『名も無く豊かに元気で面白く』

読んだ本、ニュース、新聞、雑誌の論点整理、備忘録として始めました。浅学非才の身ながら、お役に立てれば幸いです。

❝謹賀新年❞前場はコメで破産 後場は“美味”に賭け大勝ち 味の素創始者❝鈴木三郎助❞

2018-01-01 08:37:44 | 日記

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。さて、年頭に当たり申し上げたいのは❝人生七転び八起き❞人間はもっとも勇気のある動物です。ニーチェは、人間は勇気によって動物や自然を征服してきたのだと説いています。無気力や苦悩、痛み、他人から向けられる同情を殺すのは勇気。「これが人生だったか、ならばもう一度!」。ニーチェのいうように、勇気を持てばこそ、私たちは死をも恐れず、前を向いて人生に立ち向かっていけるのです。下記の味の素の創業者鈴木助三郎もその一人。腹を据えて、諦めなければ、いつでも人生は開かれるのです。

以下抜粋コピー

木三郎助(さぶろうすけ)の投資家人生の“前場”は、米穀仲買人であった先代の相場好きを引き継いだのか、コメ相場にのめり込むも、うまくいかず散財してしまいます。しかし、負けて実家に帰ってからの“後場”は、「美味」に賭け、歯車が好転し始めました。味の素創始者、2代目三郎助の“懲りない”投資家人生を鍋島高明さんが解説します。

 若い頃から相場好き コメ相場で初代が築いた財産なくす

 味の素株式会社の創始者である2代目鈴木三郎助は若いときから相場が大好きだった。経済評論家の小汀利得(おばま・としえ、元日経新聞社長)が言っている。

 「教育は小学校を出たきりで、投機もやれば、親や女房を泣かせてもおり、けんかもなかなかやる。そして進退きわまれば、敵の軍門に降を請うのにちゅうちょしないところ、世の凡人とほとんど変わるところがない」

 2代目鈴木三郎助は神奈川県葉山出身、父忠七(初代三郎助)は米穀仲買で度胸のいいことでよく知られていた。その血を引いた2代目は浦賀の酒・米穀商に奉公に出て主人とコメ相場の研究、実践に努めた。 18歳で家業を継ぎ、20歳で結婚すると、かねての夢だった相場の街、東京蛎殻町(かきがらちょう)に乗り込んでいく。2代目は、田舎者にみられるのを嫌い、りゅうとした結城紬の羽織を着て蛎殻町の客となる。小柄で色は浅黒く、手を出せば噛み付きそうな鋭い気迫が眉間にみなぎっていた。だが、相場は意の如くにはならない。石川悌次郎(石川達三の弟)が『鈴木三郎助伝』の中で書いている。

 「今日は舟を売り、明日は田地を抵当に入れ、つぎには山林を手放したといった具合に、ありとあらゆる親譲りの資産を現金にかえて、期米(先物)相場・正米(現物)相場の一高一低に自分と自分一家の運命の打開を図った」 こうして2代目が蕩尽(とうじん)した資産は3万円(現在なら数億円)にのぼる。先代が他界したとき、鈴木家には運送船5隻と膨大な山林が残されていたが、3年ほどでそっくり他人名義になった。

 2代目が蛎殻町でコメ相場にはまっていたとき、母親・なかが「今度こそは、えり髪をつかんでも葉山に連れて帰る」と言って上京する。そのころ、2代目は蛎殻町のカオになっていたが、「おふくろは苦手だ。なんとかしてうまく帰してくれ」と言い残して雲隠れ。母は空しく新橋駅前の一膳飯屋でニガイ米を食って引き揚げていったが、2代目は離れたところから母の一挙一動を眺めていて、汽笛一声、母の汽車が新橋をたつのを手を合わせて拝んでいた。

 2代目の妻テルも腹がすわっていた。実家の両親から一刻も早く別れて帰ってこいと、言われたとき、「たとい乞食の境遇に落ちぶれましょうとも、私は三郎助の妻です。嫁いだ以上は骨が砂利になっても里に帰るつもりはありません」ときっぱり断った・・・。

コメント (2)
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