それは私のことだ、と悟った。翌年6月の次の人事異動で、何かあるに違いない……。〉

 大スクープを掴んだのに、逆に「将来はないと思え」と恫喝する──。これは加計問題でも同様のことが起こっている。NHKは、文科省の内部文書をスクープできたというのに、肝心の「官邸の最高レベルが言っている」などの部分を黒塗りにしてストレートニュース内で消化するという“忖度”報道を行い、翌朝の朝日新聞にスクープを譲ってしまった。さらに、早い段階で前川氏の独占インタビューも収録していたにもかかわらずお蔵入りにしてしまった。

前述した『変容するNHK』では、当時の出来事として、こんなエピソードが紹介されている。

〈NHK関係者によると、加計学園問題を取材する社会部に対し、ある報道局幹部は「君たちは倒閣運動をしているのか」と告げたという。〉

このように、NHKには社会部が安倍政権に都合の悪い事実を伝えようとすると、安倍政権の意向に沿うことしか頭にない政治部、報道局幹部がそれらに介入するという図式ができあがっているのだ。

それに加えて、今回、“官邸の最大の代弁者”ともいえる板野氏が専務理事に復帰するのである。官邸はもっと直接的に報道に介入し、現場の萎縮はさらに進んでゆくことは間違いない。っこれまでは社会部のぎりぎりの奮闘によって、政権の不正や疑惑を追及する報道がわずかながらも放送されていたが、そうした報道は完全にゼロになるかもしれない。

この異常な状況を打ち破るには、視聴者がメディアを監視し、声を上げてゆくほかない。本サイトもNHKの「忖度」報道を注視つづけるつもりだ。

(編集部)







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日本金融史10 ロスチャイルドの番頭、渋沢栄一

2019-04-18 08:11:53 | 杉並からの情報発信


日本金融史10 ロスチャイルドの番頭、渋沢栄一

2008-12-22 『金貸しは、国家を相手に金を貸す』

http://www.kanekashi.com/blog/2008/12/762.html

『日本金融史9 イギリスがプロデュースした明治維新?』とそれに続く、『暗躍する外交官と「金貸し」の支配戦略』でどうやら明治維新という日本における変革を成し遂げた背景に、『金貸し』の力が働いたと書きました

次はイギリスの金貸し(=ロスチャイルド家)が維新後の日本のマーケットをどのようにコントロールしていったのか、そして日本という国がどう変わっていったのか気になりますね

そこで、イギリスに倣って新産業興隆、富国強兵政策を推し進めた日本に焦点を当ててみます

まず、明治時代の殖産興業を主導した人物として筆頭に挙げられるのが渋沢栄一です。

さて渋沢栄一とはどういう人物だったんでしょうか

三井総本家には三野村利左衛門という人物がいました。この人が明治はじめの三井の大番頭です。三野村は、優れた幕府重臣だった小栗忠順(上野介)の使用人だった人ですが、三井家をよく支えて幕末維新期を上手に切り盛りしました。

明治期に入り最初に日本との関係を深めた金貸しはロスチャイルド家でした。ロスチャイルド=三井を結びつける政界の窓口は長州藩出身の内務卿、井上馨。実務能力のない井上に代わって実務面の采配を振るった官僚のトップが渋沢栄一です。渋沢は生涯をかけて日本産業興隆に尽力した人物で、91歳まで生きて約500もの会社の設立に関わります。

日本の金貸し支配への変貌を探るにあたり、この『渋沢栄一』の生涯を追ってみました

生い立ち

1840 天保11年 2月13日武蔵国血洗島村(現埼玉県深谷市)に生まれる。幼名は市三郎。のちに、栄一郎、篤太夫、篤太郎。渋沢成一郎は従兄。

渋沢家は大農家で原料の買い入れと販売を担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。14歳の時からは単身で仕入れに出かけるようになり、この時の経験がヨーロッパ時代の経済システムを吸収しやすい素地を作り出し、後の現実的な合理主義思想につながったとされる。

徳川慶喜の家臣・幕臣として

1858 安政5年 18歳の時に惇忠の妹千代と結婚。
1861 文久元年 江戸に出て海保漁村の門下生となる。

また北辰一刀流の千葉栄次郎の道場に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶ。その影響から尊皇攘夷の思想に目覚め、高崎城を乗っ取り、横浜を焼き討ちにして、幕府を倒す計画をたてる。しかし、惇忠の弟長七郎の説得により中止する。

1864 元治1年 一橋慶喜に仕える。
1866 慶応2年 慶喜が将軍となったのに伴い、幕臣となる。
1867 慶応3年 パリで行われる万国博覧会に出席した慶喜の弟徳川昭武の随員として、フランスを訪れる。パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する。

大蔵省出仕?実業家時代

1868 明治1年 帰国し、静岡藩に出仕することを命じられるが、フランスで学んだ株式会社制度を実践するため断る。
1869 明治2年 商法会所を設立するが、大隈重信に説得され、大蔵省に入省する。改革案の企画立案を行ったり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わる。
1873 明治6年 予算編成を巡って、大久保利通や大隈重信と対立し、井上馨と共に退官
1875 明治8年 官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(現:みずほ銀行)の頭取に就任。七十七国立銀行など多くの地方銀行設立も指導。多種多様の企業の設立に関わる。
社会活動

1885 明治18年 養育院の院長を務める。

社会活動に熱心で、他にも東京慈恵会、日本赤十字社、癩予防協会の設立などに携わり財団法人聖路加国際病院初代理事長、財団法人滝乃川学園初代理事長、YMCA環太平洋連絡会議の日本側議長などもした。

1923年 大正12年 関東大震災後の復興のために、大震災善後会創立、副会長になる。

商業教育にも力を入れ商法講習所(現一橋大学)、大倉商業学校(現東京経済大学)、早稲田大学、二松学舎(現二松学舎大学)、学校法人国士舘、同志社大学の寄付金の取り纏めに関わった。また、女子の教育の必要性も考え、女子教育奨励会、日本女子大学校、東京女学館の設立に携わった。

1927 昭和2年 日本国際児童親善会を設立。他にも中国で起こった水害の水災同情会会長を務め、民間外交の先駆者としての側面もある。

1931 昭和6年 11月11日永眠。
 
渋沢栄一は「私が私利私欲に走れば、三井も三菱も相手ではない」という言葉を残しています。

そのとおりに受け止めていいと思いますが、それを言わせるバックボーン(=ロスチャイルドの後ろ盾)があったのだと思われます。

1867年のパリ万博の時にフランスに渡った渋沢は銀行家のフリュリ・エラールから銀行業、近代の金融業を学んでいます。このエラールのボスがアルフォンス・ド・ロスチャイルド伯爵で、フランス・ロスチャイルド家の総帥だったんです

渡仏中に日本では大政奉還があって幕府が倒れ、帰国した渋沢は、維新後の明治新政府に招かれます。実務能力のない政府要人に代わって采配をふるうのですが、沼津兵学校出身者など元幕臣の俊才たち(前島密、赤松則良、杉浦愛蔵、塩田三郎ら)を呼び寄せて実務を担当させました。

明治6年、大蔵省を退官した渋沢は三井組を筆頭株主とした日本最初の銀行「第一国立銀行」(のちのみずほ銀行)を設立してます。

明治15年、日本銀行が誕生し、第一国立銀行は第一銀行となりました。日本銀行が出来るまでは渋沢の第一国立銀行が紙幣を発行していたそうです

渋沢を三井の大番頭と書いている書物もありますが、三井の大番頭(三野村利左衛門、中上川彦次郎、益田孝ら)を意のままに動かしたロスチャイルドの番頭というほうが的を得ているのではないかと思います

渋沢は第一国立銀行を拠点に多くの会社を興しました。王子製紙、東京海上保険、東洋紡、日本郵船、東京ガス、サッポロビール、帝国ホテル、石川島播磨重工業、渋沢倉庫……等々、どれも始まりが国営(官営)企業だった大会社の多くを渋沢が創ったんですね!

(終わり)






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初めての九州の旅

2019-04-18 07:03:22 | 身近な出来事


今日は、はじめに1週間もの長い期間投稿しなかったことについてお詫びします。その理由は、結婚30周年で、まだ一度も行ったことのない九州へ初めての列車の旅に、4月11日、名古屋を7時29分発、北九州市小倉を10時30分着の「のぞみ」で、出かけ4月16日、博多発18時10分、名古屋着21時30分で帰りました。下関から門司の関門海峡連絡橋からレトロ門司、小倉の松本清張記念館などとても有意義な旅でした。




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